2016年08月20日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・下

の続き)
日本側の好条件にもかかわらず、ロシア側の回答は著しく遅延した。極東問題の優先順位の低さや意思決定の複雑さと、皇帝ニコライ二世の憂鬱(趣味の狩猟への逃避と皇妃の病気)が重なり、その回答は12月11日になってしまう。ここでロシア側は、「満州は日本の利益の範囲外」とする条項を削除し、日本側に譲歩した。ただ、「韓国への日本の軍事的援助」を拒否し、「韓国の北3分の1の中立化」と「朝鮮半島の戦略目的での使用禁止」は残したものの、問題となるのはこの3点程度に絞られていた。
だが、日本側はロシア側の遅延を「開戦準備のための時間稼ぎ」と解釈、国民世論や議会はますます開戦に向けてヒートアップし、軍部も「開戦するなら今すぐ」という空気に支配されてしまった。開戦派に鞍替えした『万朝報』を退社した幸徳秋水と堺利彦が、『平民新聞』を発行したのは、11月15日のことである。その第一号の特集は、「非戦論演説会」だった。

日本側は12月16日、首相官邸に元老と閣僚が集まって、ロシア側の第二次回答を検討。山県は満韓交換論で最後の交渉を行うべきだと主張したのに対し、桂首相と小村外相は、「朝鮮問題で日本側要求が受け入れられぬ時は開戦」旨の主張、「開戦ありき」だった。だが、最終的には同23日に、満韓交換論を主とする第三回提案を送付、翌1904年1月6日にロシア側の回答を得るも、「韓国北部中立」「半島の戦略目的での使用禁止」は削除されなかった。
この間、ロシア駐日公使のローゼンは、本国に日本が開戦準備を本格化させ、韓国への出兵を企図していることをペテルブルクに打電している。だが、ロシア側では「日本による韓国占領」を企図したものと認識され、「すぐさま日露開戦を意味するものではない」とする見方が大勢を占めていた。そして、「日本が韓国を占領するなら、それはそれ(やらせておけ)」という冷めた見方が強かった。この辺のロシア人の感覚は、「ロシア帰り」でないとなかなか理解しづらいかもしれない。

日本では開戦論が沸騰し、開戦準備が進む中、04年1月16日に、韓国全土を日本の勢力圏とし、中立地帯の設定を除外する第4回提案をロシア側に提示した。ここで、ロシア側はようやく全面譲歩し、中立地帯の設定を除外した上、韓国の軍事利用を認めない条件で日本の勢力圏化を完全に認めるという、日本側に拒否する理由の無い内容のものとなったが、この回答がローゼン駐日公使の下に届いたのは2月7日のことだった。その前々日には、明治帝から開戦の大命が下され、翌6日には同行使に国交断絶が伝えられていた。日本海軍による旅順口奇襲が行われたのは、2月8日である。
なお、成立寸前にあった日露交渉の内容は、1901年12月に伊藤博文が、独自にヴィッテ蔵相とラムズドルフ外相と交渉してほぼ合意に達しながらも、日英同盟交渉を進める外務省に止められてしまったものと、ほぼ同じものだった。

一年半以上にわたる戦争を経て締結されたポーツマス条約の要点は以下の通り。
1.日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
4.ロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

このうち1と2は開戦前の日露交渉で合意されていたものであり、実のところ日本が戦争で得たのは、3〜6の部分に過ぎなかった。その代償は、9万人近くの戦死者と3万人近い病死者、15万人以上の負傷者であり、税収が2億円のところに19億円の戦費(うち8億円が外債)というものだった。
この戦費について、外債引き受けを担当した高橋是清は、事前に政府に受けたレクチャーで「継戦期間を一年として4億5千万円」と説明されている。1904年の日本のGNPは30億円でしかなかった。
この外債の内実は惨憺たるものだった。
最も規模の大きかった英国債を例に挙げると、一回目と二回目の公債は利率6%で、発行価格が額面の約90%の上、関税収入を担保に入れるという代物だった。
最初から割引して発行していることを考えれば、実効利率は7〜7.5%といったところだった。
三回目と四回目の公債は、若干マシになって、利率は4.5%になったものの、発行価格は相変わらず額面の約90%の上、タバコの専売収入を担保に入れていた。
他方、ロシアの対仏公債は、利率5%、発行価格は額面の99%、担保無しというもので、この差こそが、まさに当時の国際的評価を表していた。
そして恐ろしいことに、日本国が、日露戦争に際して発行した公債の返還を終えたのは、なんと1986年のことだった!
日露戦争のツケ

さらに終戦後、日本は韓国を併合するが、その経営が赤字続きで、1932年の一般会計予算が15億円のところに7千万円も交付金を出して補填しなければならなかった。
一方、ロシアでは革命が勃発、第一次革命は鎮静させたもの、帝政の終焉を早めたことは間違いなく、ソ連というより強大な脅威を作り出す遠因になった。そして、韓国や樺太などを防衛するためとして、シベリア出兵や満州事変が起こされ、「ソ連の脅威」に備えるため陸軍の際限なき軍拡が進み、日本の重工業や民政発展に深刻な打撃を与えた。

日露協商は、むしろ成立しない要素の方が少なかったにもかかわらず、タフな交渉を捨て、安易な武力行使に走った結果、日露両国にとって不幸な歴史の原因をつくってしまった。王道では無く、覇道スタンスを採るとしても、当面を満韓交換論=日露協商でやり過ごしておけば、遠からずロシアは第一次世界大戦に巻き込まれて窮地に陥ったのであり、満州進出はそれからでも十分だったはずだ。
我々は「明治の栄光」などという観念を捨て、改めて謙虚に歴史を検証すべきなのである。

【参考】
『日露戦争 起源と開戦』 和田春樹 岩波書店(2009)
『日露戦争研究の新視点』 日露戦争研究会編 成文社(2005)
「日露戦争−開戦にいたるロシアの動き」 和田春樹 ロシア研究78号(2006)
「日露戦争と日本外交」 伊藤之雄 防衛省防衛研究(2004)
「日英同盟締結後における日露の外交方針」 千葉功 日本歴史581号(1996)
「ロシア帝国と日露戦争への道−1903年から開戦前夜を中心に」 加納格 法政大学文学部紀要53号(2006)
「政治指導者の国際秩序観と対外政策−条約改正、日清戦争、日露協商」 佐々木雄一 国家学会雑誌127巻(2014)
「日露戦争観の過去と現在」 千葉功 新しい歴史学のために288号(2016)
日露戦争のツケ」 
朝鮮統治のツケ」 
「日清戦争の「勝利」を検証する」 
ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程

【追記】
映画『二百三高地』は、『仁義なき戦い』の笠原和夫が脚本を担当、「明治天皇が遠く戦地の乃木を思う場面なんかよりも、豆腐屋とか幇間とかやくざみたいな連中が戦場に送られてどうなってこうなって」という方針でつくられた。だが、ラストで乃木が明治帝の前で報告する場面は、当初史実に基づき、帝が冷淡に報告を聞き置く形にしたところ、東映の岡田社長に「お前、それじゃあ客がはいらへんぞ。報告する乃木も、報告を聞く明治天皇も皇后も滂沱と盛大に泣かしてくれや」と言われて、書き直されたという。「歴史」はこうやってつくられてゆく。

【追記2】
なお、明治帝は、日清戦争に引き続き、日露開戦に際しても常に慎重派であり続けた。開戦直前の1904年1月5日に米フィリピン総督タフトに接見した際には、「朕に於ては今日迄も其局を平和に解決致したくと努め居り、尚ほ其方針を以て時局を結了せんことを覚悟し居れり」と述べている。また、廟議で開戦が決せられた2月4日には、内廷に帰った際、「今回の戦は朕が志にあらず」と誰に対してでも無く独り言のようにつぶやいたとされる。さらに、その日の夜は一睡もできず、戦争中も食事も睡眠もままならない日が続き、命を縮めてしまったのは周囲の目からも明らかだった。戦争末期に樺太作戦が上程された際も、「列強の介入を招くのではないか」と慎重姿勢を見せ、すぐには裁可しなかった。両戦争に際して、元老を含む政治家たちよりも天皇の方が大局観を有していたというのは、何とも皮肉な話である。

【追記3】
開戦時の「露国に対する宣戦の詔勅」には以下の一文があるので付記しておく。
帝国の重を韓国の保全に置くや一日の故に非す。是れ両国累世の関係に因るのみならす韓国の存亡は実に帝国安危の繋る所たれはなり。然るに露国は其の清国との明約及列国に対する累次の宣言に拘はらす依然満洲に占拠し益々其の地歩を鞏固にして終に之を併呑せむとす。若し満洲にして露国の領有に帰せん乎韓国の保全は支持するに由なく極東の平和亦素より望むへからす。故に朕は此の機に際し切に妥協に由て時局を解決し以て平和を恒久に維持せむことを期し有司をして露国に提議し半歳の久しきに亙りて屡次折衝を重ねしめたるも露国は一も交譲の精神を以て之を迎へす。

現代語訳:日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。わが国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、いまだに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。仮に満州がロシア領になってしまえば、わが国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、臣下を遣わしてロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神は全くなかった。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする