2016年08月24日

日本人は戦争を選択したのか?

【安保法、7割が「理解進まず」=「危険高まった」も過半数−時事世論調査】
時事通信の8月の世論調査で、昨年9月に成立した安全保障関連法の内容について理解が進んだか尋ねたところ、「進んだとは思わない」と答えた人が76.0%に上った。また、同法成立により、日本が海外の紛争に巻き込まれる危険が「高まったと思う」との回答は55.9%だった。同法に対する国民の理解が進まず、懸念が根強い実態が浮き彫りとなった。安保法への理解が「進んだと思う」との回答は全体で9.0%にとどまった。自民党支持層に限っても、理解が「進んだと思う」は15.1%で、「進んだとは思わない」が68・6%と大きく上回った。安倍政権は安保法により「抑止力が高まった」と強調しているが、調査では、海外の紛争に巻き込まれる危険について「高まったとは思わない」と答えたのは27.1%だった。自民党支持層でも「危険が高まったと思う」が46.2%で、「高まったとは思わない」の39.1%を上回った。
 調査は4〜7日、全国の成年男女2000人を対象に実施し、有効回収率は64.3%。
(8月12日、時事通信)

代議制民主主義は、主権者が政策決定を政治家に委任し、委託された政治家が有権者に説明責任を果たすことで成り立っている。だが、安保関連法や、その前の特定秘密保護法では、立法事実や根拠が曖昧なまま、法律の必要性や運用方法についても明快な答弁がなされることなく、成立させてしまった。
有権者から主権を委託された政治家が、政策決定や立法について十分な説明を行わないことは、代議制民主主義の存在意義を脅かしていることになるが、当の政治家たちは認識しておらず、このこと自体がデモクラシーを危機へと導いている。

安保法制をめぐる問題点については、少なくとも本ブログ上では十分に説明していると自負しているが、ここは簡単に繰り返しておきたい。
問題はアメリカの国力と国際的影響力が減退する中で、東太平洋における「対中封じ込め政策」がいつまで機能し、採択され続けるか、である。現時点ではまだパワーバランスが米国寄りで成り立っているものの、米国の優位が保持されるのは時間の問題であり、このバランスが中国に傾けば傾くほど、日米同盟でアメリカが背負うリスクとコストが大きくなってくることになる。

アメリカには、すでに海外に巨大な軍隊を駐留させるほどの国力がなく、日本の防衛は日本が自分で賄うように促してきたが、日本側はこれを「見捨てられ」と解釈して「中国の脅威」と「日米同盟の強化」を謳うようになっていった。
ここで言う「同盟強化」とは、米国側が負っているリスクとコストを日本側が一部肩代わりするというもので、具体的には米軍が世界各地で行っている軍事行動の一部を自衛隊が担うことであり、これを総括して「集団的自衛権の行使容認」と説明されるはずだったが、安倍政権が小細工を弄してとってつけたような説明に終始した結果が、この世論調査に反映されている。
例えば、安保法制の審議に際して、政府・自民党は以下のような答弁に終始した。

「今回容認される集団的自衛権は、(個別)自衛のためのものであって国際法上の集団的自衛権とは別物」

「本法成立で自衛隊員のリスクが増えることはない」

「敵が攻めてきたら自衛隊はすぐに待避するから戦闘にはならない」

「一般的な武力行使はしないが、機雷掃海は例外」

「他国の戦争に巻き込まれることはあり得ない」


などの説明がなされたものの、どれも「そんなワケねぇだろ!」と野党に一括され、より具体的な説明が求められたにもかかわらず、ロボットのように同じ答弁を繰り返すため、ますます反発を強め、審議を迷走させてしまった。

現実には、1999年にアメリカを中心とするNATO軍が、国連安保理におけるロシアの拒否権発動を無視して空爆を強行、2003年には同じくアメリカを中心とする有志連合が、国連安保理の決議を待たずに(否決されそうだったため)イラクに侵攻したことに象徴されるように、武力行使のハードルはむしろ冷戦期よりも低下していると見られ、それだけに「米国との同盟強化」は自衛隊の参戦機会を増やすことはあっても、減らすことは決して無い。結果、「(安保法成立により)他国の戦争に巻き込まれることはあり得ない」という政府答弁は、全く現実性に欠けるもので、主権者に対する説明責任を果たしているとは言えないものになっている。
90年代以降の国際情勢の変化の中で、日本は日米同盟を主軸とした「力による大陸封鎖」路線と、国連協力とアジア協調を主とした「新たな集団安全保障体制の構築」(非対称封じ込め)の二つの選択肢が遡上に上がったものの、90年代半ばには外務省から国連中心主義派がパージされて前者に大きく傾いていった。
「日米同盟堅持」路線は、政策転換にかかるコストが掛からない代わりに、「同盟を維持するコスト」が高まっており、日本(霞ヶ関と自民党)としては同盟コストを支払うために「米国の世界覇権維持に対する協力強化」という選択肢を採ったと考えられる。
この一連の考え方は、私自身は首肯し得ないものの、政策判断としては十分な合理性を備えており、理解は出来る。例えば、

「中国の脅威がかつてなく増大しているが、対抗すべき基軸となる米国はアジア関与を弱めている」

「中国の脅威に対しては、アメリカと連携してこれを封じ込める必要がある」

「だが、米国は衰退傾向にあり、日本はそれを補うだけの軍事的貢献をしなければ、アメリカはアジアから手を引くだろう」

「東アジアの軍事バランスを維持するためには、日米同盟をより強化する必要があるが、アジアから退場しようとしているアメリカを繋ぎ止めておくためには、日本が全世界で積極的にアメリカの軍事行動を支援しなければならない」

という論理で首尾一貫主張していれば、維新や民主のような自民党の補完政党は反論の術を失い、ここまで図に乗ることはなかったものと思われる。維新にしても民主にしても、安全保障政策の基本を「日米同盟基軸」としている以上、対中国戦略として「力による大陸封鎖」路線しか選択し得ないからだ。
自民党は本音で安保を語るべき

同時に議会制民主主義という点では、野党がお粗末だった。
民主党内は超大ざっぱに言って、右派と中間派と左派に3分しており、右派は集団的自衛権行使を容認、左派は反対、中間派は「野党だから反対」という感じで、もし民主党が政権にあったとしたら中間派が賛成に回り、党は「行使容認」を決めたであろう。
その意味で、民主党に期待を寄せる方には申し訳ないが、民主党は「野党だから」反対しているだけで、その内実は非常に無責任かつ無分別だと言わざるを得ない。
繰り返しになるが、「日米同盟は維持します。でも集団的自衛権は認めません、個別的自衛権で対処します。今まで通りの国際貢献は続けますから問題ありません」という民主党の主張は、仮に政権を再奪取したところで早々に米国からクレームが付けられて、鳩山氏が基地移転を撤回したのと同様の大恥をかくことになるだろう。
集団的自衛権行使や海外派兵を本気で回避したいのであれば、NK党か社民党に投票するほか無いと思われるが、NK党の場合は「右翼権威主義を忌避するために左翼全体主義を選ぶ」という選択肢に他ならないし、社民党はすでに政党として機能しているとは言えない状態にあり、これも選択肢になり得ない。党員組織を基盤とする民主的左翼政党の設立は、我々にとって常に大きな課題である。
安保法制衆院通過を受けて雑感

結局のところ、国民は十分な説明を受けぬまま、日本の「参戦」を迎えることになるだろう。だが、徴兵制が敷かれるわけではないため、「カネで雇われた自衛隊がどこか遠くで戦っているみたい」との認識から抜け出せず、政府による情報統制もあって、「本土テロ」でも起きない限り、戦争を実感することは無さそうだ。
だが、昭和の歴史が示しているのは、日支事変・日中戦争の勃発が議会と政党政治に終止符を打ったという事実であり、そこは改めて強調しておきたい。

【参考】
・昭和史再学習A 

【追記】
戦後の造語ではあるが、「大正デモクラシー」の原点は、日露戦争のポーツマス講和条約の内容に反発して起きた日比谷事件などの一連の暴動に起因するという説がある。これは、当時の政治家が十分な説明責任を果たさず、虚偽の戦果報告を行い、条約の締結過程を秘匿したことに対し、有権者が不満を表明したことに始まった。もちろん当時の日本は民主主義体制ではなかったものの、代議制議会が設置されて間もない時機であり、市民が「委任と説明責任」の相互関係を自覚する端緒となった。
posted by ケン at 12:23| Comment(0) | 外交、安全保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月23日

合流して衰退する民進党

【<民進党>党員が減少 合流前下回る24万2907人】
 民進党の党員・サポーターは24万2907人(6月6日現在)で、旧民主党と旧維新の党の合流前を下回ったことが分かった。目標の30万人に届かず、岡田克也代表は18日の記者会見で「参院選と時期的に重なったので非常に集めにくかった」と弁解した。昨年度の旧民主の党員・サポーター登録数は23万3100人、旧維新の党員数は約3万6000人。単純に合計すると約27万人だが、実際には2万人以上、減ったことになる。民進党結成に伴い、党員をやめた人が多いとみられる。
旧民主党の党員・サポーターは最多だった2010年に35万508人に上った。菅直人首相(当時)と小沢一郎元代表による同年の代表選では、党員・サポーター票で優位に立った菅氏が接戦を制した。民進党は今月中に二重登録などを精査して人数を確定し、9月2日告示の代表選に備える。これに関連し、岡田氏は会見で「党員・サポーターも含めて新しい代表を選んだ方が正統性が高まるし、リーダーシップを発揮しやすくなる」と述べ、無投票は望ましくないという考えを重ねて示した。
(8月18日、毎日新聞)

まぁ当然の帰結かと。
組織論的には、党員に何の権限もなく、一般党員が参加する会議や集会が開かれることすらなく、国政選挙や自治体選挙の候補者は幹部が密室で談合して決めるだけで、ただ代表選に一票投じることができるというだけの存在でしか無い。それで党費を払わされて、投票を(倫理的に)拘束されるのだから、党員でいるメリットが何一つ無い。せいぜい、関係の深い議員に頼まれて登録するか、労働組合幹部の義務として登録しているだけの話で、何か切っ掛けさえあれば、辞めようと思っている人が大半だろう。

政策論的にも、実質的に自民党の二軍状態にあり、個別の法案に反対するだけで独自色のあるスタンスや政策は殆ど打ち出せていない。それもこれも、社会民主主義と国際主義色の濃かった小沢・鳩山路線を否定したまま、官僚と一体化する菅・野田路線を選んだことで、自民党との違いが無くなり、その路線を今に至るまで引き継いでいるためだ。むしろ旧民主党が右傾化したことで、自民党の右傾化・権威主義化を加速させてしまった面もあり、その意味では今日の状況を作り出した責任は非常に重い。つまり、「自民党と同じなら自民党で良いじゃん」というだけの話で、今のままでは何度選挙やっても民進党は勝てないだろう。

また、運動面や金銭面でおんぶにだっこ状態にある連合だが、同時に大きな足かせとなっている。例えば、原発再稼働に反対しようとすると電力や電機などの組合が怒鳴り込んでくるし、リニアに反対しようものならJRの組合が脅しをかけてくる。個々の選挙では、応援に入る組合員が、一般党員や市民のボランティアの排除にかかるので、選挙が終わってみると、結局のところ組合員しか残らない有様にある。

これらの問題を解決しない限り、根本的な解決は望むべくもないが、党幹部も個々の議員も、自らの権限が侵されるだけなので、そこに手を付けようとはしない。結論的には、衰退の一途を辿るだろう。
posted by ケン at 12:22| Comment(0) | 政局ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

奴隷制度は廃止あるのみ!・続

【外国人雇用の違反最多=実習生受け入れ事業所調査―厚労省】
 厚生労働省は16日、2015年に労働基準監督署などが外国人技能実習生を受け入れた事業所5173カ所を調査し、7割に当たる3695カ所で労働基準法や労働安全衛生法などの違反を確認したと発表した。調査の集計を開始した03年以降で最も多く、前年比24.1%も急増した。外国人実習生を雇用する事業所は全国に約3万5000カ所あり、同省は一部を対象に立ち入り調査を実施して結果を公表している。安価な労働力として使える外国人実習生のニーズは人手不足の中で一段と高まっており、国内労働法制にうとい外国人の弱みにつけこんだ悪質な雇用実態がうかがえる。違反内容を見ると、労使協定を超える時間外労働を強いるといった労働時間関係が1169カ所、安全措置が講じられていない機械を使用させるなど安全基準関係が1076カ所、残業代の不払い・減額が774カ所あった。 
(8月16日、時事通信)

繰り返しになってしまうが、容赦されたい。
外国人技能実習制度は、これまでも多くの問題が指摘され、法改正もされているが、一向に改善されず、制度が拡充されるにつれて不正件数も増加しているものと見られる。「見られる」というのは、表面化している不正がごく一部に過ぎないためで、現実的には適正に運用している事業者の方が少ないと考えられるためだ。

と言うのも、同制度の名目である「日本の高度な技術を海外の若者に教えて、途上国の発展に寄与する」などということを、本気で信じて実践している事業者など殆どおらず、圧倒的多数は単純に安価で安定した労働力を求めているに過ぎないからだ。
同制度が本質的に外国人労働者や移民を否定する中で、欺瞞的に「技能実習」の建前で外国人を(多くの場合騙して)契約して連れてきて、強制労働に従事させることを目的としているからだ。私も、同制度に関連して、何度も陳情や相談を受けたが、そのほぼ全てが「いかに同制度の適用を受けて、安価で安定した労働力を確保するか」というものだった。より具体的に言えば、例えば、「介護労働に外国人実習生が使えるようになるのは何時からだ?」とか「自分の事業所に安価な労働力を入れたいので実習制度の適用の仲介をしてくれ」といったものだ。彼らの頭には、「日本の高度な技術を海外の若者に教えて、途上国の発展に寄与したい」などという発想は全く無い。これは断言できる。だからこそ、安価で安定した労働力を欲する、介護事業者とコンビニ事業者が、必至に政治工作して、同制度の適用を求めているのだ。
奴隷制度は廃止あるのみ!)

2010年に法改正される際に、論点として挙げられたのは以下の通り。

・技能実習名義なので労働法が適用されず、超長時間労働が横行している。
・同じ理由から賃金が支払われず、時給50〜300円程度の生活費のみが払われる。
・同じ理由から、労使交渉が許されない。
・パスポートが取り上げられ、実質的に軟禁下に置かれ、通信も制限される。
・外界との接触が制限されるため、司法などへの告発が難しい。
・移動の自由が認められず、3〜5年にわたって契約に拘束される。
・地域ぐるみで不正や虐待が隠蔽される。
・不正を取り締まる法制度が未整備で、監督主体もあいまい。
・不正を行った業者に対する罰則が非常に緩い(そもそも殆ど摘発されない)。


現状は、法改正が不正防止に寄与しなかったことを示している。
特に問題なのは、「実習名目のため労働者の権利が認められない」「移動や通信の自由が制限される」「地域社会全体で制度運用されるため不正が隠蔽される」点にあり、そこが改善されないのだから、不正がなくならないのは当然だろう。
だが、事業者側からすれば、「使い勝手の良い奴隷制度」だからこそ利用したいのであって、そこが「改善」されてしまっては制度を利用する価値が無くなってしまう。

現実には、同制度で来日した外国人の大半が、対日感情を悪化させて帰国、同時に国際社会から「現代の奴隷制」と非難されているのが実情で、国内的には競争力の無いゾンビ企業を同制度が延命させてしまっている側面もあり、事業者以外、誰にとってもプラスになっていないのだ。
現実政治で取り上げられる問題の殆どは、なかなか善悪二元論では判断できないものが多いのだが、外国人技能実習制度は数少ない「絶対悪」であり、問答無用で即廃止する他ない。
posted by ケン at 12:56| Comment(0) | 労働、経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月20日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・下

の続き)
日本側の好条件にもかかわらず、ロシア側の回答は著しく遅延した。極東問題の優先順位の低さや意思決定の複雑さと、皇帝ニコライ二世の憂鬱(趣味の狩猟への逃避と皇妃の病気)が重なり、その回答は12月11日になってしまう。ここでロシア側は、「満州は日本の利益の範囲外」とする条項を削除し、日本側に譲歩した。ただ、「韓国への日本の軍事的援助」を拒否し、「韓国の北3分の1の中立化」と「朝鮮半島の戦略目的での使用禁止」は残したものの、問題となるのはこの3点程度に絞られていた。
だが、日本側はロシア側の遅延を「開戦準備のための時間稼ぎ」と解釈、国民世論や議会はますます開戦に向けてヒートアップし、軍部も「開戦するなら今すぐ」という空気に支配されてしまった。開戦派に鞍替えした『万朝報』を退社した幸徳秋水と堺利彦が、『平民新聞』を発行したのは、11月15日のことである。その第一号の特集は、「非戦論演説会」だった。

日本側は12月16日、首相官邸に元老と閣僚が集まって、ロシア側の第二次回答を検討。山県は満韓交換論で最後の交渉を行うべきだと主張したのに対し、桂首相と小村外相は、「朝鮮問題で日本側要求が受け入れられぬ時は開戦」旨の主張、「開戦ありき」だった。だが、最終的には同23日に、満韓交換論を主とする第三回提案を送付、翌1904年1月6日にロシア側の回答を得るも、「韓国北部中立」「半島の戦略目的での使用禁止」は削除されなかった。
この間、ロシア駐日公使のローゼンは、本国に日本が開戦準備を本格化させ、韓国への出兵を企図していることをペテルブルクに打電している。だが、ロシア側では「日本による韓国占領」を企図したものと認識され、「すぐさま日露開戦を意味するものではない」とする見方が大勢を占めていた。そして、「日本が韓国を占領するなら、それはそれ(やらせておけ)」という冷めた見方が強かった。この辺のロシア人の感覚は、「ロシア帰り」でないとなかなか理解しづらいかもしれない。

日本では開戦論が沸騰し、開戦準備が進む中、04年1月16日に、韓国全土を日本の勢力圏とし、中立地帯の設定を除外する第4回提案をロシア側に提示した。ここで、ロシア側はようやく全面譲歩し、中立地帯の設定を除外した上、韓国の軍事利用を認めない条件で日本の勢力圏化を完全に認めるという、日本側に拒否する理由の無い内容のものとなったが、この回答がローゼン駐日公使の下に届いたのは2月7日のことだった。その前々日には、明治帝から開戦の大命が下され、翌6日には同行使に国交断絶が伝えられていた。日本海軍による旅順口奇襲が行われたのは、2月8日である。
なお、成立寸前にあった日露交渉の内容は、1901年12月に伊藤博文が、独自にヴィッテ蔵相とラムズドルフ外相と交渉してほぼ合意に達しながらも、日英同盟交渉を進める外務省に止められてしまったものと、ほぼ同じものだった。

一年半以上にわたる戦争を経て締結されたポーツマス条約の要点は以下の通り。
1.日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
4.ロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

このうち1と2は開戦前の日露交渉で合意されていたものであり、実のところ日本が戦争で得たのは、3〜6の部分に過ぎなかった。その代償は、9万人近くの戦死者と3万人近い病死者、15万人以上の負傷者であり、税収が2億円のところに19億円の戦費(うち8億円が外債)というものだった。
この戦費について、外債引き受けを担当した高橋是清は、事前に政府に受けたレクチャーで「継戦期間を一年として4億5千万円」と説明されている。1904年の日本のGNPは30億円でしかなかった。
この外債の内実は惨憺たるものだった。
最も規模の大きかった英国債を例に挙げると、一回目と二回目の公債は利率6%で、発行価格が額面の約90%の上、関税収入を担保に入れるという代物だった。
最初から割引して発行していることを考えれば、実効利率は7〜7.5%といったところだった。
三回目と四回目の公債は、若干マシになって、利率は4.5%になったものの、発行価格は相変わらず額面の約90%の上、タバコの専売収入を担保に入れていた。
他方、ロシアの対仏公債は、利率5%、発行価格は額面の99%、担保無しというもので、この差こそが、まさに当時の国際的評価を表していた。
そして恐ろしいことに、日本国が、日露戦争に際して発行した公債の返還を終えたのは、なんと1986年のことだった!
日露戦争のツケ

さらに終戦後、日本は韓国を併合するが、その経営が赤字続きで、1932年の一般会計予算が15億円のところに7千万円も交付金を出して補填しなければならなかった。
一方、ロシアでは革命が勃発、第一次革命は鎮静させたもの、帝政の終焉を早めたことは間違いなく、ソ連というより強大な脅威を作り出す遠因になった。そして、韓国や樺太などを防衛するためとして、シベリア出兵や満州事変が起こされ、「ソ連の脅威」に備えるため陸軍の際限なき軍拡が進み、日本の重工業や民政発展に深刻な打撃を与えた。

日露協商は、むしろ成立しない要素の方が少なかったにもかかわらず、タフな交渉を捨て、安易な武力行使に走った結果、日露両国にとって不幸な歴史の原因をつくってしまった。王道では無く、覇道スタンスを採るとしても、当面を満韓交換論=日露協商でやり過ごしておけば、遠からずロシアは第一次世界大戦に巻き込まれて窮地に陥ったのであり、満州進出はそれからでも十分だったはずだ。
我々は「明治の栄光」などという観念を捨て、改めて謙虚に歴史を検証すべきなのである。

【参考】
『日露戦争 起源と開戦』 和田春樹 岩波書店(2009)
『日露戦争研究の新視点』 日露戦争研究会編 成文社(2005)
「日露戦争−開戦にいたるロシアの動き」 和田春樹 ロシア研究78号(2006)
「日露戦争と日本外交」 伊藤之雄 防衛省防衛研究(2004)
「日英同盟締結後における日露の外交方針」 千葉功 日本歴史581号(1996)
「ロシア帝国と日露戦争への道−1903年から開戦前夜を中心に」 加納格 法政大学文学部紀要53号(2006)
「政治指導者の国際秩序観と対外政策−条約改正、日清戦争、日露協商」 佐々木雄一 国家学会雑誌127巻(2014)
「日露戦争観の過去と現在」 千葉功 新しい歴史学のために288号(2016)
日露戦争のツケ」 
朝鮮統治のツケ」 
「日清戦争の「勝利」を検証する」 
ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程

【追記】
映画『二百三高地』は、『仁義なき戦い』の笠原和夫が脚本を担当、「明治天皇が遠く戦地の乃木を思う場面なんかよりも、豆腐屋とか幇間とかやくざみたいな連中が戦場に送られてどうなってこうなって」という方針でつくられた。だが、ラストで乃木が明治帝の前で報告する場面は、当初史実に基づき、帝が冷淡に報告を聞き置く形にしたところ、東映の岡田社長に「お前、それじゃあ客がはいらへんぞ。報告する乃木も、報告を聞く明治天皇も皇后も滂沱と盛大に泣かしてくれや」と言われて、書き直されたという。「歴史」はこうやってつくられてゆく。

【追記2】
なお、明治帝は、日清戦争に引き続き、日露開戦に際しても常に慎重派であり続けた。開戦直前の1904年1月5日に米フィリピン総督タフトに接見した際には、「朕に於ては今日迄も其局を平和に解決致したくと努め居り、尚ほ其方針を以て時局を結了せんことを覚悟し居れり」と述べている。また、廟議で開戦が決せられた2月4日には、内廷に帰った際、「今回の戦は朕が志にあらず」と誰に対してでも無く独り言のようにつぶやいたとされる。さらに、その日の夜は一睡もできず、戦争中も食事も睡眠もままならない日が続き、命を縮めてしまったのは周囲の目からも明らかだった。戦争末期に樺太作戦が上程された際も、「列強の介入を招くのではないか」と慎重姿勢を見せ、すぐには裁可しなかった。両戦争に際して、元老を含む政治家たちよりも天皇の方が大局観を有していたというのは、何とも皮肉な話である。

【追記3】
開戦時の「露国に対する宣戦の詔勅」には以下の一文があるので付記しておく。
帝国の重を韓国の保全に置くや一日の故に非す。是れ両国累世の関係に因るのみならす韓国の存亡は実に帝国安危の繋る所たれはなり。然るに露国は其の清国との明約及列国に対する累次の宣言に拘はらす依然満洲に占拠し益々其の地歩を鞏固にして終に之を併呑せむとす。若し満洲にして露国の領有に帰せん乎韓国の保全は支持するに由なく極東の平和亦素より望むへからす。故に朕は此の機に際し切に妥協に由て時局を解決し以て平和を恒久に維持せむことを期し有司をして露国に提議し半歳の久しきに亙りて屡次折衝を重ねしめたるも露国は一も交譲の精神を以て之を迎へす。

現代語訳:日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。わが国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、いまだに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。仮に満州がロシア領になってしまえば、わが国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、臣下を遣わしてロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神は全くなかった。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月19日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・中

の続き)
ここで一旦、ロシア側に視点を移したい。ロシアの極東政策は、もともと優先度が低く、基本的な安全保障上の優先順位は、第1にヨーロッパ・バルカン半島、第2にトルコ・アフガニスタンで、第3にシベリア・沿海地方の防衛で、満州への進出はその下にあり、韓国となるとはるかに下の方になってしまう。さらに、国内の情勢不穏により、ロシア国内の治安維持やポーランドなどでの反乱に備える必要があり、その深刻度は日に日に高まっていた。結果、中国・極東方面へ進出は常に4番目以下の扱いだった。この傾向は、日露が開戦するまで変わらない。実際、財政難もあって、東清鉄道やシベリア鉄道の建設は遅れに遅れていた。
それでも、1896年には李鴻章に巨額のワイロを送って露清密約を結び、清に満州利権を認めさせる。だが、これは日本の大陸進出を危惧する清が、ロシアに協同戦線を求めた側面もあり、一概には「南進政策」とは言えないものがあった。

現代のウクライナ紛争にも見て取れるように、歴史的に強国の侵略を受け続けているロシアは、第三者からすると過剰な防衛意識を持っており、常に自国領土と他国勢力圏の間に緩衝地帯を設けようとする意図が強い。現代のロシア人が「NATOの脅威に備えて緩衝地帯を設ける」と考えているものが、欧米人からすると、「ロシアの侵略」と捉えられ広く信じられている。当時の満州も、ロシア人的には「シベリア・沿海地方の弱い腹部を守るための緩衝地帯」だったわけだが、日本人的には「ロシアの伝統的な南進政策」と写ってしまった。

話を戻す。次いで、三国干渉の見返りとして、1897年に旅順、大連の租借が決まるが、これは当時のムラヴィヨフ外相が推進したことで、ヴィッテ蔵相は財政上の理由から反対だった。租借が決まると、南満州鉄道の建設が始まり、ますます朝鮮半島に手を出す余裕がなくなり、「西=ローゼン協定」で朝鮮の日本利権を認めた。だが、その一方で、ムラ気のあるロシア版大陸浪人とも言える、皇帝の寵臣であるベゾブラーゾフが暗躍し、北部朝鮮に調査団を派遣したり、開発会社を立ち上げたりして、日本側の疑惑を深めてしまった。
1900年の北清事変では、建設途上の東清鉄道に被害が出たこともあり、清に満州の保障占領を認めさせたが(第二次露清密約)、日本を始めとする諸外国の疑惑を深めた。
1902年1月に日英同盟が成立すると、ロシアは外交的に追い詰められ、満州駐留軍の維持費が重いこともあって、同年4月には清と満州還付条約を締結、半年毎に三度にわたる撤兵が取り決められた。だが、満州からの撤兵は、旅順・大連の孤立を意味することになり、日本の朝鮮進出への脅威と相まって、ロシアの外交的地位を難しいものにしていった。
総体的には、ロシアは財政的裏付けもないまま、遼東半島や満州に手を出して、自ら望まない極東の不安定化と外交的孤立を招いてしまったと言える。
なお、外務省が進めた日英同盟と併行して、伊藤は一元老として個別に自身のルートを辿ってヴィッテらと日露交渉を進め、ほぼ満韓交換論の線で合意しかけていたが、外務省や桂総理らから掣肘が入り、中止させられている。

日英同盟が成立すると、今度は日本側が強気に出る。同盟条約には「清韓両国の独立・領土保全」が謳われており、ロシア側に満州からの撤兵を強く要求するようになり、ロシア側の満州利権すら認めなくなってしまう。これは、伊藤・井上ら内治派が進めてきた「満韓交換論」を否定し、「朝鮮は日本のものだが、満州は中立(ロシアのものではない)」という要求になった。
だが、ロシア側からすれば、満州問題は露清間の問題であって、日本が口出しすべき話ではなく、「日本がイギリスと結託して満州進出を狙っている証左だ」という疑惑を生んでしまった。現実には、日本には京釜鉄道や京義鉄道などを敷設する資金の捻出にも汲々としている有様で、とても満州に経済利権を求める余裕は無かった。

満州還付条約に従って、ロシアは1902年10月の第一次撤兵は行ったものの、その後満州撤兵に伴う清との補償交渉が難航した他、ロシア宮廷内の外交方針の対立もあって、1903年4月の第二次撤兵の履行を見送ってしまう。
これを日本側は、「ロシアの南進政策」「韓国進出の基盤強化」と見なし、「対露開戦やむなし」の声が強まり、軍部は作戦と動員の準備が本格化させていった。軍部では、「ロシアがシベリア鉄道や満州のインフラ整備を進めた場合、日露が開戦した際、日本軍は戦力的に勝てなくなる」との見解が大勢を占め、早期開戦論が高まった。

こうした中、日本では内治派の筆頭である伊藤博文が、徐々に支持・統制力を弱め、枢密院議長に追いやられ、政友会総裁も辞任させられてしまう。外征派が主導権を取り、03年8月に日露交渉が再開するも、その要求は、@日本の韓国権益の独占、A朝鮮鉄道の満州南部への延線、B満州におけるロシア利権の限定、といったもので、従来の交渉内容から大きく逸脱した、恐ろしく強硬なものだった。もともと交渉を決めた6月23日の会議では、「ロシアと交渉して日本の朝鮮支配を認めさせる。認めなければ、戦争して認めさせる」という大方針を確認したはずだったが、日英同盟を背景に政府内では強硬意見が幅を利かせていった。

なお、時期が前後するが、同03年6月に日本を訪れたクロポトキン陸相の訪日メモには、「この時期の極東における私たちの活動の基礎におく必要があるのは、日本との平和維持である。それは韓国問題よりも重要である」とある。クロポトキンは、近代化を進める日本を目の当たりにして、「いずれ清の利権をめぐって列強と衝突する日が来る」と喝破していたが、自国がその当時者になることは避けなければならないと考えていた。ただ、彼の方法論は「韓国の中立化」にあり、当時の日本政府が飲めるものではなかった。

また、ロシア皇帝ニコライ2世は、個人的にはヨーロッパや中東方面の外交が行き詰まる中で、東方への進出には常に積極的なスタンスをとっていたが、政策全体の中での優先度は低かったようで、積極的な関与は見受けられない。この時期の彼の関心はむしろプライベートに偏っていた。
一般的には「ツァーリ」とか「スターリン」と聞くと、「万能の独裁者」と見る傾向が強いが、その認識は事実と大きく異なる。たとえスターリンといえど、常に自我を押し通せたワケでは無いことは、いくらでも例証を挙げることが可能だからだ。皇帝や共産党書記長の権限を過大評価しないことは、ロシア・ソ連学徒にとって重要な戒めの一つである。

9月にはロシア駐日海軍武官から、「日本が朝鮮出兵を準備中」との報告が入り、8月の強硬な要求とともに、ロシア政府内は「ヤポンスキーはマジでやる気だ!」と大騒ぎになった。だが、そこはロシア人で、「弱気を見せると相手はつけあがる」との認識から、10月には強硬な回答を示してしまう。@満州は日露交渉の範囲外、A韓国には日本の政治的指導権だけ認める、B韓国の北3分の1は中立地帯とする、というもので、日本の強硬姿勢がロシアの強硬態度を誘発してしまった格好だった。
他方、日本では、ロシアが沿海地方と黒龍地方に38個大隊(3〜4万人)の増強をしたとの情報が入り、「ロシアは対日戦争を準備中」との認識が広がっていった。もともと同地方には、8〜10万人の兵力が駐留していたが、日英同盟を受けて対日緊張が増した以上、ロシア側としては「当然の対応」だったものの、日本人はそうはとらなかった。
1903年9月にクロポトキン陸軍大臣が上程した資料を見ると、日本は戦時に最大100万人の兵力が動員可能で、比較的短期間に30〜35万人を韓国・満州に派遣できると考えていた。当時の日本は13個師団で、平時の兵力は15万人ほどだったが、予備役を動員することで50万人まで召集することは計算済みだった。実際の戦争では、高齢の後備兵まで動員され、奉天会戦には25万人が参加、最終的な動員数は100万人以上に達したことを考えれば、ロシア軍部の予測はあながち外していなかったことが分かる。そして、ロシア側の動員可能な兵力が200万人強で、最大の敵であるドイツ・オーストリアが同数近い兵力を有している以上、国内の不穏も抱えた状態で、極東に大規模な増員を行うことは全く現実的ではなく、まして戦争など「あり得ない」選択肢だった。
最新の研究では、これまで「主戦派の首魁」と見なされてきたベゾブラーゾフですら、「極東の兵力均衡を図ることで戦争を回避すべきだ」と主張していたことが分かっている。03年8月に交わされたクロポトキン・ベゾブラーゾフ論争を見ても、「いかに日本の侵略から沿海地方と満州利権を守るか」という視点で方法論の違いから意見が対立しているだけで、その上どちらも悲観的観測を争っているような状態で、韓国への進出など論外だったことが分かる。
(この辺の感覚は、VG社「Pax Britanica」をプレイしたことがあれば、かなり理解できると思う。)

話を日露交渉に戻す。日本の強硬な要求を受けて、ロシア側は対清交渉を急ぎ、9月には清側に要求していた満州撤兵7カ条条件を取り下げつつ、撤兵期限の延期を求めるが、清に拒否され、交渉が頓挫してしまう。
他方、日本政府は10月末に条件を軟化させた第二次提案(修正案)を行う。日本は、満州南部に対する利権要求を取り下げ、自国の韓国への関与を軍事と民政部門に限定、満韓国境に両側50kmにわたる中立地帯を設定するというもので、ロシア側の要求を相当程度認めるものだった。日本の外征派も、必ずしも戦争を望んでいたわけではなかったことが分かる。
だが、この頃には日本国内の世論はすでに開戦に向けてヒートアップしつつあった。10月下旬の『東京朝日新聞』の社説を見ると、「百選、百勝の成算、我国にあること疑ひなし」
(10/23)、「無期的に此痛苦を忍ぶは、有期的に戦争の痛苦を忍ぶに如かず」(10/24)、「帝国自身に和乎戦乎を決するの時機既に熟したり」(10/28)とばかりに、早期開戦を連呼している。
こうした状況下にあって、露清交渉のもつれから、駐満ロシア軍が奉天を再占領するという事件が起き、日本側の不信感をさらに煽ってしまった。逆に韓国では、11月に入って、ロシアの外交官や軍人が日本人居留民に襲撃される事件が相次ぎ、露日間の国民感情は悪化の一途を辿った。
(以下、続く
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2016年08月18日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・上

先日ある戦史概説本を読んでいたところ、新著であるにもかかわらず、日露開戦の経緯について「ロシア側で主戦論が台頭し、伊藤博文も外交工作を断念、日英同盟の成立が後押しする形で宣戦布告がなされた」旨の説明がなされていた。典型的な「司馬史観」であり、Wikipediaを始め、日露開戦経緯はほぼ定説化し信じられている。ただ、先に付言しておくと、司馬が『坂の上の雲』を書いた当時は、ロシア側資料が大きく制限されていたこともあって、歴史学の定説でもあり、司馬一人の責を問うつもりは無い。

だが、1990年代以降、ロシア側の文書が公開されたことで、日露戦争の研究も大いに進展があり、特にロシア側の外交、軍事的対応について、従来説の多くが否定されている。例えば象徴的な例を挙げると、『坂の上の雲』でも紹介されている、日露開戦前のロシア内相プレーヴェによる「国内の革命的状況を阻止するために、ちょっとした対外的勝利を得る必要がある」との発言は、最新の研究では、敗戦後に開戦責任を押しつけるために政敵が流したデマだったことが判明しているが(元ネタはウィッテの回顧録)、日本はおろかロシアですらいまだに史実のように扱われている。史実的には、むしろプレーヴェは「もし開戦したら国内の治安に責任は持てない」くらいのことを言っていたようだ。マリー・アントワネットの「パンが無ければケーキを食べればいいのに」はさすがにデマと認識されつつあるが、歴史でも現行の政界でも、一度確立してしまったデマを払拭するのは、恐ろしく難しく、歴史にはまだまだ「史実化されたデマ」が山ほどあると思われる。

結論から先に言えば、「ロシアにおける主戦論の台頭」自体が、開戦当時の日本側の妄想であり、ロシア側は強硬な外交条件を提示したことはあっても、日本と戦争してまで極東利権を守るつもりは全く無く、そもそも優先順位的に極東問題はかなり下の方にあった。そして、日露協商は何度も成立寸前まで至っており、開戦直前にはロシアは日本側条件をほぼ丸呑みすることを伝えていたにもかかわらず、その通達が日本側に届いたのは開戦直後になってしまった(邪魔された感触はある)。日本側は、日英同盟が成立したことで逆に外交的態度を硬化させ、ロシアへの不信感が「戦争準備している」との妄想を膨らませ、主戦派の煽動もあって「一刻も早く開戦する必要がある」との焦燥感に自我を失ってしまった観がある。「優先度の低い極東問題は後回し」というロシア人と、「ここが生死の分かれ目」と思い込み目の血走った日本人の認識差が、日露開戦を引き起こしてしまった、というのが私を始めとする、ロシア学徒の大まかな共通認識になっているが、殆ど広まっていない。
面倒なのは、研究者(日本史、ロシア史、軍事史)が互いにいがみ合っているような状態にあり、細かい部分について「どの辺の線引きが妥当なのか」について、私も確固たる認識を持てずにいる点にある。
とはいえ、司馬史観を放置しておくことは、誤った歴史認識を拡散させて、日露関係の毒にしかならないため、とにかく可能な範囲で払拭していくべきだと考え、本稿の執筆に至った。

日露が開戦したのは1904年2月だが、1900年前後における日本側の政策担当者の対外認識を整理しよう。主に二つの派があり、一つは伊藤博文や井上馨に代表される元老や財界を中心とした日露協商・列強協調路線で、内政改革と国力充実を優先し、大陸進出は「国際環境を見ながら」とするもの、いわば「内治派」である。特に伊藤は、日本に対外戦争を行う余力が無いことを良く知っていた上、列強同士の戦争が他を利する上に当時者を没落させるものに終わる可能性が高いという認識を有していた。二つ目の派は、維新第二世代から少壮官僚を中心とし、「大陸進出が遅れれば、他国に進出可能な地域が奪われる」という帝国主義の意識が強く、内政より外征を優先する「外征派」である。桂太郎や小村寿太郎に代表されるが、外務省や軍部の少壮官僚からも支持されていた。この点、実は昭和初期と大差なく、「明治人は昭和人と違って優秀かつ現実的だった」とする司馬史観は、見直されるべきだろう。ちなみに、山県有朋は当初、前者に属していたが、後に後者に鞍替えしている。

日露戦争の遠因について、従来説は日清戦争後の三国干渉により遼東半島が清国に返還された後、一部(旅順と大連)がロシアに貸し出されたことに始まるとされている。確かに一面では正しい。
下関条約で得た3億1千万円と遼東半島還付によって得られた4500万円のうち3億円が軍備拡張に費やされ、陸軍は7個師団が13個師団になり、海軍は「六六艦隊計画」を発動した。当時の松方正義蔵相は過大な軍拡に反対、「産業育成を同時に行わなければ軍備の維持は不可能」な旨を説いたが、鼻息の荒い軍部と議会によって辞任に追い込まれてしまった。日清戦争前の租税収入が約6700万円、開戦後の大増税によって1億2千万円になったものの、全く身の丈に合わない軍備だったことは間違いない。
この軍拡を推し進めた結果、対露開戦が既定路線となり、議会では藩閥・吏党・民党が軍拡(ミリタリズムの推進)で一致、日露協商路線を破棄して日英同盟に突き進んでいったことは、昭和期の軍縮条約破棄から対米開戦への流れの中で海軍の反対が中途半端に終わって日独伊三国同盟を許してしまった経緯を彷彿とさせる。
日清戦争の「勝利」を検証する

だが、同時に元老たちは、当時の日本にロシアと戦う実力が無いことは百も承知で、現実路線として、「山県=ロバノフ協定」(1896、朝鮮独立の確認)、「西=ローゼン協定」(1898、満韓交換論の基礎)などが採用された。特に、「西=ローゼン協定」で、ロシアが日本の韓国利権を完全に認め、軍事顧問と財政顧問を韓国から退去させていることは、強調されてしかるべきだろう。
この前の1895年には、日本の公使が主導して、日本軍守備隊や領事館警備隊が韓国宮廷を襲撃、親露派の閔妃を暗殺するという事件が起き、その反動で韓国内の親日派が一掃され、親露路線への傾斜を深めていただけに、むしろ日本側の大失策とロシア側の配慮が見て取れる。この時点でロシアが朝鮮半島を影響下に置くことは可能だったからだ。
なお、この閔妃暗殺事件(乙未事件)も、定説では「現場(三浦公使)の暴走」とされているが、日本政府や軍部の関与が取り沙汰されており、その手法はやはり昭和軍閥の源流をなしていると言える。

日露協調路線が一転するのは、義和団の乱(北清事変)である。乱自体は、1900年8月に列強連合軍が北京を占領して収束に向かうが、ロシアは自国の権益である東清鉄道に大きな被害を出したことで、その保護を名目に満州に大軍を派遣して占領下に置いた。この補償と撤兵をめぐる露清交渉は、他の列強が清の味方をしたことで難航、ロシアの満州占領は翌年以降も続き長期化してしまう。
日本側は、これを「ロシアの南進政策の一環」と決めつけ、「ロシアとの協商は不可能、朝鮮がロシアに取られる前に行動する必要がある」とする上記の外征派が勢力を強め、日英同盟に邁進していった。一方、元老を中心とする内治派は、日露協商の継続を模索するが、少壮官僚などからの妨害を受けることが多くなった。
(以下、続く
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2016年08月17日

久しぶりのモノクロプリント

10年ぶりに位にモノクロ写真をプリント。
ペーパーを買いに行ったところ、RCペーパーでも6切100枚で1万4千円と目が飛び出るくらい値上がりしていて超ビックリ。後で聞いたところでは去年くらいから値上がりして、今年初めに一段と上がったらしいので、「もっと早くやっておけば良かった」と後悔。
とはいえ、プリントできるラボも少なくなっているだけに、そうそう機会があるわけでもなく、致し方ない。

今回は横浜の「ダークルーム」にてプリントした。
2年前にフランスで撮影したものと、50年前に祖父が撮影して文字通りお蔵入りしていたネガを引っ張り出してプリントしたもの。

kolmar-mc1001s.jpg
アルザス地方のコルマールにて。宮崎駿の『ハウルの動く城』のモデルにされた街。カラーと比べてみるとかなり印象が違うのがわかるだろう。

kolmar-mc3003s.jpg
中世の街並みがそのまま残されている。印象的にはフランスというよりも南ドイツだ。

1971fj-mc001s.jpg
まさかの顔出し!半世紀近く前の父と私。撮影者は祖父。

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50年以上前の祖母。京都にて。小津安二郎の世界そのもの。保存状態が良く、全く問題なくプリントできた。それもこれも几帳面な祖父がきれいに保存していたおかげ。
posted by ケン at 12:51| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする