2015年11月12日

国籍法の改正を!:帰化とは何か

「在日一世・国籍取得一世が主権を有して投票したり、議員になったりするのはおかしい」旨のネトウヨの書き込みを見て、思わず笑ってしまった。まぁレンホー辺りを念頭に置いてのものらしいのだが、「国籍=主権」を否定するとなると、国籍取得後に選挙権等を取得するための条件を設定する必要が生じる。この場合、日本国籍を有する者の中に「選挙権等を有しない者」という「二等国民」をつくる構造になるわけだが、ネトウヨ的には歓迎されることなのだろう。それにしても、彼らはどのような社会や国家像を想定しているのだろうか。

戦前の帝国日本は一つの指標になり得るが、件のネトウヨ氏の主張するものとは少々異なる。例えば、日本本土では1873年に施行された徴兵令が、北海道では1887年まで、沖縄では1897年まで適用されなかった。そのため、徴兵を逃れるために、本籍を北海道や沖縄に「送籍」するものが続出した。夏目漱石は有名なケースの一つだろう(安倍政権が続けば夏目作品は教科書から削除されるかもしれない)。また、1890年に開設された帝国議会についても、北海道に選挙区が設定されたのは1902年、沖縄は1912年のことだった。これは参政権が戸籍とリンクしておらず、選挙法の適用が日本全国に共通するものでなかったことに起因している。つまり、同じ「帝国臣民」でも、アイヌや琉球人であれ、「大和人」であれ、北海道や沖縄に住んでいるというだけで選挙権を行使できなかった。もちろん、帝国憲法下では主権は天皇唯一人に帰属しており、帝国議会は天皇の立法権に対する「協賛機関」という位置づけだったわけだが。

帝国日本は、日清戦争を皮切りに侵略戦争と帝国主義政策を推し進め、台湾や朝鮮半島を筆頭に領土を拡大していった。新たに帝国支配下に置かれた土地に住むものは「帝国臣民」となったはずだが、内地の戸籍制度も選挙制度も適用されず、例えば朝鮮人の場合、内地への渡航を制限され、国籍変更の自由すら与えられないという差別待遇がなされた。台湾では、内地の戸籍に替わる「台湾戸籍」が1933年に施行されたものの、登録されたのは「本島人」のみで、原住民は「蕃社台帳」に記録された。つまり、「内地の戸籍」「植民地戸籍」「無戸籍・原住民登録」といった、三層・四層の差別構造こそが、大日本帝国を支えていた。
ちなみに日露戦争でロシアから割譲を受けた南樺太の場合、外地では唯一戸籍法が適用されたものの、原住民には適用されず、婚姻しても公的には認められず、生まれた子どもは全て私生児の扱いだった。その後、1933年にアイヌには戸籍編製が許されたものの、その他のウィルタやニヴフなどの部族には許さないという差別が横行していた。
こうした差別の存在は、「天皇の下での平等による諸民族の帝国への包摂」という大日本帝国の支配原理を脅かし続けた。大英帝国との違いを指摘しても良いだろう。

もっとも、参政権については興味深い現象も見られた。衆議院議員選挙法は、内地のみに適用されたものの、内地に一定の住所を持つ「日本臣民(男子)」が対象となったため、特に1925年の普通選挙法施行後は、内地に移住した植民地出身者も選挙権を有するところとなった。ただ、「一定の住所」という条件がネックとなり、短期工のような移動性の高い就業がメインだった植民地出身者が実際に選挙権を有するケースは稀だった。例えば、1931年9月末の在日朝鮮人30万人余中、有権者数は3万8913人でしかなかった。とはいえ、選挙権だけでなく被選挙権もあり、朴春琴は東京4区から衆院選に無所属で出馬して2度当選した。地方議会には相当数の朝鮮人がいたという。1945年4月には、選挙法が改正されて外地にも衆議院の定数が割り振られたものの、総選挙が実施されないまま終戦を迎えた。
いずれにせよ、安倍一派を筆頭とする右翼が称賛し、回帰を望む戦前体制下では、彼らが嫌悪する朝鮮人らが選挙権を有して、参政を果たしていたことは疑いようのない事実である。むしろ、彼らが嫌悪し脱却を図っている戦後民主主義体制こそが、在日朝鮮人たちの日本国籍と参政権を奪ったのである。この「ねじれ具合」を一体どのように評価すべきだろうか。

【参考】 『戸籍と国籍の近現代史』 遠藤正敬 明石書店(2013)

さて、ここで歴史を大きく遡ってみよう。京に遷都した桓武帝のことである。桓武帝の母である高野新笠は、和氏(やまとうじ)の出身で、その和氏は百済系渡来人の家系だった。この点について、平成帝は2001年12月18日の記者会見で、
私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。

と述べている。これに関連して、桓武帝の従兄である和家麻呂は中納言まで出世している。
さらに、以前の話になるが、百済亡命王家の末裔である敬福は、陸奥守、上総守、常陸守などを歴任、関東開拓の先頭に立つと同時に、東大寺大仏建立のための黄金供出において最大の功労者となった。敬福は一族を率いて称徳天皇の御前で百済舞を披露したこともあるとされる。今もなお関東各地に「コマ」の地名が山ほど見られるのは、関東開拓に渡来人が不可欠だったことの証である。

ここで現代に戻る。現行の国籍法は、外国人による日本国籍の取得を以下のように定めている。
【第4条】 日本国民でない者(以下「外国人」という。)は、帰化によつて、日本の国籍を取得することができる。
2 帰化をするには、法務大臣の許可を得なければならない。

ところが、肝心の「帰化」についていかなる定義付けもなされていない。帰化の語源は『後漢書』にある「(化外の蛮族が)君主の徳に教化・感化されて、その下に服して従うこと」という記述に求められる。ここから派生して、明治帝政に援用されるところとなり、「天皇の徳に目覚めて、忠義を誓う」ことを前提とする「帰化によって(のみ)、日本の国籍を取得できる」という新伝統が確立、二次大戦敗戦後のGHQの検閲を免れて戦後復活したものと考えられる。
興味深いことに、現行の国籍法は、日本人に認知された子どもの国籍取得や国籍喪失者の再取得については「届出による国籍取得」として、「帰化による国籍取得」と明確に区別している。つまり、霞ヶ関の法務省は意識的に「帰化」の概念を駆使しているのだ。
となると、レンホーを始めとする帰化日本人たちは、少なくとも制度上は「天皇の徳に目覚めて、忠義を誓う」という「帰化申請手続き」を経て、法務大臣が「貴公の天皇陛下に対する忠義は揺るぎないものがある」と認めて「許可」を出し、晴れて「日本人」になっていることを意味する。ただ、象徴天皇制であるが故に、アメリカやフランスのような「忠誠宣誓式」が行われていないため、国籍申請者の帰化や忠誠に対する意識を確認する術が存在しないことは否めない。
ここでようやく最初の話に繋がるのだが、「帰化手続き」を経て「日本人」になった者たちに対して、「お前らは帰化日本人一世だから主権付与しない」と言ってしまうことは、「天皇に対する忠誠宣誓」への疑義を意味し、帰化制度の根幹を否定することになってしまうのだ。
まぁネトウヨの言を真に受けるのもバカバカしいとは思うものの、言うべきことは言っておかないと。

そして、こちら側(レパブリカン、ソシアリスト)の立場からは、国籍法の改正を主張する。同法第4条の「帰化によって」を削除し、「以下の条件によって、国籍を取得することができる」とし、同時に「2」を削除、国籍取得上の条件を箇条書きにするというもの。その上で、条件を満たしたものは、「憲法遵守宣誓式」に参加して、日本国憲法に対する忠誠を明らかにすることで、日本国籍を取得するという仕組みである。将来的には「共和国に対する忠誠」としたいところだが、そこは段階を経る必要があるだろう。
posted by ケン at 12:11| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする