2016年09月18日

アルキメデスの大戦

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『アルキメデスの大戦』 三田紀房 講談社ヤングマガジンコミックス 既刊三巻

時は昭和8年、1933年。日本は満州事変、5・15事件を経て急速にミリタリズムへの傾斜を深める一方、ドイツではナチスが政権を奪取して国際連盟からの脱退を表明していた。国際緊張が高まりつつある中、日本海軍では次期主力戦艦の選定をめぐり、激しい対立が生じていた。ドレッドノート級をはるかに上回る超ド級戦艦を計画する主流派(史実的には艦隊派)と、航空主兵主義を唱え高速の巡洋戦艦を主張する非主流派(同条約派)である。だが、艦隊派が出してきた大和型戦艦の見積もりは非現実的に低く、条約派は一人の天才学生に「査定」を依頼することにした。

「数字で見る建艦競争」「派閥抗争で見る日本海軍」という図式が斬新で興味深い。
航空主兵論者にして三国同盟に反対した大叔父の痛恨は、「大和があるから(戦える)」「大和を動かせるうちにやろう」と日米開戦へのインセンティブがかかり、「まだ大和がある!」と和平交渉の障害になってしまったことにあった。税収が13億円という当時に、1億5千万円の巨大戦艦を二隻もつくってしまう官僚制度と合成の誤謬を良く描いている。叔父上の魂が乗り移ったかのようだ。
そのうち租税と印紙による基本的な税収は、わずか13億円に過ぎないのだ。
塩・たばこ・砂糖の専売や、その他の官業収益、国家資産の整理などを含めて、ようやく19億円になるような有様だった。
もっとも、一般歳出も戦争勃発に伴う追加予算の編成で膨れあがっただけで、昭和8年から11年までは22〜24億円程度に収めているし、臨時軍事費もない。
つまり、歳出ではなく、政府収入から見た場合、大和のムダさ加減は一層強調される。
借金ではない真っ当な収入が20億円もないところに、1億5千万円の戦艦を2隻もつくってしまったのだ。
(中略)
昭和12年度には兵器費に占める弾薬費の割合はすでに56%になっていたが、翌13年度には早くも76%に上昇し、その分兵器生産が犠牲となって滞り、さらに翌14年(1939年)には中国戦線に展開する25個師団への補給が一部不足するという事態に陥っている。
この昭和14年に戦前の日本のGNPは頂点となり、後は次第に衰退していくだけだった。
その翌々年に日米が開戦するわけだが、兵器・弾薬・戦車・自動車等の生産は昭和13年(1938年)がピークであったことを考えると、我々の先祖は一体どんな頭脳をしていたのか、疑うしかない。
戦艦大和をめぐる日本人の財政感覚

大和が参加した唯一の水上戦である「サマール島沖海戦」が、それを物語っている。
1944年10月25日、いわゆるレイテ沖海戦の一局面だ。
レイテ湾突入を目指す栗田艦隊(大和を含む戦艦4、重巡6、軽巡2、駆逐艦11)は、サマール島沖にて、米第77任務部隊の護衛(小型)空母6、駆逐艦7からなる艦隊を発見、これを米正規空母群主力と誤認して、戦闘を開始した。

真っ昼間の2時間の海戦で日本海軍が挙げた戦果は、護衛空母1隻と駆逐艦3隻のみで、逆に航空攻撃や雷撃を受けて、重巡部隊の大半を失った。
その際に、大和の主砲は1発の命中弾も与えられなかった。
戦艦4隻(大和、長門、金剛、榛名)の主砲発射は、合計で約500発に上ったが、命中弾はわずか10発強に過ぎなかった。
天候や航空攻撃などの悪条件はあったが、昼間の距離3万メートルで命中させられない、ということは、大和の46センチ砲の優位性(米戦艦の射程外から撃つ)がはなはだ疑わしいことを意味する。
無用の長物
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする