2015年11月19日

軍人勅諭の無効化と国家神道の復活

明治15年に布告された「軍人勅諭」は、「竹橋事件」と「四将上奏事件」を受けて、山県有朋が主導して作成された。竹橋事件は、西南戦争の論功行賞等に不満を抱いた近衛砲兵隊が明治帝に直訴しようと行動を起こし、戦闘に至った。実際には初回の戦闘で銃弾を使い果たし、3時間と経たずに降伏してしまったというもので、中世の蛮性が濃厚に残っていた明治初年の衝動的事件だったと思われる。とはいえ、下級士官が兵を率いて上官を殺害して御所に向かおうとしただけに、明治政府が受けた衝撃は大きかった。

四将上奏事件は、開拓使官有物払い下げ事件を受けて黒田清隆、五代友厚らの腐敗を糺すとして、鳥尾小弥太、谷干城、三浦梧楼、曾我祐準の四将軍が政府や内閣に相談すること無く、明治帝に直接上奏した事件を指す。その背景には、山県有朋・大山巌らを中心とする外征派と四将を中心とした内治派の対立があった。

この二つの事件を受けて、山県らは軍の統制を一本化する必要性を実感したわけだが、その対応として出てきた軍人勅諭は、天皇を唯一の統帥者として仰ぎ、絶対化するというものだった。これは後の明治憲法にも繋がってゆくが、全ての主権は天皇唯一人が有するものであり、軍人が天皇の主権を侵すことは許されないという考え方の下で、「軍の政治不介入」と「天皇への絶対的忠誠」の原則が盛り込まれた。これが後に、明治憲法の「統帥権の独立」となり、「軍は政府のコントロールを受けない」という昭和軍人の発想に繋がっていった。
軍人勅諭には「忠節」の項に、「政論に惑わず政治に拘わらず」とあり、当初は「軍人は政治に関与してはならない」と理解されていたものの、時を経て軽視されるようになり、「義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」の部分が「軍人は天皇のために進んで死すべし」と強調されるようになっていった。
軍人の政治関与を戒め、軍の統帥を強化することを目的に作成された軍人勅諭だが、その目的を達することは無く、むしろ人命を軽視し、文民統制を否定するツールとして機能して終わった。

これを思い出したのは、先日神職にある友人(正確には友人の友人)の話を聞いたからだ。彼は、とある大学の神道学科を卒業して神職に就いているが、大学では何度も「神官たるもの、政治に関与してはならない。もし総代会などで政治向きの話が出たとしても速やかに退席しなければならない」と教えられたという。これが、戦前期の国家神道が、戦争動員と侵略戦争のツールとして機能したことへの反省に基づいていることは明らかだろう。
残念ながらこれは「良い話」ではなく、彼の話は「でも、神道の教えを社会で実現するのが正しい神職のあり方であり、老人たちの古い教えに従う必要は無い」として憲法改正と政教一体化へと向かってゆく。
山崎雅弘さんの新著ではないが、「戦前回帰」はまさに社会の隅々まで至っているようだ。
posted by ケン at 12:35| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする