2017年11月22日

10、11月の読書(2017)

突然の解散、総選挙でロクに本も読めなくなってしまったが、帰京後は涼しくなってきたので、それなりのペースで読書できている。

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『じゅうぶん豊かで、貧しい社会:理念なき資本主義の末路』 ロバート・スキデルスキー、エドワード・スキデルスキー 筑摩書房(2014)
経済学というよりも、哲学から現代の資本主義と経済学の有り様を問い直す書になっている。ロバート・スキデルスキー師は、ケン先生も尊敬するケインズ学者だが、共著者で息子のエドワードは中世哲学の研究者であることにも起因している。経済成長や技術革新が進めば進むほど、所得格差や資産格差が進み、貧困が内在化してゆく現代資本主義の特徴を見つめ直し、「豊かになることが幸福」という従来唱えられてきた価値観を横に置いて、「貪欲からの脱却」「(精神的幸福ではなく)良い暮らしを実現するための基本的価値」を思索、追究してゆく。例えば、一定以上の所得のあるものは、所得の多寡で幸福や満足が左右されることはなく、家電製品の普及は実は家事労働時間を大きくは減らさなかった。ケインズは1930年代の経済成長率や技術進歩を見て、百年後には資本主義が抱える諸問題は解決され、生活に必要な収入を得るには少々の労働時間で十分となり、人々は余暇を楽しみ、創造的な活動に専念できると予想した。だが、現実には技術革新で中間的な雇用は失われ、貧困層は低賃金が故に超長時間労働を強いられ、富裕層は富裕層でさらなる貪欲を追求するために長時間労働に従事している。現代の先進国や中進国が例外なく抱えている問題であり、「経済成長と再分配がなされれば十分なのか」という視点から、政治に関心のあるものは必読だろう。

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『兵農分離はあったのか−中世から近世へ』 平井上総 平凡社(2017)
ごく一部の専門家を除くと、すこぶる便利なキーワードと化している「兵農分離」を再定義する試み。一般的には、「織田・豊臣などの先進的な戦国大名が兵農分離を進め、プロフェッショナルの軍隊を作り上げて、天下を統一した」という説明が定着しているが、果たして兵農分離は本当に政策化されていたのか、織田・豊臣が推進したのか、そもそも兵農分離の概念とは何なのかを一から問い直している。戦国分野の研究は非常に進んでおり、常にアンテナを張って知識を更新しないとすぐに遅れてしまうところが刺激的でもある。

『戦争と農業』 藤原辰史 集英社インターナショナル新書(2017)
シンプルながらセンセーショナルな題名になっているが、戦争と農業の関係に触れているのは前半部のみで、やや難がある。本書のテーマは、技術革新によって農業や食の有り様が大きく変化する中で、飢餓と貧困は解決の目処すら立っておらず、農業の産業基盤が脆弱化し、食糧の寡占が進む現代社会への警鐘である。いくつかの講演をまとめたもので、問題提起は良く理解できる。飽食が進む一方で、農業と食の課題はますます深刻化していることが分かる。

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『習近平政権の新理念−人民を中心とする発展ビジョン』 胡鞍鋼ほか 日本僑報社(2017)
献本いただいた一冊。習近平政権のブレインである胡鞍鋼氏(清華大学教授)が、現代中国が目指す「六大発展理念」を解説している。概念的で網羅的なので、中華学徒ではない私などは「ふむふむなるほど」と言うほかないのだが、同時に「やはりまだまだ近代化が課題なのだな」とも思う。衰退期まっただ中にある日本人としては、眩しいまでのパワーを感じる。

『物語フィンランドの歴史−北欧先進国「バルトの乙女」の800年』 石野裕子 中公新書(2017)
自分はフィンランド好きではあるが、通史は読んだことが無いので、一度読んでみようと。コンパクトに上手くまとめられ、記述も客観的で好感が持てる。
posted by ケン at 12:44| Comment(0) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月21日

目上の暴力こそ日本の伝統では?

【菅義偉官房長官「力士は土俵外でも伝統の重みを受け止め行動を」と苦言 「迅速な事実解明が大事」】
 菅義偉官房長官は15日午前の記者会見で、大相撲の横綱日馬富士による暴行問題に関連し「力士は土俵の外においても、長い伝統の重みをしっかり受け止めながら、稽古に精進し、心技体を極め、行動することを多くの国民が求めている」と苦言を呈した。
 菅氏は「詳細は承知していないので政府の立場としてコメントは控えたい」としたものの、「大相撲はわが国の国技であり、国民の関心も極めて高いスポーツだ」と述べた。
 その上で「まずは相撲協会で、しっかり調査を行うという報告を受けている。迅速に事実関係を解明することが大事だ。その結果を踏まえて、文部科学省において適切に対応していく」と述べた。
(11月15日、産経新聞)

これも色々突っ込みどころ満載。
中小企業の社長や大会社の部長が、嫌がる部下を飲みに連れて行って、酔っ払って部下に対して説教を始め、「態度が悪い」などと難癖をつけてぶん殴るなどというケースは、日本企業では「伝統」の部類に入るだろう。日馬富士は、むしろ「日本型組織の伝統」に忠実だったとみるべきで、少なくともエリート層から非難されるいわれは無い。
自分の経験でも、中学校だかの部活動で、くだらないことで先輩から延々と説教された挙げ句、「態度が悪い」と小突かれた覚えがある。日本社会では、軍隊でも学校(部活動)でもごくありふれた日常風景であり、日馬富士の問題は程度の話に過ぎない。もちろん、そうした文化・伝統が野蛮で非人道的なものであるというのは別の話だ。

さらに言えば、これも個人的な体験に由来するが、モンゴル人の飲み会というのは相当に野蛮なものであるケースが多く、例えば私が学んだ大学の留学生寮では、たびたびモンゴルからの留学生がどんちゃん騒ぎをして、設備を破壊するなどの問題を起こしていた。ロシアの大学でも同様の話を聞いたことがある。

こうした「文化」はかつての日本でも見られた。例えば、明治初頭に薩摩人が大量に上京してきた際には、「薩摩人が宴会やるたびに料理屋が一軒潰れる」などと言わるほど薩摩人の酒乱ぶりは有名で、彼らは飲むと必ず大暴れして、大乱闘になった。また、宴がたけなわになると、天井から銃をつるして、クルクル回す「ロシアンルーレット」も本当にあったらしい。
それは、明治政府の大官となったようなものでも同様で、重要な案件で会議が煮詰まると、殴り合いの喧嘩で決めるといったようなことすらあったらしい(当然、薩摩人同士の時に限るが)。
鉄道敷設をめぐって、逓信大臣の黒田清隆と参謀次長の川上操六が対立した折も、双方主張を譲らず、最後には黒田が、「陸軍さえよければ、鉄道で国が滅びてもいいのか!」とテーブルを叩きながら怒号した挙げ句、「まだ文句を言うなら、表に出ろ!」と掴みかからんが勢いになったため、周囲のものが必死に止めたという。
この黒田は、首相すらも務めたが、凄まじい酒乱で、酔うと刀を抜いて、所構わず斬り、自分の妻すらも斬り殺してしまったという伝説が残っている。

初期の海軍兵学寮は、薩摩出身者が多かった。
日露戦争時の海軍大臣だった山本権兵衛などは、典型的な「薩摩っぽ」で、
「山本権兵衛首謀となりて、しばしば教官排斥の運動を起こし、教官室に乱入し、あるいは教官と乱闘し、あるいはテーブル、イスなどを破壊し、流血の暴挙を演ずるに至れり」
『伯爵山本権兵衛伝』

と書かれるような始末だった。明治7年(1874年)のことである。
それ以前に明治5年には、
「爾今海軍兵学寮園内にて立小便するを禁ずる」
なる布告が出されていた。当時、休憩時間や放課後になると、生徒たちがどっと出てきて、兵学寮の庭先でズボンをずりおろし、我先と立小便をするような有様だった。
日本人士官が生徒を追い立て、英国人教官が、生徒を便器の前に立たせて、ズボンのボタンをはずさせて、用を足させるよう指導することから、日本の海軍教育は始まった。

話を戻そう。モンゴル人社会では、「偉い人は何をしても許される」「目上には絶対服従」などの文化が色濃く残っているらしく、今回の事件は過剰な形で発覚しただけのことだった。そして、それは日本社会にも共通するものであることを、我々は重々承知しておく必要がある。

なお、角界の蛮性については、ちばてつや先生の名作『のたり松太郎』を参照されたい(最初の10巻程度で十分)。

【追記】
で、こうなるわけです。
【貴ノ岩も殴っていた!夏巡業中、同じモンゴル人力士を…日馬富士激怒の一因か】
大相撲の横綱・日馬富士=伊勢ケ浜=に暴行を受けた前頭8枚目・貴ノ岩=貴乃花=が、今年の夏巡業中に同じモンゴル人力士を殴打していたことが18日までに分かった。
(11/19、スポーツ報知より抜粋)
posted by ケン at 13:02| Comment(3) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月20日

無償化が加速させる制度瓦解

【<教育無償化>高等教育に8000億円 2兆円配分の大枠】
 政府は教育無償化など2兆円規模の政策パッケージについて、配分の大枠を固めた。大学など高等教育の無償化に約8000億円を配分。幼児教育・保育の無償化では、0〜2歳児に100億円程度、3〜5歳児は8000億円程度を充てる。高等教育と0〜2歳児については、無償化の対象を住民税非課税世帯(年収約250万円未満)に限定する方針。今後、自民、公明両党と調整したうえで来月上旬にも取りまとめる。
 高等教育の無償化については、対象を住民税非課税世帯に絞る。具体的には、現在、住民税非課税世帯の子どもを対象に毎月2万〜4万円を支給している給付型奨学金の金額を、年間100万円程度に引き上げて生活費も賄えるようにする。無償化の対象にならない低所得世帯についても、不公平が生じないような仕組みの導入を検討する。
 大学授業料についても、住民税非課税世帯の子どもを対象に国立大学の授業料(年間約54万円)相当額まで減免し、実質無償化する。国立大学より授業料の高い私立大学については、上限を定めたうえで一定金額を上乗せして免除する。
 0〜2歳児の保育所の無償化も、住民税非課税世帯を対象とする。すでに、生活保護世帯や住民税非課税世帯の第2子以降は無償だが、対象を住民税非課税世帯の第1子まで拡大する。
 3〜5歳児の幼稚園、保育所については、年収に関係無く無償化する。ただ、授業料が高額な私立幼稚園は、一部負担を求める方向で検討する。
 そのほか、保育の受け皿整備など待機児童対策に約3000億円、一定の勤務経験がある介護職員の待遇改善などに約1000億円を充てる。
 2兆円は、2019年10月の消費税率10%への引き上げの増収分の使い道を見直して約1.7兆円を確保する。残る約3000億円については、企業が負担する社会保険の事業主拠出金の増額で確保する。
 教育無償化は、安倍政権が掲げる看板政策「人づくり革命」の柱の一つ。政府内で検討が進む一方、自民党は8日から教育無償化などを検討する会合をスタートさせており、政府は与党と調整を進める方針だ。
(11月9日、毎日新聞)

高等教育の無償化は、日本が批准した国際人権規約にも定められており、もはや国際公約の一つで履行義務があるわけだが、その一方で高等教育をめぐる基盤や環境は悪化の一途を辿っている。脆弱なインフラの中で無償化を強行した場合、インフラそのものが瓦解する恐れがある。

その先例として挙げられるのが医療と介護。中でも小児科・産婦人科医療の崩壊は特に地方で顕著となっている。少子化が加速する地方では、特に小児医療の無償化がポピュリズム的支持を集めやすく、政策化された結果、ただでさえ脆弱な小児科に「患者」が殺到し、逆に小児科の閉鎖や小児科医の転居が進み、空白化してしまっている。
日本では、全ての医療が公定価格の計画経済下にあり、診療報酬が低めに抑えられる中、高コスト体質の小児科医療は財政的に成り立たないことが大きい。一般的に、小児医療は診察に時間がかかると同時に、大人の医療よりも多くの看護師を必要とするため、コストが大きく、利益が少ない。病院が財政難に陥った場合、真っ先にコストカットの対象にされるのが小児科なのだ。これを無償化すると、診察の必要すら無いような超軽度の患者まで受診することになるが、小児科医の負担が重くなると同時に、経営は悪化するという悪循環に陥る。結果、中小の病院は小児科を閉鎖、開業している個人の小児科医は都市部に移転するところとなっている。

保育の無償化も同じことが起きるだろう。ただでさえ供給が限界に達している保育産業で、無償化が実現された場合、さらに需要が急増することは間違いなく、多数の「待機児童」が出ると同時に、無理な供給に対応してサービスの質も低下、保育士の労働環境や待遇もさらに悪化、保育士の大量離職が進む恐れが強い。保育も公定価格であるため、保育士の待遇改善は容易ではなく、公費を投入すれば、財政赤字が増えるばかりとなる。制度の持続性を考慮しない無償化は必ず失敗するのだ。

大学などの高等教育の場合、現時点ですでに「私立大学の4割が定員割れ」と言われる。これらは本来競争力を持たない大学と判断されるわけだが、無償化が実現することで淘汰されることなく、存続する可能性が出てくることを意味する。
また、日本の高等教育機関は大半が財政難にあり、事務職員や教員の非正規化、次いで非正規の雇い止めをもって人件費の切り詰めに勤しんでいる。結果、正規教員でも授業負担や事務負担が膨大なものとなっている上、受け持つ生徒数も増大している。「受け持ち授業が週15コマ」「学生20人以上のゼミ」などはザラだという。同時に、文科省から天下ってきた学長などの大幹部によるパワハラなども横行、離職率は高止まりして、もはやブラック企業同然という声もある。
こうした環境の中で、無償化によって需要のみが増えた場合、本来競争力を持たない大学が生き残ってしまう上、ブラック化した労働環境がさらに悪化する恐れが強い。その結果、ただでさえ低下傾向にある研究・教育の質もさらに低下、高等教育とは名ばかりの「高等保育所」になってしまいそうだ。
posted by ケン at 12:55| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月18日

ポリーナ、私を踊る

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『ポリーナ、私を踊る』 ヴァレリー・ミュラー、アンジュラン・プレルジョカージュ監督 フランス(2016)


ボリショイ・バレエ団のバレリーナを目指すロシア人の女の子ポリーナは、厳格な恩師ボジンスキーのもとで幼少の頃から鍛えられ、将来有望なバレリーナへと成長していく。かの有名なボリショイ・バレエ団への入団を目前にしたある日、コンテンポラリーダンスと出会い、全てを投げうってフランスのコンテンポラリーダンスカンパニー行きを決める。新天地で新たに挑戦するなか、練習中に足に怪我を負い彼女が描く夢が狂い始めていく。ダンスを通して喜びや悲しみ、成功と挫折を味わい成長していく少女。彼女が見つけた自分らしい生き方とは…。

フランスのダンスBD(漫画)を映画化した作品。基本的には漫画原作の実写映画は見ないことにしているが、フランスものだし、原作知らないし、ダンス描写が美しいとの評判だし、ということで見に行った。たぶんポーランドの「ウィッチャー」だって実写化されれば見に行くかもしれない。

いわゆる「ダンス映画」というのとは少し違って、基本はバレエとダンスを通じた少女の成長物語なのだが、肝心のストーリー部分がぶっ飛び過ぎていて、非常に微妙な仕上がりになっている。ぶっ飛んでいるというのは、ヒロインの感情が殆ど描かれないのに、唐突に「トンデモ」な決断をしてあらぬ先に飛んでいってしまうため、観客としては「置いてかれ感」がハンパ無い。私などは年齢的にどうしても父親に同情してしまう一方、ヒロインは情が強くて身勝手ばかりで何ら共感できるところが無かった。本作を見るには、自分は年を取り過ぎたのかと思うほどだ。
家庭背景などが興味深く設定されているだけに、惜しいところが多い。ひょっとしたら単に演技が下手だったからなのかもしれないが、ヒロインのキャラ設定が日本人には難解すぎるような気がする。

その一方で、確かに前評判通り、バレエやダンスの練習シーンは振付も含めて非常に興味深く、繊細に描かれているし、ロシアのバレエ・スクールとフランスのバレエ団の対比も非常に面白い。先生方も「いかにも」な感じで、脚本や台詞も「なるほど」と思わせるところが多いだけに、全体のアンバランスさが惜しまれる。
原作の問題なのか、実写化の問題なのかは、原作を読んでいないので分からない。
posted by ケン at 13:00| Comment(0) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月17日

日本の高等教育は崩壊過程

【龍谷大・ゼミ受講めぐり学生らが申し立て 京都】
 京都市の龍谷大学で、教員不足によりゼミを受講できず、学習権を侵害されたとして、学生らが京都弁護士会に人権救済を申し立てました。
 人権救済を申し立てたのは龍谷大学の経営学部の学生らで、6日に会見を開きました。龍谷大学経営学部では、2年生の後期から受講する少人数制で専門性の高い「ゼミ」と呼ばれる授業の数が、教員不足のため、かつての25クラスから今年度は18クラスまで減少。2年生500人のうち、およそ80人がゼミを受講できない「未ゼミ生」となっています。学生側は、「学習権を奪われている」と主張。さらに、「就職活動で不利になる可能性がある。同じ学費を払っているのに質が違うのは、おかしい」と主張しています。学生らは、今年6月、およそ330人分の署名を大学に提出しましたが、何ら対応が示されないことから、弁護士会に人権救済を申し立てたということです。龍谷大学は、「申し立て書を見ていないので、現時点でのコメントは控える」としています。
(11月6日、朝日放送)

大学に入学しながら、ゼミに参加するために就(ゼミ)活が必要な時代。確かに自分が大学院に通っていた十数年前も、学部ゼミには20人以上も学生がいるものもあって、場合によっては30人近いものもあり、「まともにやったら一年に一回も報告できないじゃん」と思ったものだった。
記事のケースで考えても、開講されているゼミが18に対し、「未ゼミ生」を除く420人が参加、平均するとゼミ当たり23人を超えている。現実には人気ゼミとそうでないゼミがあるので、多いところでは30人前後もいるのだろう。
確かに「少人数制」という場合の少人数の定義は定まっていないものの、少なくとも20人を超えるものは少人数とは言えないだろう。「高等教育」と言うからには、10人以下にして欲しいくらいだ。
「同じ学費を払っているのに、ゼミが受けられないのはおかしい」という学生の苦情は全く正当なものだ。

だが、教員は教員で一昔前(例えば80年代)は、週5、6コマの受け持ちだったものが、90年代以降増え続け、いまや10コマは当たり前(最低ラインくらい)で、15コマという話も聞く。これは、90年代以降の規制緩和で大学院が広く設置された他、様々な授業が増え、授業数が厳密に管理されるようになったことなどが影響している。授業を持つということは、少なくとも授業時間と同じ時間数を準備に充てる必要があり、授業が増えれば増えるほど教員の負担は加速度的に重くなる。
自分もロシアの大学で2年ほど教えたが、臨時的に10コマ持ったときは準備が大変で、「これ以上増えたらクオリティが落ちる」と思ったものだった。それも、事務仕事など殆ど無い状態だったのだから、ムダに事務仕事や書類作業の多い日本の大学の勤務環境は非常にブラックなものになっている。

この間、大学の経営環境は悪化の一途を辿っており、90年代以降、まず教員や職員の非正規化が進んだあと、ここ10年くらいでは非正規の雇い止めと正規教員の負担増(割り当て増)が進んでいる。
その結果、大学教員の研究時間が減り、論文数の減少に直結している。また、授業のクオリティも低下の一途を辿り、学生の質的劣化も相まって、高等教育のクオリティ自体が恐ろしく低下している。一種の負のスパイラルだろう。

危機を回避するためには、高等教育に対する公的資金の投入、中央規制(授業数の厳正管理や文科役人の天下りなど)の撤廃などが考えられるが、現実には全て逆を行っている。
posted by ケン at 12:31| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

質問時間配分の妥当性について

【野党の質問時間削減「反対」55% 朝日新聞世論調査】
 朝日新聞社が実施した11、12両日の全国世論調査(電話)によると、国会での野党の質問時間を減らす自民党の提案に「反対」は55%で、「賛成」の29%を上回った。6日にあった日米首脳会談については59%が「評価する」とした一方、日米が一致して北朝鮮への圧力を高めていくことには、「不安の方が大きい」56%が「期待の方が大きい」35%を上回った。
 今回の日米首脳会談を「評価する」とした層でも、北朝鮮に圧力を高めていくことには「期待」48%、「不安」45%と拮抗(きっこう)。トランプ大統領を同盟国のリーダーとしてどの程度信頼できるか聞くと、「あまり」と「まったく」を合わせた「信頼できない」は61%に上り、「大いに」と「ある程度」を合わせた「信頼できる」の37%を大きく上回った。
 野党の質問時間削減案については、自民支持層では「賛成」48%、「反対」37%。これが無党派層では逆転し、「賛成」が18%、「反対」は59%に上った。
(11月14日、朝日新聞)

12月9日までの会期となった特別国会だが、冒頭から質問時間の配分をめぐって与野党が衝突、停滞している。
従来慣例的に質疑時間は「与党2対野党8」で配分されてきたが、今回自民党内から議席比で「与党7対野党3にせよ」との主張がなされ、森山国会対策委員長は「与党5・野党5」を主張、野党が全面的に反対、徹底抗戦している状態だ。「慣例」とは、国会法などに既定が無いことを意味する。

日本は議院内閣制で、閣僚は政権党の議員と総理大臣の指名した民間人から構成される。政府が提出する法案は、事前に政権党に提示され、政府と政権党間で調整がなされ、政権党の了承がなければ提出されない。つまり、与党議員は政府法案を事前審査しているのだから、議会で質問する必要は無い。
また、「野党の質問時間が長すぎる」という場合でも、質問に対する答弁は、基本的に政権党の閣僚や副大臣が行うため、適切な答弁がなされれば、むしろ法案の正当性を高めることになる。自民党が野党の質問を恐れるとしたら、単に問題を抱えた法案であるか、あるいは「疑問に答えられない」「問題に対応する術が無い」など答弁者である与党議員の能力が不足しているかのいずれかであるためだ。

今回の背景には、自民党内で「選挙に際して野党候補から質問していないことを責められた」との声が上げられたとも言われるが、それは与野党の役割の違いでしかなく、そこは紳士協定で「質問時間の過多で相手候補を攻撃するのは自粛する」とすれば良い話だろう。
実態としては、国会議員や官僚の質的低下により、野党の質問に耐えられなくなって、質問時間自体を削減しようという動きになっているものと思われる。

仮に野党の質問時間が減らされた場合、与党議員は事前審査と議会質問で二度権力を行使できるのに対し、野党議員は唯一の機会をも奪われるわけで、そのストレスは院外活動に向けられる可能性が高く、自民党も霞ヶ関もうれしくないはずだ。
また、与党の質問時間が増えても、「総理の決意をお示しください」「大臣のお気持ちをお聞かせください」など、身内の自慢話の応酬が増えるばかりで、国会中継も恐ろしくつまらないものになるだろう。

さらに指摘するなら、衆議院の場合、国会議員の質問時間は答弁時間も含まれる。そのため、「質問時間30分」としても、実態としては「議員の質問が15分、閣僚答弁が15分」などの割り振りになっている。しかも、第二次安倍政権以降、閣僚が質問とは無関係の話を延々と続けるという「答弁」が急増、例えば質問5分に対して、大臣答弁が15分にも及ぶといった問題が生じている。これは言うなれば、政府によるルールの悪用・議会サボタージュであり、質問権の侵害に相当する。原理的には、野党議員の質問に対し、閣僚が延々と関係の無い答弁を行って、時間切れを狙うことも可能だからだ。

これに対し、参議院は「片道方式」と呼ばれるルールで、質問時間は質問者が話す時間を指し、答弁時間は含まれない。そのため、答弁者はできるだけ簡潔に要点を述べようと努める傾向がある。

近代議会制度はもともと国王大権を抑制し、暴走を止めるために機能を拡大、発展していった歴史がある。立憲君主制となって、国王大権の多くが失われると、行政権は政府が担うところとなり、議院内閣制下では首相・閣僚は政権党から選出される。つまり、行政権を抑制・監督する権能は、現代では野党が担っていることを意味する。その野党の権限を縮小しようというのが自民党の要求であると考えれば、その狙いは自然、議会の形骸化であることは容易に推察できるだろう。

【追記、11/17】
もっとも、予算委員会などにおける総理大臣の拘束が多いとか、大臣答弁が多すぎるという自民党の指摘は首肯できる部分もあり、政務官の答弁でも大臣並みの重みを持たせ、虚偽答弁は過去に遡って訴追できるようにするなどの条件をもって大臣の負担を減らすことを検討すべきだろう。
posted by ケン at 13:33| Comment(2) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月15日

立民は失速中

この週末で各メディアが支持率調査を行っている。括弧内は前回比。
【NHK】
自民 37.1(+4.3)
立民  9.6(+3.0)
KM  5.2(+0.9)
希望  3.2(-2.2)
NK  3.1(-0.3)
民進  1.3(+0.3)
維新  1.1(-0.6)
社民  0.6(±0.0)

【朝日新聞】
自民 37(-2)
立憲 12(-5)
希望  3(0)
KM  3(-1)
NK  3(0)
維新  2(0)
社民  1(1)
民進  1(+1)
支持政党無し 30(21)

相変わらず自民党がダントツで、内閣支持率を含めて選挙後に支持率を上げる傾向にある。
とはいえ、KMと維新を除く野党も20%前後を取っているので、自民党が圧倒的に見えるのは、少数野党が分裂していることが大きいとも言える。また、民進党は分裂前には5〜7%しか支持率が無かったが、三分裂後には合計すると15%以上になるので、「分裂して支持率が2倍以上になった」と強弁することも不可能では無い。
全体的には、朝日新聞の数字が示すとおり、もともと無党派だったものが選挙に際して立憲民主党を支持、選挙後に無党派に復帰しつつあると考えるのが妥当かもしれない。

自民党が固定的な支持を得ているのに対し、立憲の支持は無党派に支えられた脆弱なものであると言えるだろう。
本来であれば、立憲は総選挙で盛り上がった熱を利用して、大々的に党員募集をかけ、党組織を拡大すべきだったが、いかんせんにわか作りの政党で、政党職員すらいないという状況の中、機を逸しつつある。せめて外注してでも、ネット上で党員登録するシステムを提供できなかったのか、悔やまれるところだ。もっとも、党規約や党員の権利、あるいはそもそもどのような党組織や理念をめざすのが決めないで、党員だけ集めてみたところで、結局のところトップダウン型の組織になって人が離れてゆくだけなので、どのみちダメだったかもしれない。

現状では、立憲は三分裂の影響と連合の妨害もあって、当面、党組織づくりには難航するとみられる。また、イデオロギーや理念を整備する余裕も無く、国会対応と次の選挙準備で手一杯な状況が続きそうだ。結局のところ、党員も党組織も無い議員政党であるが故に、「上から下をつくる」ことは難しいのだろう。このまま行けば、民主党の二の舞となりそうだ。
posted by ケン at 12:10| Comment(2) | 政局ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする