2015年12月04日

戦時体制化するデモクラシー

【デモ暴徒化、200人拘束=環境保護訴え「人間の鎖」―パリ】
 国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)の開幕を翌日に控えたパリで29日、環境保護を訴える有志ら約4500人(警察発表)が「人間の鎖」をつくった。暴徒化した一部参加者が警官隊と衝突し、催涙ガス弾で鎮圧される騒ぎも発生。けが人はなかったものの、カズヌーブ内相は騒動に関わった208人の身柄を拘束したと発表した。
 同時テロの再発が懸念されるパリでは、治安当局からデモや集会の自粛要請が出ている。しかし、参加者は「次世代に明るい未来を! 」と主張し、原発・化石燃料依存からの脱却を求めた。南仏から訪れたベルギー国籍のパトリック・ドゥブクラーさん(57)は「温室効果ガスを減らすという言い訳の下に原発を推進するフランス政府のやり方はおかしい。自粛要請を気にせず声を上げるべきだ」と話した。
人間の鎖は、同時テロの舞台となったパリ中心部のバタクラン劇場前や、その近くのレピュブリック広場などで実施。現場周辺は地下鉄の駅が一時閉鎖され、機動隊が周囲を取り囲み、物々しい雰囲気に包まれた。オランド大統領は暴徒に対し、「破壊行為と環境保護は何の関係もない」と怒りをあらわにした。 
(時事通信、11月30日)

いかにもロイター系列の記事で事実が相当歪められている。実際には、フランス政府がCOP21に関するデモ・集会を禁止(自粛要請ではない)したことを受け、環境団体が集会を強行、解散を命じた警察隊と衝突したというのが真相らしい。ただし、現地の情報によれば、当初警察は弾圧するつもりはなかったものの、市民団体側の一部が警察を挑発して暴発させたという話もある。
先の稿でも述べたことだが、デモクラシーの政治的安定を脅かすことで、大衆を恐怖させ、治安強化の名の下に市民の基本的人権や自由を制限、デモクラシーの正統性そのものに打撃を与えるという、テロリストの目論み通りになっている。

ジハーディストのテロを理由に、戦時下宣言を行い、市民の自由権を禁止できるとなれば、政府の権力と裁量は際限なく拡大してゆくだろう。
戦前の日本で、共産党が禁止された後も活動が許されていた無産政党や労農派グループが一斉摘発を受けたのは、日華事変が始まって5カ月後の1937年12月だった。
現代日本においても、一度大規模テロや日中国境紛争が起きれば、国会や首相官邸前で行われている護憲集会や反原発デモは即時禁止されて、市民団体は一斉摘発を受ける恐れがある。それに向けて、公安や公調がデモ参加者の写真を撮り、リスト化を進めている(なお、フランスの警察はデモ参加者の写真を撮ったりなどしていない)。
特定秘密保護法、継続審議中の無制限の盗聴を許す改正刑事訴訟法、そして共謀罪と、全て一般市民を取り締まるための法律であり、その行き着くところは戦前の日本、あるいはソ連や東ドイツでしかない。

あとは「テロルの効用について」から一部再掲しておく。
一般的にテロリズムと言えば、一連の9・11テロや中東における自爆テロ、あるいは日本の地下鉄サリン事件などが思い出され、社会に対して直接的被害を与えることが目的であるかのように考えられており、政府やマスコミもそのように捉えている。だが、本来のテロルの効用は、文字通り社会・大衆に「恐怖」を植え付け、熱狂を促進させ、価値観の変容を強制することにある。

昭和のテロリズムは、個々の政治家や財界人や学者を死傷させたことではなく、明治憲法に明文化されていない多元支配の構造(明治末年から大正期にかけて理論化された)を否定し、天皇による一元支配と擬装された軍部支配を実現した点に真の効果がある。同じ意味で、大正期の国際協調主義を否定し、軍国主義を促進させた点も大きい。テロルの副次的効果として、マスコミが便乗して大衆を扇動、リベラル派の知識人が沈黙し、官僚が自らこぞって国家主義・軍国主義に転向していった。また、(左翼)テロに対する警戒を理由に治安維持法などが制定されて恐怖支配が正当化された。

ここで問題なのは、テロルが大衆の熱狂と暴力の容認を生み出す点である。1932年の血盟団事件では、茨城県の若者らが井上準之助前蔵相と団琢磨三井財閥総帥を暗殺したが、裁判に際しては30万通を超える減刑嘆願書が届き、犯人を英雄視する傾向が広まっていった。続く5・15事件では、首相官邸が襲撃されて総理大臣が暗殺されるが、犯人の裁判には100万通を超える減刑嘆願書が届き、嘆願のための自害まで起きた。その結果、反乱罪は適用されず、共同謀議による禁固刑に終わった。
アメリカにおける9・11事件に際しては、米国内でイスラムに対する憎悪がかき立てられ、アフガニスタン侵攻に対する支持は軽く9割を超え、市民権や人権を制限する愛国法の採決に際して上院で反対したのはわずか1名に止まった。
1930年代のソ連における大粛清も、その発端は大衆的人気のあったキーロフが暗殺されたことで、スターリンが犯人捜しを始めたことにある。

オルテガ・イ・ガセは『大衆の反逆』で大衆社会を、ある価値観が社会を構成して大衆を啓蒙するのではなく、「何となく多数」の価値観が基準として「何となく」共有されている社会であると規定している。そこでは「皆が言っていること」が常識で、「皆が信じていること」が真理で、「皆が望んでいること」が希望、ということになる。
テロリズムは、この「何となく」と「皆」を強制的に変容させる力を持っている。何となく共有されていた天皇機関説は暴力的に否定され、リベラル派の知識人が沈黙することで天皇主権説が「皆」となり、軍拡と侵略が「希望」へと変わっていった。
アメリカでは、国際協調主義と寛容の精神が否定され、対テロ戦争の貫徹が「真理」となり、そのために市民的権利が制限されるのは「常識」となった。
(中略)
土井たか子元議長が逝去して、親族が密葬を済ませて一週間後に公表、関係者が「葬儀をするとしても会場を貸してもらえるかどうか」と言っていることは、すでに右翼によるテロルの効用が社会全体に浸透しつつあることを示している。
posted by ケン at 12:27| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする