2018年04月21日

自由を守るために独裁強化する中国のパラドクス・下

前回の続き)
もう一つは、日本と同じ「少子高齢化」と「貧困」で、恐らくは国防問題よりも深刻だろう。
日本でもよく知られる「一人子政策」を続けた結果、中国は人口激増からは解放されたものの、経済成長に伴う公衆衛生の向上も相まって、日本以上の少子高齢化が懸念されている。
例えば、先日お目に掛かった大学教授の場合、車椅子で生活する90代前半の父君、半入院中の80代後半の母君、亡くされた妻の両親、そして一人娘の面倒を一身に背負っておられるという。都市部の中間層では、ごくありふれた光景だというから、日本と全く同じ問題を抱えていることが分かる。現代中国には、「未富先老」という言葉があり、これは「豊かになる前に年を取ってしまった(ロクな年金も無い)」という貧困高齢者の深刻な悩みと不満を象徴している。

中国では、改革開放路線の中でそれまで職場単位で運営されていた社会保障制度を解体して、統一的な制度(国家基金)へと移行が進められた。その結果、1990年代から2000年代にかけて、病院へ行くと入口に、各医師の顔写真と診療報酬額の一覧が掲げられ、病院はもちろんのこと、診てもらう医者によって診察料が異なるという状態が現出していた(ある意味では非常に合理的なのだが)。
近年、医療機関等は大都市部ではかなり整備が進んだものの、今度は日本と同じで、社会保障費の高騰を招き、少子化によって一人当たりの負担額は今後も急増してゆくものと見られる。

【参考】 医療費9年連続最高記録更新中

また、中国では急速なスピードでインフラ整備が進められている。例えば、上海市にはすでに18本もの地下鉄路線があり、杭州市は現在3本走っているが、今後あと7本の路線が計画されている。だが、これも日本と同じで、インフラ整備中は経済成長が続くものの、その後巨大な維持費が生じた際に、これを担保する財政が維持できるかどうかが課題となる。

【参考】 水道代は高騰の一途

これに対して中国政府の財政基盤は必ずしも強固ではない。例えば、法人税率は25%と低く抑えられており、個人所得税の課税最低額は3500元(2011年時点)で平均所得の3800元とほぼ同一水準の高さに設定されている。株取引などによる金融取引税も存在しない。土地の私有が禁じられているため、固定資産税に相当するものも無い。日本に居ると分からないが、中国は非常に低負担国家なのだ。
この低負担が故に、大きな経済成長を実現できているわけだが、成長は永続せず、将来を見据えた社会保障制度と税制度改革が求められている。堂々と増税を打ち出した日本の民主党野田内閣が総選挙で大敗したように、どの国においても増税は最大の政治的困難を伴うものであり、それが故に中国では強権が必要とされている。

三つ目は歴史的経緯である。中国共産党は元々「社会主義・共産主義国家の設立」を目標に掲げ、「労働者・農民が持ちたる国」を独裁権力の正統性の根拠となしてきた。だが、1980年代に計画経済が行き詰まり、社会主義を一旦脇に置いて自由市場化を進めた。市場改革に伴って発生した社会的不穏は、権力の集中と弾圧によって鎮静させたものの、長くは続けられないため、戦後日本と同じく「経済成長と社会保障制度の再整備」をもって権力の正統性を担保することにし、今日に至っていると考えられる。だが、経済成長は実現したものの、貧富の格差は拡大する一方にあり、同時に共産党幹部の階層化・身分固定も進んでしまった。社会主義は本来、貧困の撲滅と階級間の平等実現を標榜するものであるため、共産党の名称と実態の乖離は拡大の一途を辿っている。その意味で、中国共産党の権力的正統性は、実のところ見た目ほどには強固では無い。
中国の場合、議会制民主主義のように、選挙によって有権者・納税者の不満を和らげるシステムを持たないため、常に腐敗撲滅運動を進めると同時に、党幹部の特権を監視あるいは透明化する措置の導入が不可欠となっている。「腐敗と戦う強く清廉な最高指導者」というイメージが共有されて初めて、中国共産党は一党独裁を堅持できる構造になっていると言える。実際、中国を行き来しているビジネスマンは、「この数年で賄賂を要求する者がほとんどいなくなった」と口をそろえて言っている。

すっかり長くなってしまったので、タイトルが補足になってしまった。
民族社会の歴史的形成を見た場合、長い専制の歴史を持つ中国の方が、分権的な封建社会が続いた日本よりも、社会慣習的により自由であるという指摘がある。
中国の場合、皇帝に権力を一元化してゆく過程で中間団体の活動を否定する傾向が強く、日本や欧州には古くから存在する職能団体や同業者組合のようなものが存在しない、ないしは恐ろしく緩い組織でしかないという。

例えば、日本では鎌倉・室町期には、市や座といったものが生成され、特定の商品を特権的に扱う権利が確立、他の参入を許さない慣習・システムが生まれていた。町の市場ですら権利者以外は店を開くことが許されなかった。当然、その特権は家名で継承されるため、商家は世襲とならざるを得ず、競争原理が機能しなかった。油商人の出身である斎藤道三は、特権による商業活動の非効率を熟知していたがために、「楽市楽座」を進めたとされる。
これに対して、中国の場合、歴史的に国が定めた法律があるのみで、同業者組合の特権もなければ掟(私法)も無いため、商業活動は日本よりもはるかに自由だった。市場では、誰が何を売っても良く、農民であれ元官吏であれ自分の店を持つことができた。実際、科挙に落ちた地方エリートが商人に転じるケースは非常に多かったという。古代(紀元前)ですら、商家出身の呂不韋が秦帝国宰相に就任している。日本で、庶民出身者が宰相になるのは、1938年の広田弘毅が最初である。

現代においても中国の人民代議員は国家主席の御尊顔を拝していれば、「あとは自由」だが、日本の国会議員は何かにつけて業界団体、同業者組合、労働組合、市民運動などなどから圧力を加えられるため、常に皆の顔色を窺っていなければならない。
庶民生活でも、中国人は当局の顔色さえ窺っていれば良いが、日本人は自治会(町内会)やPTAなどの強制力が非常に強く、周囲の顔色を窺ってからでないと何一つ発言できない。
飲み会の席ですら、中国では共産党や政府批判以外は「何でもあり」だが、日本ではそもそも政治の話を忌避・自粛する傾向が強い。以前ロシアの大学で教鞭ととっていたころ、外国語講師と学長との懇親会が持たれたことがあり、その場で若い女性の中国人講師が「私たちの給料安すぎです!」と学長に食ってかかり、「この場でそれを言うのか!」と驚愕したことがある。
これはロシアの話になるが、ロシアの映画や演劇舞台の現場では、監督・演出と俳優が対等に話し合い、往々にして対立や喧嘩に陥ることがあるのだが、日本では監督や演出家が絶対的な権威を持っており、俳優は奴隷のように従属しているケースが大半を占めている。
実のところどちらの社会の方が自由なのか、軽々には判断できないものがあるのだ。

中国の場合、皇帝に権限を集中することで中間団体の発生を抑制し、ある種の市民生活の自由を守る「伝統」があることを知らないと、生半可な戦後デモクラシーの知識と感覚で中国社会を非難してしまう「愚」を犯してしまうことになる。我々日本人は、自分たちが考えているほど「自由」ではないことに、もっと自覚的であるべきなのだ。

【追記】
中国の市場経済化の過程については、一度きちんと勉強しなければと思いつつ、なかなか実現できない。

【参考】
『専制国家史論 中国史から世界史へ』 足立啓二 筑摩書房(2018)
「中国の社会保障制度と格差に関する考察」 柯隆 『ファイナンシャル・レビュー』119号所収(2014)
「中国の個人所得制改革―税額控除適用によるシミュレーションとともに」 申雪梅 『横浜国際社会科学研究』第17巻6号所収(2013)
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2018年04月20日

自由を守るために独裁強化する中国のパラドクス・上

【中国、14年ぶり憲法改正 習氏の長期政権に道】
 中国の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)は11日、共産党の指導的役割を明記し、国家主席の任期を2期(10年)までとしていた規定をなくす憲法改正案を可決した。2期目に入った習近平総書記(国家主席)の長期政権に向け、憲法上の制約がなくなった。
無記名投票で2964人が投票し、賛成は2958票で改正要件の3分の2以上を大きく上回り、99・8%に達した。反対は2票、棄権は3票、無効票は1票。改正憲法は即日公布、施行された。
 習氏が兼任する党トップの総書記、人民解放軍トップの中央軍事委員会主席には任期制限がない。全人代は党、国家、軍の規定をそろえることで「習近平同志を核心とする党中央の権威と集中的な統一指導を守るのに役立つ」と説明した。
 中国の憲法改正は2004年以来、14年ぶり。あらゆる公職者の汚職を取り締まる「国家監察委員会」を憲法上の機関として設立する内容も盛り込んだ。
 改正憲法では、第1条に「共産党による指導は中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴である」と書き込み、共産党の一党支配の正当性を法制度面からもより強固にした。前文には、昨秋の党大会で党規約に書き込んだ習氏の政治理念「習近平の新時代の中国の特色ある社会主義思想」や習氏が唱えるスローガン「中華民族の偉大な復興」を明記し、「一強」態勢を築いてきた習氏の権威をさらに高めた。
(3月11日、朝日新聞)

ケン先生は中国は門外漢ではあるが、全体主義学徒として一言触れておきたい。
最近あった飲み会で、ロシア学を学んだはずの先輩が「チューゴクが独裁強化、人民弾圧、対外侵略推進の兆候〜〜」などと恥ずかしい話を臆面もなくされていた。中国研究を専門とする同志も「今なぜ独裁強化なのか」と疑問視していたのが印象深かった。やはり地域研究とガヴァナンス(統治形態)の研究者は視点が異なるのかもしれないし、日本で教育を受けるとどうしても既存の価値観(主にデモクラシーとリベラリズム)に基点を置いてしまい、客観視することが難しいのかもしれない。

自分の分野で言えば、例えばレーニンやスターリンが独裁権を求めたのは、革命を護持し、一国の近代化と工業化を強行するためであって、個人的な栄達や権力行使を求めてのものではなかった。日本の歴史で言えば、織田信長や大久保利通がこれに類する。習近平氏が個人的な思惑で独裁権を求めていると考えるのは、歴史軽視も甚だしい。

詳細は「ペレストロイカを再検証する」を読んでいただきたいが、ゴルバチョフがペレストロイカに失敗したのは、計画経済から市場経済に移行するに際し、既得権益層の抵抗が予想されたにもかかわらず、「民主化」と称して共産党と同書記長の権力を分散させてしまったため、体制を維持するために必要な改革が実施できなくなって、時間切れを迎えてしまったことに起因している。
具体例を挙げれば、ペレストロイカは1985年に開始されたが、ソ連崩壊前の1990年時点で、市場経済化の進捗度は「企業民営化率1%、自由価格率5%」でしかなかった。また、改革開始時点で食糧価格調整金と国営企業の赤字補填が、歳出のそれぞれ2割を占めていたが、90年時点でその割合は歳入減も手伝ってむしろ増加する有様だった。
実のところ、ゴルバチョフに必要だったのは、既得権益層である保守派を粛清・排除して市場経済化と民営化を強行するための権力集中であり、そのためには民主派も弾圧する必要があった。

一党独裁を護持したまま市場経済化を実現した中国を見た場合、共産党は1989年に起きた第二次天安門事件を利用して民主派を弾圧するが、今度は相対的に保守派が強化されてしまったため、第一線を引いたはずのケ小平が保守派攻撃に転じて陳雲らを引退に追い込んで、改革開放路線を確立した。そして、保守派の反撃と民主派の再起から同路線を堅持するために、1993年には同一人物が総書記、国家主席、党中央軍事委員会主席を兼任して権限を一元化する現行体制が築かれた。

改革開放路線の確立から25年を経て、中国のGDPは、1993年の4,447億USドルから2017年の11.9兆ドルへと、何と26.7倍にも成長した。確かに奇跡的ではあるが、もともと中国は19世紀初頭には全世界のGDPの半分以上を占めており、1890年代に至ってすら単独トップの座を維持していたのだから、この100年間ほどが異常だっただけの話で、「本来の形」に戻りつつあるというのが正しい見方かもしれない。

だが、中国の場合、急成長したが故に大きな課題も抱えている。改革開放路線の柱の一つだった軍の近代化は概ね達成しつつあるが、(モンゴル帝国を除いて)秦帝国以来最大の版図を実現する中華人民共和国は陸上国境だけで2万2千km、海岸線を含めると4万kmにも達しており、その国防は決して容易ではない。過去百年強を見た場合、中国を侵略したのは英仏露日独米墺伊など列強の大半に及び、現在のロシアが米欧日による挟撃を心底恐れて核戦力の強化に邁進するのも決して他人事では無い。
現代日本では中国の国防費の伸びをもって「侵略の前兆」と危機を煽るものが少なくないが、中国人に言わせれば「お前にだけは言われたくない」ということになるだろう。
なお、1978年にソ連がアフガニスタンに軍事介入する際、参謀本部が反対したのは、「ソ中国境防備が脆弱になる」という理由からであったことは特筆に値する。

例えば、北清事変に介入した列強諸国の2016年時の国防費を総計すると、9500億USドル以上に上るが、中国の国防費は2150億ドルでしかない。1930年から40年代にかけて、開戦時に中国の4割程度の国力(GDP)しか無かった日本が、中国領土の3割以上も占領、海岸線を封鎖して7年も持ちこたえたことは、現代日本人にはまず想像できない衝撃だった。なお、現代日本のGDPはちょうど中国の4割ほどで、中国エリート的には「やっと1937年水準か」と溜息が出る話で、経済力で日本を圧倒するまでは全く安心できないかもしれない。こうした歴史が分からないと、中国側の安全保障観は全くイメージできないのだ。
現代日本人から見える「中国による海洋進出の脅威」も、中国からすれば「日本によって7年間も海上封鎖されたトラウマの克服」という側面があることを、我々は理解する必要がある。現代においても、日本政府が提唱する「インド太平洋戦略」の目的は、「対中封じ込め」にある。これが分からないと「一帯一路」の本質も理解できないだろう。

【参考】ロシア人の安保観を代弁する

ただ、中国が身の丈に合った(4万kmの国境防備)国防力を有するだけでも世界有数の軍事力を必要とするため、そのシヴィリアン・コントロールは非常に難しいものとなる。中国四千年は、軍事力を強化すると地方が軍閥化し、地方軍を縮小・廃止して集権化すると中央軍が弱体化して国防が脆弱になる歴史の繰り返しだからだ。それでも、強大化した軍隊を抑えるためには、相応の強権が必要となるのは否めない。欧米諸国や日本が、中国やロシアを敵対視する姿勢を止めない限り、彼らもまた軍事力の強化に努めるほか無いのだから。
(以下、続く)
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2018年04月19日

2017年度中国印税収入ランキング外国人部門

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2017年度中国印税収入ランキング。
外国人作家部門では東野圭吾氏と村上春樹氏が、『ハリーポッター』のJ.K.ローリング氏をおさえ、1位と2位に。両氏の印税額はそれぞれ日本円にして約7億円と3億円になる。スケールメリット大きすぎだろう。まさに「バスに乗り遅れるな」「Лучше поздно, чем никогда.」である。
黒柳徹子氏が入っているのは、『窓際のトットちゃん』が爆発的に売れたからだという。

日本の小説化を見た場合、東野圭吾、湊かなえ氏のようなトップ級でも印税収入は数億円程度と言われ、継続的に作品を輩出している中堅作家でも300〜700万円程度らしい(中央値的にはより低くなる)。つまり、よほど売れない限り、家族を持つことも難しい程度の収入なのだ。

特に小説のように言語依存度の高い媒体は、漫画やアニメなどよりも海外進出が難しく、市場が国内に限定されやすい。だが、日本市場は少子化に伴う人口減少と貧困化によって、今後さらに急激に縮小してゆくものと考えられる。

それだけに作家は今後の生き残りを考えた場合、常に中国市場を視野に入れ、中華系出版社と接点を持つことが重要となるであろう。
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2018年04月18日

介護もボランティアへ?

【軽いかぜは患者の自己負担上乗せ 医療費など抑制へ提案】
 先進国で最悪の水準の日本の財政を立て直すため、財務省は、医療費や介護費の膨張を抑える制度の見直し案をまとめました。軽いかぜなどで診察を受ける場合は、患者の自己負担を上乗せするよう提案しています。見直し案は、11日開かれた財務省の審議会で示されました。このうち医療の分野では、患者が病院などの窓口で支払う自己負担について、軽いかぜなど少額の外来受診の場合は、負担を上乗せするよう提案しました。
 また医療機関に支払われる「診療報酬」は、今は全国一律の水準になっていますが、地域によって医療費の伸びにばらつきがあり、住民が支払う保険料の負担にも格差が出ていることから、自治体の判断で引き下げることができるようにするべきだと提案しました。
介護の分野では、掃除や調理などの身の回りの世話をする生活援助のサービスについて、ホームヘルパーの代わりに地域の住民やボランティアを活用できるようにして費用を抑えることを提案しています。審議会は、これらの案を基に提言をまとめ、ことし6月までにまとまる国の新しい財政健全化の計画に反映させたいとしています。
(4月11日、NHKニュースより抜粋)

障がい者支援をボランティアに委ねる施策が発表されたのは昨年だった
東京五輪では、通訳スタッフすら無償となり、人手が足らずに中高生まで内申書をちらつかせての動員が進められている。
教職員は非正規化が進められ、居住外国人向けの日本語教育や夜間学校は大半がボランティアで賄われている。

東京五輪には2.5兆円から3兆円かかると見込まれるが、必要とされるボランティア要員は11万人で、仮に期間中20万で雇用したとしても220億円でしかない。にもかかわらず、この11万人はことごとく無償労働奉仕が求められている。この一点からも、誰が誰のために行うイベントであるか想像できよう。

現状ですら在宅介護は「地獄」と形容される惨状にあり、経験者が無償ボランティアで、たとえ生活支援であれ、他者の介護を引き受けるとは思えない。介護を自分でやることなど一生ない霞ヶ関エリートの花畑脳のなせる業だ。
診療報酬の引き下げで病院職員の給与も切り下げられるところとなり、社会保障制度そのものの存続が危ぶまれる状況になっている。

若年層にボランティアを求めるとしても悲劇でしかない。今の若年層は、社会人になる前に教育ローンで負債を抱え、月15万ほどの低賃金で朝から夜半まで休み無く働かされ、四畳半一間の古アパートで生存レベルギリギリの生活を送るものが増えているというのに、さらに地域老人の世話を無償でやらされるとなれば、社会に対する怨嗟は天をも突く勢いとなるだろう。
もっとも、強制力を伴わないボランティアで、進んで無関係の老人の世話をしようというものは殆どいないとは思われる。それだけに、「ボランティアのなり手がいない」という時に、強制徴募のような形が取られる可能性は否めない。

現代の資本主義社会は、農村共同体を解体して労働力を都市部に集約することで発展を続けたが、収奪にさらされた労働者の不満を抑えるために導入された社会保障制度が少子高齢化によって持続性を失うと、今度は農村回帰しようというのが、霞ヶ関エリートの目論見なのだろう。
だが、一度解体してしまった共同体原理を核化著しい現代社会にいきなり適用するのは、どう見ても無理がある。合成の誤謬とも言える。この点、歴史や統治論(ガヴァナンス)についての無知が垣間見られ、日本型エリート統治の限界と終焉が予測される。
posted by ケン at 12:28| Comment(2) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日

訓練無しで実戦投入した英語教育のなれの果て

【高3の英語力「話す」「書く」 目標の20%以下 文科省調査】
 高校生の英語力を調べた結果、苦手とされる話す力と書く力は、目標とする英検準2級程度に到達している割合が20%以下にとどまることが文部科学省の調べでわかりました。専門家は「英語教育の再検証が必要だ」と指摘しています。
この調査は、高校生の英語の「聞く・読む・書く・話す」の4つの力を測るため行われ、全国の国公立の高校3年生およそ6万人が対象となりました。その結果、目標とされる英検準2級程度の力がある生徒の割合は、「聞く」が33.6%、「読む」が33.5%、「書く」が19.7%、「話す」が12.9%でした。
文部科学省はこの水準に達する生徒の割合を50%にする目標を立てていますが、いずれも届きませんでした。中でも、日本人が苦手とする話す力は最も低く、0点だった生徒の割合も前回の調査より3.9ポイント高い18.8%でした。
英語教育に詳しい立教大学の鳥飼玖美子名誉教授は「英語力の土台となるのが読む力だ。それによって語彙・表現を覚え、聞いたり書いたり話したりすることができるようになる。今は読むという地道な努力がおろそかになってきている。30年近く『話せる英語』を目標にしながら成果が出ていないのなら、もう一度、再検証すべき時期に来ているのではないか」と指摘しています。
課題が浮き彫りになった話す力と書く力。3年後に始まる大学入試では、この2つの力が新たに問われることになります。大手予備校の「YーSAPIX」では、今年度から新たな授業として、インターネット上で生徒が外国人講師と英会話の練習をしたり、書いた文章を添削したりしてもらう取り組みを始めました。男子生徒は「たまに言葉に詰まってしまい、緊張しました。単語の量も少なく、文法もわからないことが多いので、英語を話すことはいちばん苦手です」と話していました。
 また、女子生徒は「もっと基本の英語から固めていかないといけないと思いました。ちょうど自分たちの世代が新しい大学入試の1回目になるので、不安しかないです」と話していました。
(4月6日、NHK)

この問題はたびたび触れているので、繰り返しになってしまうが、容赦されたい。まず過去ログから再掲したい。
現実における中等教育の標準カリキュラムでは、英語は週3コマだったものが、ようやく昨年(今年度)から4コマに増やされたものの、一教室の生徒数は相変わらず40人のままであり、2012年に文科省が行った調査では、全国の公立校の英語教員で英検準一級の取得者は中学で28%、高校で52%にとどまっている。
文科省が考えている直接法(英語のみによる英語教育)を導入するとなれば、少なくとも一クラスを15人以下にする必要があり、その上で授業数も週に6〜8コマ程度は必要だろう。それは完全な英才教育であり、英語嫌いの子どもや外国語習得に難のある子どもにとっては地獄でしかない。仮にこれが実現したとしても、国内の日常生活で英語を使う必要が殆ど無い日本で、政府が望む水準に達成するのは、やはり2〜3割以下になるだろう。
だが、初中等教育に求められるのは、「市民生活、社会生活に必要な能力」「デモクラシーを構成する一員としての素養」であり、そこに「英語がペラペラであること」が含まれるのかと言えば、疑問しか覚えない。
英語学習に高いハードルを求めるために、他の教科を犠牲にすることが、義務教育の本来目的に合目的であるか、今一度よく考える必要がある。
(英語教育におけるポピュリズム) 

文科省と自民党がやろうとしているのは、人も金も時間もできるだけ増やさないで、英語能力を飛躍的に向上させようというもので、全くリアリティが無い。例えば、英語の授業数を倍にし、一クラスの生徒数を半分にしようという場合、単純計算で土曜日の授業を完全に再開した上で、それで増えた授業時間は殆どを英語に費やし、さらに英語教員の数を1.7倍から2倍に増やす必要がある。それにかかる予算は果てしなく膨大となろう。
だが、ここまでやったとしても、日本では実生活で英語を使う機会がないため、英語を学ぶインセンティブが低く、モチベーションや外国語習得能力の低いものは続々と脱落、同時に英語教員や生徒の能力格差が直に反映されるため、教育格差がますます拡大するものと思われる。つまり、エリート校では「英語ペラペラ」が量産されるかもしれないが、平均以下の学校では増えた分の英語授業が全てムダになり、荒廃が進む恐れがある。
(「英語は英語で」という勘違い・続の補)

下のは5年ほど前の記事だが、おおむね指摘した通りの展開となっていることが分かる。限られたリソースを根本的に見直すことなく、逐次投入した結果、惨憺たる状況が現出している。
もともと機械翻訳の精度向上と実装化が進んで、エリート層以外の外国語学習の必要性が急低下しているにもかかわらず、限られた資源を投入して大失敗してしまう様は、旧ドイツ軍や旧日本軍を彷彿とさせる。
他方、ただでさえ教育のクオリティも学習者のレベルも低下(二極分化)しているのに、敢えて英語特化を進めてしまう文部行政のあり方を問うべきだろう。もっとも、その背景には保護者(一般国民)のポピュリズム的要望という厄介な問題があることも確かだ。

言語教育的には、語彙も文法も圧倒的に知識量が足りないところに、「とにかくしゃべろ!」という教育をなしたところ、試験対策に意味も分からずに会話文を覚えるだけになっていることが想像される。鳥飼先生の、
「英語力の土台となるのが読む力だ。それによって語彙・表現を覚え、聞いたり書いたり話したりすることができるようになる。今は読むという地道な努力がおろそかになってきている。30年近く『話せる英語』を目標にしながら成果が出ていないのなら、もう一度、再検証すべき時期に来ているのではないか」

に全て集約される。下手すれば、自国語(日本語)の文法や語彙についても十分理解していない者が、なんで外国語のそれを理解できるだろうか。
もっとも、この背景には、文法や論理的思考を軽視して、情緒的な文学を重視する国語(日本語ではなく)の問題もあるから根が深い。本来自国語の授業では、文法構造を理解し、読解を通じて論理的思考に習熟し、自ら論理を構成して文章を書くことを目指されなければならない。フランスの高校で哲学の授業があるのも、その延長線上にある。
だが、日本ではむしろ「論理的な人間を育てない」ことが奨励されている。それは、あらゆる学校で「議(リクツ)を言うな!」「生徒は校則に従え!」という教育がなされていることから説明される。であれば、外国語技能など機械翻訳で代替して、リソースは他に費やすべきだろう。

これも繰り返しになってしまうが、そもそも「公教育に求められる教育水準」と「投入可能なリソース」を考慮せずに、あり得ない目標を設定してしまったところに失敗の根源がある。ケン先生に言わせれば、二次大戦期の日本が「重慶もハワイも占領します!」と宣言しているようなもので、もともと実現不可能な目標が設定されているのだから、現場が荒れて惨憺たる結果を招くのは当然の帰結なのである。

いっそのこと文部科学省は一切の教育行政から手を引くべきではなかろうか(爆)
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2018年04月16日

山崎雅弘『西部戦線全史』

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『[新版]西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945』 山崎雅弘 朝日文庫(2018)

別の出版社だが、学研M文庫の再販。
第二次世界大戦におけるドイツと米英仏との戦争、いわゆる西部戦線に焦点を当てる。第一次世界大戦とヴェルサイユ条約から戦間期を経て対ポーランド戦に至る歴史も十分に踏まえており、ドイツ降伏まで全体で640pにも及ぶ大部で読み応えがある。大部ではあるが、文章は非常に明解で、100点からの地図や部隊表も理解を補助してくれる親切設計なので、読む負担は大きくない。最近は1970年代の戦記物を読む機会が増えているが、年寄りには文字が小さくて厳しいものがあったので、文字の大きさも助かる。
全般的にはオーソドックスな記述で、私程度のマニアであれば、特段の真新しさは感じられないが、「西部戦線全体の通史」というのは意外と類書がなく、知的好奇心を満たすのに十分だったといえる。
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2018年04月15日

河部真道『バンデット』

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『バンデット』 河部真道 講談社 全6巻

専用サイト

10年以上続いた『へうげもの』が完結したが、歴史戦国漫画は意外と多い。とはいえ、「これ」というものは多くは無い。一方で、たかぎ七彦先生の『アンゴルモア 元寇合戦記』に代表されるように、戦国時代や幕末以外の時代も取り上げられており、興味深い。

本作もまた南北朝期を舞台にした珍しい作品で、タイトルの通り山賊、(歴史用語の)悪党をテーマにしている。時代的には、鎌倉幕府の再末期なので、厳密には南北朝ではないのだが、時代の空気的には鎌倉幕府の秩序が瓦解過程に入り、あらゆる社会秩序が揺らいでカオスが醸成されている。その中で、下人(奴隷)の主人公が身分を脱して、己の力で封建社会の中でのし上がろうとする。

常々指摘していることだが、ケン先生は中世の蛮性が全く反映されない大河ドラマや時代物に非常に批判的で、歴史修正主義と言っても良いくらいだと考えている。とかく現代日本人は、武士を理想化してしまう傾向が強いが、特に戦国期以前の武士というのは蛮性そのものだった。鎌倉期の絵巻物『男衾三郎絵詞』にはこんな一文がある。
弓矢とる物の家よく作ては、なにかはせん。庭草ひくな、俄事のあらん時、乗飼にせんずるぞ。馬庭のすゑになまくびたやすな、切懸よ。此門外とをらん乞食・修行者めらは、やうある物ぞ、ひきめかぷらにて、かけたてかけたておもの射にせよ

要するに、「サムライの家では、馬草にするから庭の草は放っておけ、庭端には常に生首をさらしておけ、気合いだ!外で乞食や放浪者を見つけたら、引っ捕らえて、弓矢の練習の的にしろ!」ということである。
「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」
『朝倉宗滴話記』

「先づ太刀をとつては、いづれにしてなりとも、敵をきるという心也」
『五輪書』

戦闘力の高さこそが、武士の本懐なのだ。
年寄りどもの大好きな宮本武蔵は、「人を斬る」ことを究めることしか頭にない。
俗に言われる宮本武蔵の武伝も、子細を検討すれば、「弱いヤツとしか戦わない」「強いヤツと戦う時は策を弄する」ことが徹底されていることが分かる。かの『五輪書』には、「いかにして敵を斬るか」しか書かれていない。

鎌倉・戦国期は言うまでも無く、つい150年前の戊辰戦争においても会津や宇都宮の戦場には多数の首無し死体が放置されていたと言うし、1876年に熊本で起きた「神風連の乱」では、真っ先に熊本鎮台の種田少将が討ち取られ、その生首は神前に奉じられた。現代ですら、東京日日新聞の浅海一男記者の回想によれば、日華事変の折、丹陽にある歩兵学校を日本軍が制圧した後、校庭に足を踏み入れたところ、(中国)国府軍の制服を着た首無しの死体が数十も放置されていたという。

【参考】 薩摩の蛮性

その意味で、本作はグロいことは確かだが、こうした中世と武士の蛮性をあまねく表現している。
「武士とは何か?ナメられたら殺す!」(なめられなくても殺すんだけど)

「家柄・血筋・高貴な武者といえども、殺せばただの汚い首となる」

武士どころか皇族ですら大変なことになっており、一昔前なら不敬罪が適用されかねない勢いにある。「ゴダイゴ最強伝説」と呼んでも良いくらいだ。

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史実の人物も登場するが、どれも濃ゆい人物として描かれており、非常に興味深い。
全6巻ながらストーリーは一本道にならず、圧倒的な熱量を維持させながら上手く完結させている。

是非とも実写化したい作品である。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする