2015年12月01日

真珠湾攻撃はハナから無通告のつもりだった?

太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃は、1941年12月8日(ハワイ時間で7日)の未明に行われたが、外交的には駐ワシントン日本大使館の手続きが遅延し、米国側に手交したのは戦闘開始から1時間も遅れるところとなり、米国側から「日本軍による卑怯な騙し討ち」と非難され、「リメンバー・パールハーバー」のプロパガンダを打たせるところとなった。この点については、「米国機関による遅延工作」や「日本軍側による遅延工作」などの陰謀論じみた関係も取り沙汰されている。ただ、一般的には阿川弘之の小説『山本五十六』や各種映画に象徴されるように、事前通告(宣戦布告)に失敗したとの連絡を受けた山本五十六連合艦隊司令長官が悲痛の表情を浮かべるのが常で、「本来は戦闘開始直前に米政府に宣戦を通告するはずだった」との理解が定説になっている。ところが、最新の歴史研究は「事前に宣戦通告するつもりだった」との見解に疑問符を付けている。
まず、肝心の「帝国政府の対米通牒覚書」を見てみよう。カナはかなに直し、句読点を加えた。
帝国政府は「アメリカ」合衆国政府との間に友好的了解を遂げ、両国政府共同の努力に依り、太平洋地域に於ける平和を確保し以て、世界平和の招来に貢献せんとする真摯なる希望に促され、本年四月以来合衆国政府との間に両国国交の調整増進、並に太平洋地域の安定に関し誠意を傾倒して交渉を継続し来りたる処、過去八月に亘る交渉を通し合衆国政府の固持せる主張、並に此間合衆国及英帝国の帝国に対し執れる措置に付、茲に率直に其の所信を合衆国政府に開陳するの光栄を有す。
(中略)
思うに合衆国政府の意図は英帝国その他と苟合策動して東亜における帝国の新秩序建設による平和確立の努力を妨碍せんとするのみならず、日支両国を相闘わしめ、以て英米の利益を擁護せんとするものなることは今次交渉を通じ明瞭となりたる所なり、かくて日米国交を調整し合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望はついに失われたり、よって帝国政府はここに合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり。

原文は長文なのでかなりはしょったが、要は「これから貴国と戦争する」とは一言も述べておらず、対米交渉の打ち切りを伝え、「遺憾」を表明しているに過ぎないのだ。この「対米通牒」を素直に読んで、「日本は戦争するつもりだ」と思うものはいても、「これは日本による宣戦布告だ」と思うものはまずいないだろう。
1907年に成立した「開戦に関するハーグ国際条約」に、日本は同12年に加盟しているが、その第一条「宣戦」は以下のように規定している。
理由を附したる開戦宣言の形式または条件附き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告

日本の「対米通牒」はどう読んでも国際条約の条件を満たしておらず、日本側が「最後通牒」と強弁したところで、国際的に通用するものではなかった。
また、日本側が手交したのは「覚書」(メモランダム)という形式で、外交文書の格付けにおいて下位に位置づけられている。外交文書は、大まかに言って、

1.条約:議会の批准が必要
2.協定:批准の必要は無い
3.口上書(ノート):公式な信書
4.覚書(メモランダム):略式の文書、附帯文書など


に分類される。口上書は、例えば国として正式な条約案を提示したり、あるいは正式に抗議や事実確認、または謝意表明する場合にも使われる。これに対し、覚書は、条約の附帯文書として細部の確認事項を記載したり、あるいは一国の外交担当者が「今の段階では、わが国はこう考えている」と他国に通達する場合に使われる。

口上書の典型例としては「ハル・ノート」が挙げられるが、正式には「合衆国及日本国間協定の基礎概略」であり、その冒頭に「極秘、一時的且拘束力なし」とあるように覚書的要素もあるものの、あくまでもアメリカとして正式な意思表明として考えて良い。
覚書の典型としては、例えば1956年9月7日のダレス米国務長官による「日ソ交渉に対する米国覚書」で、
(前略)米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した。米国は、このことにソ連邦が同意するならば、それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。

とあるように、「アメリカは北方四島は日本のものだと思っているから、安直にソ連と妥結するなよな」と低強度の国家意思の表明として使われている。
つまり、日本政府が対米通牒をわざわざ口上書では無く、覚書にしたのは、最後通牒としての度合いを低く見せ、米国側に「開戦意図を悟らせないけど、ほのめかす」意図があったものと見て良い。少なくとも正式な最後通牒ならば、口上書にする必要があったのだ。
実際、米国は事前に「対米通牒」を暗号解読として内容を把握していたが、何の対応も取っていない。このことは、「アメリカは真珠湾攻撃を知っていてやらせた」という陰謀論の説明として用いられているが、現実には「現行の対米交渉の打ち切り通告」として理解、処理されただけのことだったようだ。そして、これこそが外務省の狙いだったのでは無かろうか。
外務省は、開戦通告のあり方を検討するに際して、「正式な開戦通告」「日露戦争式の自動開戦方式(最後通牒)」「独ソ戦型の無通告」などを検討し、「今次大戦では無通告型も散見される」との意見も出ていたことは、傍証として強調しておきたい。

「対米通牒」の内容について、東郷外務大臣は当初開戦通告を明確にしたものを想定していたようだが、閣議決定と昭和帝への上奏が不可欠であることがネックとなり、上奏不要の「交渉打ち切り」に書き換えた経緯があるらしい。この点についても、日本の霞ヶ関はどこまでも自分のことしか考えない体質であったことが伺われる。

さらに言えば、日本陸軍によるマレー半島上陸は真珠湾攻撃よりも1時間20分も前に開始され、英国に対しては事前無通告開戦となった。しかもこの際、日本軍第5師団はマレー国境のタイ領シンゴラに上陸して、タイ軍や同警察と交戦している。日泰軍事協定が結ばれるのは、日本軍がバンコクに進駐した後のことで、この点も完全に国際法に違反していた。
太平洋戦争の「開戦詔書」に、日清・日露戦争時にはあった「国際法を遵守する」旨の記載が無かったのは、タイ領への無通告進駐を前提とした「確信犯」であったという。徳川義寛『侍従長の遺言』には、東条首相が開戦詔書案を上奏した際に、この点に気づいた昭和帝が指摘したところ、「陛下、ひいては日本が嘘をつくことになってしまいます」と強弁し、強引に認めさせた旨が記されている。

なお、参謀本部『大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌』には、「開戦の翌日宣戦を布告す。宣戦の布告は宣戦の詔書に依り公布す」と残っている。
posted by ケン at 12:17| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする