2016年01月31日

歴史修正主義への最後の抵抗か

【フィリピン訪問の両陛下、大統領主催の晩さん会に出席】
 フィリピンを公式訪問中の天皇皇后両陛下は27日、ベニグノ・アキノ大統領主催の晩さん会に出席された。天皇陛下は第2次世界大戦で多くのフィリピンの人々が犠牲になったことは日本人が決して忘れてはならないことだと述べられた。
(1月29日、AFP)

帝の健康状態は決して良いものではないと聞くが、それを押してのフィリピン行き。画面で見ても、顔色は悪いし、むくんでいるように見える。
「第2次世界大戦で多くのフィリピンの人々が犠牲になったことは日本人が決して忘れてはならないこと」、これを言わんがためだったと思えてならない。自公政権下で突き進んでいる歴史修正主義−侵略性と戦争犯罪の否定、戦争と権威主義の美化−に対する強い懸念の表れと見るべきだろう。「日本人が決して忘れてはならないこと」というのは、裏を返せば「多くの日本人が忘れてしまっている」ということだからだ。
この背景事情はすでに述べているが、再掲しておきたい。
一義的には、平成帝自身が戦後民主主義と現行憲法の信奉者であり、立憲主義と平和主義を根底から覆そうとする自民党・安倍一派の動きに対し、非常な危機感を抱いていることがある。
詳細は先の稿を参照していただきたいが、安倍一派は、福祉国家モデルに替わる国家像を権威主義に求め、その求心力として天皇を考えていると思われ、具体的に「教育現場における君が代の強制」という形で現れている。だが、先の大戦でかろうじて戦犯指定を逃れて「国民統合の象徴」の座を手にした天皇家が、再び政治利用にさらされ、自民党の政治責任の「身代わり人形」にさらされようとしているだけに、賢明なる平成帝としては皇室の未来を憂い、必死にならざるを得ないのだろう。

もう一つは「獅子身中の虫」である。小さくなった皇室でも必ずしも一本化されていないようで、帝と皇太子は政治観においてほぼ一致しているようだが、例えば秋篠宮は安倍一派・極右に同調姿勢を示している。秋篠宮が主な公式行事への参加(帝の代理出席)から外されているのは、平成帝の意思の表れと見て良い。「皇位継承者の実父」である秋篠宮がこれほど露出しないでいるのは、他にも理由はあるが、「ファッショの同調者」と見られているからのようだ。
とはいえ、この「闘い」も宮内庁が安倍一派の手に落ちつつある中で、殆ど帝と皇太子が孤軍奮闘しているような有様になっているとも聞く。

いずれにせよ、権威主義・ファッショの暴走に対し、帝の「御聖断」に頼まざるを得ない今日の状況は、戦後の民主化が失敗に終わったことを示している。だが、戦犯を十分に処断せぬまま権威主義を温存した結果として安倍一派による立憲体制の破壊がもたらされているわけだが、同時に権威主義(国体)の本尊として温存された天皇制が立憲体制の最後の擁護者となってしまっている点は、あまりにも皮肉すぎるだろう。
再び御聖断頼み?)
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月29日

マジで党員辞めたいんデスけど〜党自虐ポスターで

【民主党は嫌いだけど…党勢低迷で自虐ポスター】
 民主党は27日、夏の参院選に向け、3種類の新ポスターを発表した。このうち1枚は「民主党は嫌いだけど、民主主義は守りたい」と自虐的なキャッチコピーを掲げ、「すぐに信じなくてもいい。野党として、止める役割をやらせてください」と訴えた。党勢低迷にもがく、苦しい思いの表れとも言えそうだ。他の2枚では、「自民1強」を念頭に「一強打破」と記したほか、安倍首相が掲げる「1億総活躍社会」に対抗し、「1人ひとりを大切にする国へ」などとうたっている。発表に同席した枝野幹事長は「安倍首相に不安や疑問を持ちながら、民主党に対して批判的な方もいる。地域や候補者事情に応じて(3枚を)使ってもらえれば」と語り、支持拡大に期待を寄せた。
(1月27日、読売新聞)

こんな党、マジで辞めたい・・・・・・
「民主党は嫌いだけど、民主主義は守りたい」なんてポスター持って街中を一軒一軒回って「貼らせてください」と頼むのかと思うと、「この辺りが限界か」と思わざるを得ない。実際のところ、こんなポスターが支部に束で送られてきても、党員や労組員、支援者に「じゃ、これ貼ってきてください」なんて言えるだろうかという話である。党員としても、拒否反応しか覚えないし、こんなポスターを「貼らせてください」と頼まれた方も迷惑至極だろう。つまり、「貼りに行く人」や「貼らせてくれる人」のことを何も考えていない証左である。追い詰められたエリートは、この手の思考に陥りがちだが、もはや末期的と言える。

同時に有権者を愚弄した標語でもある。「一強他弱」と「デモクラシーの危機」の原因は、民主党政権の失政であり、民主党政権に対する失望が今日の安倍政権を生んで、暴走を許していると考えれば、失政に対する反省と総括なくして「民主主義の危機だから民主党よろしくね」など言うのは図々しいにも程がある。
「一強打破」というのは、民主党の願望であり、有権者への訴えにはならない。有権者が求めているのは「自民党に替わる政権党」であって、自民党の党是と政策に替わるものを提示すること無く、「独裁はダメ」と言ってみたところで全く説得力が無い。その根源には、菅・野田政権で増税、TPP、集団的自衛権を推進し、自民党と何ら変わらない政策になってしまったことがある。少なくとも、菅・野田路線を完全に否定し、鳩山・小沢路線の反省を踏まえた方針を打ち出さないことには、あらゆる主張は空虚であろう。

「自民一強体制」になっている現状の多くは選挙制度に起因するものの(比例票だけみると与野党拮抗)、得票割合で自民党が相対多数を得ているのは、「自民党の一強体制で強引にでも諸課題をクリアすべき」「他の野党は頼みにならず」という民意の表れと見るべきであり、その民意を無視して、一方的な願望を押しつけても全く訴求力が無いのは当然だ。

「自虐ネタ」というのは、調子の良い・波に乗っている者が自分を卑下することで、「ボクは決して悪乗りしているわけではありません、自覚してますよ」ということをアピールすることで、見ている者を安心させる効果を求めてのものであって、そもそも期待されていない者が自虐ネタを演じてみたところで、「あ、そ、要らないから」で終わるだけだろう。
広告代理店に振り回されて、正常な判断を下せない執行部を見ているだけで、「こいつらじゃ、やっぱりダメだ」と思わざるを得ない。
posted by ケン at 12:04| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月28日

黒猫・白猫

51mxq-5buNL.jpg
『黒猫・白猫』 エミール・クストリッツァ監督 セルビア(1998)

クストリッツァ映画祭に行く。3週間あると日程も調整しやすくて良い。観たのは『黒猫・白猫』。

名作『アンダーグラウンド』が、外国で絶賛を浴びたのに比して、旧ユーゴ国内では「プロパガンダ」などと批判を浴び、ショックを受けた監督が起死回生の一本として発表した作品。
ジプシーのチンピラ親子を主人公に、マフィアの親分との騙し合いを交えながら、そのいい加減な生き様と恋と結婚を描くドタバタ・コメディー。
相変わらずのハイテンションとブラスバンドで、ノリで一気に2時間が過ぎてしまう。ジプシーとマフィアという点で、暗いイメージを抱いてしまうが、全体の雰囲気は底抜けに明るく、どこまでも人間を肯定している。映画のセンスやノリの点で、日本の故・岡本喜八監督に近いイメージだが、岡本監督がニヒルなのに対して、クストリッツァ監督は悲劇を描いてすら最後には人間を肯定するところが決定的に異なる。かと言って、ハリウッド映画のような嘘くさいハッピーエンドでもないところが良い。
ジプシー音楽を基調としたブラスバンドが、ところかまわず(意味不明に)鳴りまくるのも監督の「仕様」のようだが、このハイテンションとスピードがたまらない魅力になっている。逆を言えば、そこがダメだと2時間見るのは厳しいかもしれない。
数人の役者を除いて、素人のジプシーを役者にしながらも、結婚式のシーンには一カ月もかけるなど、非常に強いこだわりがコメディー映画を超えた「厚み」を醸し出している。
ジプシーの人たちがしゃべるセルビア語はさすがに聞き取りにくかったなぁ。
『アンダーグラウンド』が名作すぎるので、比較は厳しいが、単体として十分高く評価できる作品である。
posted by ケン at 12:44| Comment(0) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月27日

マスゴミも翼賛体制に移行中

【日経など新聞4社、東京五輪組織委とスポンサー契約】
 2020年東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は22日、日本経済新聞社など新聞4社とスポンサーシップ契約を結んだと発表した。各社は大会の安定的な運営と日本代表の活躍を支援していく。日本経済新聞社のほかには読売新聞東京本社、朝日新聞社、毎日新聞社が契約を結んだ。
(1月22日、日本経済新聞)

デモクラシー下におけるメディアの最大の役割は、主権者に適切な情報を提供し、権力行使の妥当性を判断することに資することにある。よく「メディアは権力監視の役割を担う」というが、厳密には権力監視をするのは主権者であって、メディア自身ではあり得ない。いずれにせよ、そのメディアが自ら権力のスポンサーになってしまっては、批判的あるいは中立的な情報が提供されなくなる。そもそも東京五輪は、最大でも半数強の賛成しか得られないまま、3割強の反対を押し切って、「多数決の原理」をもって成立しており、その民主的正当性には大いに疑問がある。まして、IOCの不祥事が発覚して、招致運動に金銭授受が取り沙汰されているのだから、メディアがデモクラシーの担い手を意識するなら、一歩距離を置いてしかるべきなのだ。
だが、軽減税率と同様、自らの利権と特権にしかない大手メディアはこぞって権力への協力を申し出て、少しでも「分け前」にあずかることしか考えていない。その結果、軽減税率に対する批判的な見解はメディアでは取り上げられず、オリンピックについては自ら推進者になってしまっている。

全く同じことは戦前にあった。
日露開戦の経緯を見た場合、当初は「東京朝日」「大阪毎日」が開戦を主張したのに対して、「毎日新聞」「東京日日新聞」といった慎重派が対峙していたにもかかわらず、対露感情の悪化と強硬論の高まりを受けて、殆ど開戦支持一色となってしまった。これは政府の弾圧や強制を受けての転向ではなく、「非戦論では売れない」という理由によるものだった。
盧溝橋事件が起きた頃、「東京朝日」は「航空報国運動」を展開中で、1937年7月20日付で社告を発し、本社より2万円、役員一同より1万円、従業員より1万円の計4万円を拠出、読者に募金を呼び掛けたところ続々と集まり、最終的には陸軍と海軍にそれぞれ200万円ずつ献金した。また、「東京日日」と「大阪毎日」は軍歌の懸賞を募集、全国から2万5千通の応募があった。その中から佳作として選ばれたのが「勝ってくるぞと勇ましく、誓って故郷を出からは……」で知られる「露営の歌」だった。これらは軍に強制されて始められたイベントだったのだろうか。
翌1938年2月には国民総動員法が議会に提出されるが、新聞業界は同法から新聞、出版関係条項を削除し、さもなくば「2回以上の発禁処分で発行停止」という条項を削除するよう政府に陳情を繰り返した。結果、後者は政府が受諾して削除されたものの、さらなる戦争協力が求められるところとなった。

今日では、新聞業界は消費税の軽減税率適用と秘密保護法における新聞取材の例外適用について政府に陳情運動を繰り広げた。オリンピックも自らスポンサーとなることで、大手以外のメディアを排除し、権力から優先的に情報を得たいとする我欲ばかりが目に付く。
再販制度や記者クラブ制度といった特権に守られた新聞業界が、国民に対して消費増税推進の大キャンペーンを打ちつつ、政府に対しては軽減税率や例外規定を懇願する姿、あるいはいわゆる「北方領土」問題における日露関係や尖閣諸島をめぐる日中関係についての煽情的な報道を見ると、侵略戦争に進んで協力した戦前の姿の生き写しにしか見えない。大手新聞社は、全く戦前の反省をしないまま、再び翼賛体制の一員になりつつある。

大手新聞社は権威主義的「アンシャン・レジーム」の象徴である。「民主革命」の暁には、全国紙は10以上、ブロック紙は2つ以上に分割、現存するあらゆる特権−記者クラブ、再販制、クロスオーナーシップ、免税特権等の全てを廃止せねばなるまい。

【追記】
「騙されてお金もらっちゃった、テヘペロ」などという大臣の「説明」をそのまま垂れ流すマスゴミ。誰も「でも、騙されようが、何だろうが、それワイロですよね?」「騙されてお金振り込んだ話なら聞きますが、騙されてお金もらうとはどういうことでしょうか?」とは誰も聞かない。権力の暴走を止めようとするものは、近い将来誰もいなくなるだろう。
posted by ケン at 12:41| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月26日

著作権と肖像権−個人が一方的に叩かれる時代

スキーバス転落事故の報道で、一面に被害者の顔写真が掲載されたが、その多くはSNSからの引用だった。朝日や東京は出典を載せていたが、読売と毎日は載せていなかった。出典の有無に関係なく、そもそも事故や事件報道で顔写真を掲載する必要があるのか、仮に誤報だった時の責任を負えるのか、疑問は深まるばかりだ。少なくとも個人的な印象では、自分が事故で死んだとして、新聞やネットにさらし首にされるのは不名誉極まりないとしか思えない。

かつては、マスゴミも遺族から写真の提供を受けて掲載しており、少なくとも遺族の合意があるということで相応の納得もできたが、SNSの写真を無断転用することが許されるのかとなると、全く別の次元のはずだ。
そこでその合法性について調べてみたが、そもそも肖像権そのものを対象にした民法は無く、過去の判例によって判断されているようだ。新聞協会の見解としては、「公共の利害に関わる」「公益に資する」「内容に妥当性がある」場合は肖像の利用が認められる、というもののようだ。要は「本来は遺族の承諾などは必要ないのだが、写真を借りる以上はやむを得ない」ということだったらしく、SNSの存在によって写真借用の必要がなくなったので、無断使用が横行することになったようだ。民間の防犯カメラも同じ理由から説明される。
個人の側が新聞の記事やテレビの動画を下手に引用すれば、著作権法違反に問われるのに、マスゴミ側は「公共・公益」をタテにやりたい放題なのだ。

マスゴミの肖像利用については疑問がある。まず、顔写真を掲載しなければならない具体的な理由が存在せず、公益や公共の必要性についても説明できないことが挙げられる。新聞やテレビが顔写真を載せるのは、単に「売れる」からであって、大衆の煽情的な欲求を満たすだけの理由しか無い。仮に個人情報が必要だとしても、氏名を報じれば十分目的を果たせるはずだからだ。つまり、マスゴミが顔写真を報じることについて、いかなる公益性も説明できない。
同じことは、警察によるデモ隊参加者の撮影にも言える。警察側は、「公共の安全」をタテにデモや集会参加者の顔写真を撮って、内部リストを作成している。だが、民主主義社会において、デモや集会に参加することは正当な主権の行使であって、公共の安全を脅かすものではなく、むしろ警察による個人撮影の方が、デモクラシーを脅かしている。

そして、もう一つの大きな問題は、誤報や冤罪のリスクである。事故や犯罪に巻き込まれて死亡したとして顔写真を掲載したところ、実は別人の写真だった場合、掲載されてしまった個人が受ける社会的損失は計り知れないだろう。一方、マスゴミの側は社会面にベタで謝罪して終わりで、刑事罰や行政処分あるいは社会的懲罰を受けることは無い。これは冤罪事件ではより甚大な被害が生じる。事件が起きてある人物が逮捕されると、その姓名と顔写真が報道されるが、その裁判で無罪になっても、被疑者の名誉を回復するような報道や謝罪広告が載ることはまずない。結果、たとえ無罪になっても大衆は報道によって「逮捕された」ことのみを記憶することになる。日本における事件報道は、冤罪リスクが一切考慮されていないのだ。これは、(マスゴミを含む)権力にとっての公益性が重視される一方、個人の人格権(名誉)が不当に低く評価されていることの表れである。個人情報保護法ができても、個人情報漏洩の民事賠償が「数千円から数万円(過去の判例)」に過ぎないことも、個人情報や人格権の評価が著しく低いことを示している。

私の主張は、事故・事件報道における顔写真・情報の提示を一切禁じること、そして民法において肖像権と人格権を確立し、著作権やパブリシティ権と同等以上の権利を保障するというものである。
日本人は、「自由と民主主義」を標榜する自国において、個人の人格権がここまで蹂躙されていることについて、もっと自覚すべきだ。
posted by ケン at 12:34| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月25日

参院選野党協力−大きい方が譲るべき

【参院選新潟の野党統一候補は米山氏軸に調整】
 民主党県連は今夏の参院選新潟選挙区に党公認の候補者を立てることを見送り、野党統一候補として維新の党の新人、米山隆一氏(48)を軸に擁立する方向で調整を進める検討に入ったことが20日、明らかになった。新潟市内で23日に開く予定の県連幹事会で協議する。民主党は自らが推す候補を野党統一候補とするため、昨年末までに候補者を決めることを目指していたが年が明けても調整が難航。このため「候補者を一から探すのは難しく、参院選で勝つためには準備が間に合わない」(関係者)と判断したとみられる。ただ、民主党県連の一部には野党第一党として独自候補の擁立を探る動きが依然あるもようで、県連内の意思統一が不透明な面もある。さらに、共産党が党公認候補の擁立を表明しているほか、生活の党県連代表で元参院議員の森裕子氏(59)も出馬を正式に表明しており、候補の一本化に向けた野党間の調整は難航も予想される。
(1月21日、産経新聞)

おいおい、新潟くらい生活に譲ってやれよ。組織間協力の要諦は「大きい方が小さい方に譲る」にある。合流が検討されている維新残党の候補者を出したところで「野党協力」にはならないだろう。
「小さい方に譲る」のは、小さい方は常に「大きい方が利益を独り占めするのではないか」と疑念を抱いて協力を渋るためであり、その疑念を払拭し協力を最大化させるためには、実際のパワーバランスよりも大きく譲る必要がある。

ソ連が冷戦に敗北して崩壊したのは、一義的には市場経済化による経済成長を実現できなかったこと、二義的にはアメリカとの軍拡競争の財政負担に堪えられなくなったこと、があるが、三番目の理由として同盟国支援の経済負担に堪えられなくなったことがある。ソ連は、二次大戦の「戦果」として東欧ブロックを構築したが、各国の経済自立は難しく、ソ連から資源を国際市場よりも大幅に安く仕入れることで何とか生き延びていた。だが、ソ連圏が拡大しただけでなく、いつまで経っても経済的に自立できない同盟国を抱えたソ連は、自国の経済的停滞とともに、同盟国支援の財政負担が重くなっていった。最終的にゴルバチョフが、東欧諸国を「見捨てた」のは、ソ連がもはやその財政負担に堪えられなくなったことが大きい。

近代に至るまで存続した中国の歴代王朝と周辺国の冊封関係も同様で、周辺小国が「小さい贈り物」をすると、中国側は何倍返しにもしなければならなかった。実際、小国側が頻繁に朝貢を希望したのに対し、中国王朝は「何年に一度に限る」と命ぜざるを得なかった。歴代王朝が瓦解した一つの理由は、朝貢外交の返礼の負担が重くなったことが挙げられる。

歴史を知れば、「どちらが譲るべきか」は明らかなはずだ。民主党は、少なくとも一人区では積極的に他党に譲って、その度量を示すことで「野党筆頭」の地位を確立すべきだ。それができなければ、ますます「小せぇなぁ」という評価が強まって支持を失ってゆくだろう。
posted by ケン at 12:33| Comment(4) | 政局ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月24日

バレエからヨガへ

腰を痛めてバレエを止め、1年前に急性腰痛を患ってから、整骨院に通院しながらヨガとピラティスでリハビリに努めている。ピラティスは、もともとバレエ用の体幹を鍛えるために始めたものだったが、本来傷痍軍人のリハビリをスポーツ化したものであるだけに、腰痛のリハビリとしても十分に機能していると思われる。ただ、ピラティスだけだと物足りなく思えてきて、ダイエットを兼ねて始めたのがホットヨガだった。同じ系列のヨガスタジオがすぐ近くにあったことも大きい。

私の人生も完全に後半期に入っているため、実際には「体を鍛える」というよりも「肉体老化を少しでも遅らせて、悪影響を減らす」ことが目的となる。例えば、職場の同僚は、私と同い年ながら「五十肩」を患って腕が肩より上に上がらなくなっているし、老眼も甚だしいという。このうち、老眼はどうにもならないかもしれないが(一定まで進行したらレイシックという手もある)、五十肩はある程度予防できる。
四十肩あるいは五十肩と呼ばれるものは、要は肩関節の劣化であり、特に肩甲骨の経年劣化に負うところが大きい。そして、関節部の経年劣化は「使わない」ことで加速される。つまり、平素腕や肩を動かさないことが劣化を促進しているのだ。
これを避けるためには、平素から腕や肩を動かすことが必要で、一般的には水泳やゴルフ、野球やテニスなどが考えられる。関節部の劣化そのものは止められないが、周辺の筋肉を鍛えることで関節部を補強することが可能だからだ。
私の場合は慢性腰痛があるが、これは腰椎や椎間板の劣化に起因する。骨の劣化そのものは、大きく止めることは難しいのだが、それを補完するために腰回り、特に腹筋と背筋を鍛えることが推奨される。

こうした目的は、ゴルフやテニスのような一般的なスポーツでもそれなりには満たせるが、やはり基本は競技を楽しむことを目的としているだけに、「体を鍛える」ところまで持って行くには相応の自覚が必要となる。もっとも、バレエをやっていた時は、下手すると練習の翌日は壁に手を突いて歩くほどの筋肉痛になったものだが。
その点、「肉体をつくる(健全な肉体に健全な精神が宿る)」ことを目的としたヨガは、私の要求に適合していた。実際にやってみると、予想外に脚(部)を鍛えることに驚いたが、これは野生動物が歩けなくなると死ぬことに象徴されるように、人間もまた「健脚」こそが健康の源ということらしい。もっとも、脚を鍛えると言っても、内転筋のような内側の筋肉なので、一般的な競技スポーツとは鍛えるところが少し異なるのだが。
これはヨガ全体に言えることで、日常生活では使われない筋肉を敢えて酷使することで(変なポーズをする)、肉体全体のバランスを整えるという発想のようだ。
とはいえ、実際のヨガはそれなりにハードなのだが、苦しいポーズを維持するかどうかは自分の判断次第となるので、「自分の肉体と向き合う」側面が強い。もっとも、ヨガは「苦しくても堪える」ことを推奨はしていないので、その点気が楽と言えば楽なのだが、やはり自律能力(セルフコントロール)が求められる。私的には、この「自分の肉体と向き合う」時間と感覚が気に入っている。

また、ヨガの良いところは年齢と無縁の点であろう。世に言う「ヨガの達人」はみな筋肉質の高齢者であり、むしろ痩せている印象が強い。私も長く続けられたらと考えている。
今のところ、バレエをやめてから太った5kg超分のダイエットには成功していないものの、これはどうやら筋肉がついてしまったためのようで、ジャケットの肩幅がきつくなってしまっている。もともと格闘家の人に「何か(格闘技を)されているのですか?」と聞かれるような体つきなのに、ますます「それっぽく」なってしまっているようだ。
上記の理由から、ヨガは「スポーツは苦手だけど、何か肉体を鍛えたい」という人にお勧めである。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする