2016年10月14日

ラビリンス第7戦−その他のシナリオも

T後輩とGMT「ラビリンス−テロ戦争」をプレイ。3人を相手に計7回もプレイした作品は、近年では思いつかない。我々的には、GJ「信長最大の危機」以来のヒット作ということになりそうだ。
その魅力は、他に無い対テロ戦争の全容をテーマにしていること、独特のルールで非対称戦争(彼我で戦術や目的が異なる)を表現していること、プレイ・アビリティが高く一日で2、3プレイできること、ゲーム・バランスに優れていること(米国は苦しいが勝てなくは無い)などにある。特異なルールながらも、プレイしてみるとルール自体は簡単で、しかしもの凄く頭を使うところも良い。

この日は8時間超プレイして、3プレイ目の途中まで。3プレイ目は、キャンペーン扱いでカードデッキ2山目に突入していたが、時間切れとなった。T後輩がアメリカ、ケン先生がジハーディストを担当する。

1プレイ目は基本の2001年シナリオ、アメリカはアフガニスタンに侵攻せず、イデオロギー戦争(援助外交)に専念しようとする。早い段階で湾岸諸国が安定化したものの、テロが起きて元通りになってしまう。その後は進展しないうちに(ダイスが悪かった)、イベントで威信が3以下になってしまい、マイナス修正が入るようになって打つ手がなくなってしまった。ジハーディスト側は、イラク、トルコでイスラム革命を起こし、米側は打つ手も無くサドンデス敗北を喫した。

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1プレイ目終局図。アフガン、イラク、トルコに原理主義政権。イランをまたいで非常に近いところにある。

2プレイ目は、2002年シナリオ(イラク侵攻前)を試してみる。米国の国家威信が「8」と、高いところから始まる上(最高12)、「愛国法」も施行されており、しかも原理主義国はゼロという、比較的アメリカに優しい設定。
最初から愛国法が発動しているので、関連イベントが続発し、ジハーディスト側の資金も3以下になってしまい、「ヨーロッパかどっかで派手な花火を打ち上げないと、革命資金が集まらないよ〜」という展開になってしまう。
早々にジハーディスト側の資金が底を尽いてしまったが、ジハーディスト側は、イスラム教国でテロを行っても基本的に1ポイントしか資金が得られず、「稼ぐ」ためには欧州やインドを始めとする非イスラム国でテロを実施する必要があるが、これが上手くいかない。そもそも資金が最低ランクになると、セルが最大5個しか出せないため、行動そのものが大きく制限されるためだ。また、「盤上からセルが一個も無くなるとサドンデス敗北」というルールもあるため、無理も出来ない。
ジハーディスト側は、その5個のセルを中央アジアに「全員集合」させて、乾坤一擲の革命を行い、これに成功。続いて、「核流出」カードでプルトニウム(大量破壊兵器)をゲットした。さらにケン師は、米本土にセルを潜入させ、ニューヨークの地下鉄でダーティ・ボムによる自爆テロを計画するが、すんでのところでFBIに阻止されてしまった。2箇所で計画されたテロの内、一箇所が大量破壊兵器であることは明白で、阻止できるのは一つだけという状況だった。仮にこれが爆発していれば、ジハーディストのサドンデス勝利に終わっていた。
ここでまた流れが変わり、アメリカのイデオロギー戦争が好調となる一方(とはいえ時間は掛かった)、ジハーディスト側は相変わらず資金繰りに苦しむ状態が続き、「Good(安定)」国が12ポイントに達して、米国の勝利に終わった。

3プレイ目は夕6時頃から「できるところまでやってみよう」と始める。2003年シナリオを選択。イラク侵攻後の設定で、アメリカはアフガニスタン、イラクに全面展開し、本国に一兵も余裕の無い状態(過剰展開)から始まる上、国家威信も「3」という最初から外交にマイナス修正が入ってしまっている。他方、ジハーディストも資金「5」と厳しいところから始まるが、初期段階でジハーディストの手札が8枚に対して、アメリカは7枚でしかなく、この点でもやはりアメリカ側が厳しい。
実際のプレイでは、早々にアメリカの威信もジハーディストの資金も底を打ってしまい、お互いに何をやっても上手くいかない状態が延々と続く。時間を掛けてテロやイベントで資金を溜めたジハーディストは、シリアとトルコに原理主義政権を打ち立てる。T大統領は政策転換して穏健路線に転向、アフガニスタンから撤兵した後、再び強硬路線に転換してシリアに侵攻、またイラクを安定化させてフリーになった部隊がトルコに侵攻する。が、ジハーディストは攻撃をすり抜けて、中央アジアで革命を起こし、さらにパキスタンを狙うという、完全な「いたちごっこ」になった状態で時間切れを迎えた。
全体状況的には、「ジハーディストがやや有利」なくらいだったが、「安定」や「適正」国家も増えており、長期的にはジハーディストが苦しくなりそうな展開でもあった。確かにこのシナリオは、2山、3山とプレイしないと終わりそうに無いが、考えてみれば、史実=現状も双方決定打を欠きながら、互いに疲弊してしまっているところがある。

改めて、一体誰が何のためにやっている戦争なのか考えさせられる作品である。
posted by ケン at 12:19| Comment(0) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月13日

ボランティアじゃなくて勤労奉仕

【条件厳しいのに…タダ働き? 東京五輪ボランティア像】
2020年東京五輪・パラリンピック大会組織委員会が求めるボランティア像を明らかにしたところ、「タダ働きでは」「ブラック過ぎる」と反発の声が上がった。組織委がタダで人材を集めては虫がよすぎるのだろうか?コミュニケーション能力がある▽日本語に加え、外国語が話せる▽1日8時間、10日間以上できる▽採用面接や3段階の研修を受けられる▽20年4月1日時点で18歳以上▽競技の知識があるか、観戦経験がある▽ボランティア経験がある――。以上の7点を備えた人材が、組織委が素案で大会運営ボランティアに望む要件だ。ユニホームは支給されるが、期間中は無償。交通費も出ない。宿泊や東京までの移動手段も自分で手配しないといけない。
 素案が明らかになると、ネット上では「条件が厳しすぎる」「語学経験込みだと、派遣なら時給1400円はもらえてもおかしくないな」などの意見が相次いだ。ただ、4年後の東京も4年前のロンドン五輪を参考にしていて、過去の大会に比べて特段厳しいわけではない。業務によっては語学力がそんなに必要のない分野もあり、「10日以上」という条件も、「保安上の問題もあるので半日だけの参加と言われても困る」(組織委)という事情もある。組織委は「あくまでも議論のたたき台」としており、18年夏の募集開始までに詳細を決めるという。そもそも、ボランティアとは、社会のために自ら進んで、無償で働くもの。それが「タダ働き」と受け止められる声が出てくるのはなぜなのか。
(7月22日、朝日新聞抜粋)

これは、記者の無知にこそ問題があるが、この誤認は世に流布しており、個々人の責任に帰するべきものでもなかろう。
記事は、ボランティアを「社会のために自ら進んで、無償で働くもの」と定義しているが、これがそもそも原義から大きくかけ離れている。一部過去ログの再掲になるが、許されたい。

ボランティアの語源は、ラテン語の「voluntas」(=自由意志)にあり、意味上の原義は徴集兵に対する志願兵を指す。歴史的には、十字軍に自発的に従軍する人を指し、王家の常備軍や貴族の傭兵、あるいは修道会の騎士団とは一線を画した。つまり、宗教的動機に基づく義勇兵を意味した。
キリスト教の大きな特徴の一つは「善への希求」にある。善行をなすことは、天に徳を積むことになり、それによって最後の審判の時に天国行きか地獄行きかの判定の基準となる。善行を積み重ねることは、絶対神に対する人間の義務とされていた。
つまり、キリスト教徒にとっての善行は、相手のためではなく、第一義的には自分のため神に対する義務を遂行することにある。善行の結果は、あくまで行為の結果であって、それ自体が目的ではない。
十字軍の悲劇は、「キリスト教(会)のために行う聖地奪還」という「聖戦の遂行」が目的であって、結果として略奪や侵略になってしまったことは従軍者(ボランティア参加者)にとっては「どうでもいいこと」だったことに起因する。
従って、「ボランティアは誰かのためにするもの」と一般的には思われがちだが、原義的にはむしろ「自己実現」が基本となる。この原理が分からないと、イスラム国に参加しようとする欧米人らジハーディストの精神を理解することは不可能で、「巧妙な宗教的勧誘に騙された可哀想な人たち」などという解釈になってしまう。こうした基本原理は十字軍に参戦するキリスト教徒も、聖戦に加わるムスリムも同じと考えて良い。

日本史上で言えば、戦国領主に対して立ち上がった一向門徒(浄土真宗徒)や、大坂の陣において大坂城にはせ参じた明石ジョアン・ジョストらキリシタンがこれに当たる。
歴史的に「一向一揆」と呼ばれるそれは、寺社の特権や治外法権に介入しようとした戦国領主に対して、自分たちの宗教コミュニティを守るために門徒が立ち上がったことに起因する。浄土真宗が特に有名になったのは、「講」や「無縁」と呼ばれる自治性の高いコミュニティを有して、それが一種の宗教的ユートピアとして機能していたからだった。
浄土真宗が民衆に圧倒的な浸透力を持ったのは、必ずしも僧侶に依拠しない信者組織「講」(〜講の語源)を創設し、信者が独自に信仰を広めていったところが大きく、この辺も聖職者不在のイスラム教に似ている。

戦場は石山に限られていたわけでは無く、休戦期間もあったこともあり、実際にどれほどの門徒が集まったのかは分からないが、ピーク時には2〜3万人に達したものと思われる。近畿圏だけでなく、九州や北陸・東北からも参集したようで、まさに全国規模だった。基本的には名のある武家では無く、農民や職人層であったが、皆一族で金を集めて自弁で武装と兵糧を用意し、一族を代表する屈強な若者に持たせて参戦させたのだ。当時の火縄銃は現在の自動車並みの値段だった。本願寺は装備、練度、戦術能力の全てにおいて織田軍に劣っていたが、それでも10年にわたって戦い続けたことは、まさに現代のジハーディスト民兵と被る。

大坂の陣や島原の乱には全国からキリシタンが参戦している。特に大坂の陣では、明石全登(ジョアン・ジョスト)が十字架の幟を立ててキリシタン部隊を率いて信教の自由を求めて戦った。明石は大坂に入城する際、その条件として「キリスト信仰の容認」を挙げたと言われる。

この二つの例から分かるのは、本来「ボランティア=義勇兵」というのは、「自らの価値観やコミュニティを守る」ことを本懐とし、それを通して自己実現を図ることを目的としている。
ただ、この原義に基づくと、現代でボランティアを名乗る資格があるのはジハーディストだけ、ということになりかねないので、今少し解釈を広げる必要がある。その場合でも、本来的には「価値観やコミュニティを共有する」ことが重視されるべきで、例えば展覧会や音楽会あるいは学会の手伝い、コミケの売り子や運営員、より原義に近いものではお祭りの運営員や宗教の勧誘員などが、これに相当する。

日本においてボランティアが「ただ働き」との批判が尽きないのは、行政・学校・企業などの巨大な権威と資金を有するものが、価値観を共有しないところで、無償労働を義務的に要求するからだと考えられる。
例えば、自治体が清掃ボランティアを、学校が通訳ボランティアを募集するのは、単に「報酬を払いたくない」だけの話であり、それは企業が社員にサービス残業を要求するのと似たような構図になっている。本来、対価を支払うべき労働を、「ボランティア」の美名で虚飾し、無償の労働力動員を正当化している点が、おぞましいのだ。

五輪組織委がボランティアを募集するのは、五輪の理念を守るためではなく、単に無償労働者が必要なためであり、組織委が何千万円の報酬をもらっていることが、その腐敗臭を強めてしまっている。
個人的にも、ゲームマーケットやコミケのボランティアは引き受けるが、五輪のそれは拒否感しか覚えないのは、そこに「理念の共有」が存在しないためだろう。

まずは、行政、学校、企業やそれに類する組織が「ボランティア」を使用することを止め、「勤労奉仕」に置き換えることから始めるべきだ。

【参考】
・異文化を理解するということ−ボランティア精神 
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2016年10月12日

通信の自由が失われる日

【ヤフーが全受信メールを監視、米情報機関の要請で=関係筋】
 米ヤフー<YHOO.O>が昨年、米情報機関からの要請を受けてヤフーメールのユーザーのすべての受信メールをスキャンしていたことが、関係筋の話から明らかになった。ヤフーの元社員2人と別の関係筋によると、ヤフーは米国家安全保障局(NSA)もしくは連邦捜査局(FBI)の要請に基づき、数億件のヤフーメールのアカウントをスキャンし、情報機関が求めていた特定の情報をサーチしていた。情報機関はヤフーに対し特定の文字をサーチするよう要請していたが、どのような情報を求めていたのかは明らかになっていない。関係筋によると、メールもしくは添付ファイルに記載されたフレーズを求めていた可能性がある。
 ロイターは、ヤフーが情報機関にデータを手渡したのであれば、それがどのような内容だったのか特定できていない。また、情報機関がヤフー以外の企業に同様の要請を行っていたのかも不明。監視活動の専門家は、すでにメールボックスにセーブされているメールのスキャンやリアルタイムで少数のアカウントを監視するのではなく、すべての受信メールをサーチする要請に応じ、明るみに出た米企業としては初のケースになると指摘する。
ヤフーの元社員によると、情報機関の要請に応じるマリッサ・メイヤー最高経営責任者(CEO)の決定をめぐり、一部幹部は反発。昨年6月の情報セキュリティ責任者アレックス・スタモス氏の辞任につながったという。ヤフーは情報機関からの要請をめぐるロイターの質問に対し、声明で「ヤフーは米国の法律を順守している」とし、それ以上のコメントを差し控えた。情報機関もコメントを差し控えている。
(10月5日、ロイター)

「通信の自由」なんて遠い昔の話になってしまった。外に出れば、監視カメラに記録され、メールや電話は全て傍受される−「自由」を体制の理念にしていたはずの西側陣営が、いまやソ連や中国と全く同じ支配体制を取りつつある。その違いは、せいぜい強制収容所の有無でしかなくなっているが、興味深いことに1980年代初め、ソ連において収監されている政治犯は、アムネスティですら「100人内外」「数十人」という数字を示していた。
米国の人権規定が適用されないグアンタナモ収容所(キューバ)には、2005年段階で500人以上が収容されていたことを鑑みても、現代のアメリカの人権状況は80年代のソ連よりも悪化している。
アメリカが「世界の警察官」たり得たのは、その自由と民主主義が普遍的原理と認められてきたためだが、自ら否定することでその正統性を失いつつある。

やはり水槽からピラニアを排除すべきでは無かったのだ。
これは、宮田義二・旧鉄鋼労連委員長の言葉、「熱帯魚を運ぶときに熱帯魚が緊張感を持つようにピラニアを入れる。左翼とは我々にとってのピラニアのようなものであり、必要である」に基づく。ソ連・中国というイデオロギー上の対立軸があったからこそ、西側諸国は自由と人権を称揚していたが、それが失われた途端に自由も人権も否定するようになったのである。
posted by ケン at 12:36| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月11日

勝てないケンカを買うバカ

【「1月解散」受けて立つ=中道政治が目標―民進・蓮舫氏】
 民進党の蓮舫代表は3日、国会内でインタビューに応じ、安倍晋三首相が来年1月に衆院解散・総選挙に踏み切るとの見方が与党内で広がっていることに関し、「いつ解散があってもいいように戦う姿勢は整えている」と述べ、受けて立つ覚悟を示した。民進党が目指す方向性については、中道政治を掲げた。
 蓮舫氏は、1月解散を視野に党の態勢を整備する考えを強調。ただ、「1票の格差」是正のための衆院区割りが行われる前の解散が望ましいとの自民党幹部の発言については、「看過できない。最高裁、国会の努力、全てを無に帰す発言だ」と批判した。自身の衆院くら替えについては「覚悟はしている」と重ねて意欲を表明した。
 民進、共産など野党4党の衆院選協力に関しては、「有権者が選びやすい、与党対野党というシンプルな構図ができるのであれば、それは否定するものではない」と述べ、候補の一本化が望ましいとの認識を示した。蓮舫氏は民進党が目指す政治スタンスについて、「右でも左でもない分厚い中道だ。今の政権が相当ライトウイングを広げているので、それに対して幅広くレフトというのを示す許容の広さも持っている」と説明。憲法改正については「最優先事項とは位置付けていない」と述べ、党内論議を慎重に進める考えを示した。
(10月3日、時事通信)

衆議院議員が失職する話を参議にして欲しくは無いな〜〜
ここは提案型政党として、「任期満了までお互いきっちりやりませう」と言うところでは?
勝てもしないケンカを買うなよ〜〜

ゲーマー的に表現するなら、自民党側に戦力比が振り切っているのに「掛かってこい!」とか言うかよ、という話である。任期満了まであと2年あり、2年あれば政府の失政や自民党の失策が露呈してくる可能性もあるだけに、ここはむしろ首相の解散権を封じる方向に動くべきだ。戦闘そのものは避けられないとしても、多少なりとも有利な状態で戦うのが戦略戦術の要諦だが、蓮舫執行部にその考えは無いらしい。
仮に12月の日露会談が成功した場合、1月解散2月選挙は自民党の大勝に終わり、民進党は80〜90議席と現状維持すら難しいと思われる。しかも、蓮舫代表は参議院議員であるため、失職することも無ければ、選挙で有権者の信が問われることも無い。

さて、バカの話はさておき、現行憲法における議会解散権は非常に曖昧な立場にある。過去ログから引用しよう。
日本国憲法における「解散権」は、非常に不明確な位置づけにある。そもそも「解散権」の根拠が曖昧なのだ。一般的には、その根拠は憲法第7条と第69条に求められる。69条には、
「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」
とある。
ここの「衆議院が解散されない限り」を根拠に、内閣不信任案に対する対抗手段として、衆議院解散権を認めたとするのが、「69条説」である。

これに対して、「7条説」は、「天皇の国事行為」の中にある「衆議院を解散すること」を根拠とする。だが、第4条で天皇の国政に関する権能が否定されていることから、7条の「内閣の助言と承認により」を根拠として、解散の実質的権限は、内閣に帰属するというもの。
そもそも、憲法改正や法律の施行、国会の召集、衆議院の解散などの国家主権の中核が、天皇の帰属していること自体、日本が民主国家ではないことの表れである。
かろうじて「内閣の助言と承認により」を付言することで、民主制の体裁を取ってはいるものの、解釈改憲による天皇独裁の土台はすでに存在しているのだ。その意味では、戦争末期の軍部や政治家たちが画策した「国体護持」は成功し、GHQによる日本の「上からの民主化」はハナから骨抜きにされていたと取ることも可能だろう。

上記の2条のみでは、解散権の根拠としては弱いため、それを補強するような意味で、「議院内閣制の国家では、内閣に議会の解散権を認めるのが通例(国際標準)」とする見解がある。

このように、日本の議院内閣制における解散権は、法的根拠が希薄のまま、慣例的に運用されている。このことは、今後、民主主義を脅かす要因にもなりかねず、その意味で、むしろ左派、共和主義者、民主主義者からの改憲動議こそが必要だろう。

日本における解散権は、「法的根拠が無いわけでもない」という理由で、逆に「否定する根拠はない」として、内閣が自由に行使できる状態になっている。
「解散権と民主主義」(2008.1.21)

議会解散権が、慣例的に「総理の任意」で運用されている今、安倍総理はこれを戦略的手段として活用することで、議会と政権党に対する強い統制力を有している。安倍氏が自らを「立法府の長」と言ってしまうのも、強い自負があってのものだと考えられる。

現行の解散権は、GMT社「Twilight Struggle」におけるイベントカード「勝利得点計算」とよく似ている。これは、米ソ冷戦をテーマに、互いにカードを出し合いながら、影響力を配置したり、イベントを起こしたりしながら、全世界各地域の支配を奪い合うゲームである。本ゲームは、勝利得点の計算が特殊で、共通の手札の中に「VP計算カード」があり、これを出すと、当該エリアで勝利得点を計算されるイベントが強制的に発動する。イベントが発動した時点で、当該エリアにおける米ソの支配状態を確認し、優位に立つ方にVPが加えられる。
こうしたカードが何枚かあり、サドンデスにならなかった場合、ゲーム終了時にVPが勝っている方が勝利する。VP計算カードを手にしたプレイヤーは、実質的には一手番ムダになる一方、ターン中の任意のタイミングで出せるため、当該エリアに肩入れした上でカードを出せば、優位に立てる構図だ。強制イベントなので、「出さない」という選択肢は無いのだが、仮に当該エリアで自勢力が負けていても、負け分を少なくすることは可能だ。

日本の首相は、この「VP計算カード」を常備しているようなものなのだ。自民党の麻生氏や民主党の野田氏は、総理に就任した当初は「ご祝儀相場」で一時的に支持率が高まっていただけに、その時に「自分は有権者の信を問わずに総理になったので、改めて国民の信を問う」と言って解散すれば、現実のような大敗を喫することはなかっただろう。だが、実際には解散権を行使せず、失政を重ね、一年後に解散して歴史的大敗北を喫した。これは、ゲーム的に言えば、わざわざ自分が大敗するタイミングでVP計算カードを出したという話になる。
この2人を見ている安倍氏は、カードの切り方を学習し、有利なタイミングで解散権を行使するように心がけているのだろう。ゲームのルール自体が曖昧であることに起因する問題なのだが、プレイヤーとしては「正しい」選択をしているのだ。
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2016年10月10日

将棋連盟がスマホ禁止

【日本将棋連盟が対局中のスマホ持ち込みを禁止 ソフト進化でカンニング防止策】
 日本将棋連盟は5日、東西の将棋会館で行う公式戦で、対局室へのスマートフォンなどの電子機器の持ち込みや対局中の外出を禁止する規定を設け、12月14日から施行すると発表した。女流棋戦にも適用する。対局中に使用が発覚すれば除名を含む処分の対象とする、としている。今回の規定により、棋士は対局開始前にスマホや携帯電話などの電子機器をロッカーに預け、対局中は使用できなくなる。また、将棋会館からの外出もできなくなる(敷地内はOK)。近年のコンピューターソフトの能力向上に伴い、電子機器を利用した不正行為が行われる恐れがあるとして、同連盟に一部棋士から何らかの規制を求める声が寄せられていた。
 連盟は9月26日の東西棋士会で、(1)現状のまま(2)ロッカーに預ける(3)外出禁止とする(4)預けて外出も禁止する(5)金属探知機導入などさらに厳しい措置をとる−の5項目について出席棋士60人にアンケートを実施した。この結果、8割超がロッカーに預ける案を支持し、6割超が外出禁止もやむを得ない、と答えていた。タイトル戦については主催者と日本将棋連盟で決める。今回の決定について羽生善治棋聖は「将棋界は性善説で成り立っているが、そうとばかりは言っていられない時代になったのかなと思う」と話した。
(10月5日、産経新聞)

AIの方が強くなってしまうと人間のプロ棋士は失業か?
今はまだ外部機器を使用せざるを得ないが、電脳化する頃には人の脳と電脳の境界がなくなってしまうので、どこからどこまでが「人間同士の対戦」なのか分からなくなる時代が近づいている。
趣味ならばマナーや信頼関係で済むものも、競技や職業となれば、性善説で済ますのは人が良すぎるだろう。スポーツにおけるドーピング問題と同根なのだから。
また、指導に際しても、20〜30年後には、自宅でVRゴーグル付けてAIに個別指導を受ける形が一般化しそうだ。人間関係が煩わしいと考えられがちな今日にあって、いつまで人が道場に通うのかも興味深い。初老の私ですら、少女に罵倒されながら「指導」されたいなどと、つい妄想してしまうくらいだし。
自分が死ぬ頃までに一体どうなっているのか、全く予断を許さない状況だ。
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2016年10月08日

映画 マイケル・コリンズ

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『マイケル・コリンズ』 ニール・ジョーダン監督 英愛米(1996)

麦の穂をゆらす風を見たときに、いつかこれも見なければと思ったのだが、そのまま忘れ去ってしまっていた。
アイルランド独立から内戦に至る過程を、IRA軍事部門の指導者だったマイケル・コリンズを主役に描く大作。「麦の穂」が若いゲリラの視点から描かれたのに対し、こちらは指導者の視点から描いている。

1916年の失敗に終わるダブリン蜂起から同21年12月の英愛条約とアイルランド自由国の成立を経て、22年8月に暗殺されるまでの6年間を描くが、享年31歳と非常に若かったこともあり、今日に至るまで英雄視されている。日本史で言えば、坂本龍馬に近いのかもしれない。
コリンズの戦略は興味深いものがある。彼は英国の諜報網に注目し、英国側の諜報員や協力者を殺害することで「目」を潰し、英国軍の動きを封じていった。同時に、彼は高い金融技術を持ち、建国前に公債を発行して資金を集め、さらにそれを運用して必要分を調達した。本作でも、「銃を撃つのは良いが、弾は無駄遣いするな」と何度も述べており、面白い。
「パルチザン」と「テロリスト」が、しょせんは「どちら側の視点から見るか」という話でしかないことがよく分かる。

映画としては、大作にふさわしい豪華なセットと派手な演出で当時の街並みを再現している上、役者の演技も申し分なく、ストーリー的にもきちんと歴史が追えるように仕上がっている。
ただ、「麦の穂」と比較すると、やや一本調子で陰影が弱いこと、英国支配の苛烈さの描写が弱いため、なぜ独立を目指すのかという視点が弱いこと、英愛条約をめぐって同志と対立し内戦に突入するわけだが、そこに至る議論や内戦の陰惨さが今ひとつ足りないこと、が感じられた。いや、一本の映画としては「十分」な出来なのだが、「麦の穂」が名作すぎるだけの話なのだろう。恋愛要素を中途半端に入れたことも良くなかった。
また、独自の歴史解釈や演出が多く含まれているため、歴史映画として見るには注意が必要だという。
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2016年10月07日

豊洲問題に見る統治システムの限界

豊洲問題は調査が進んでいるものの、明確な意思決定がなされないまま建設が進んでいたことが明らかにされただけで、「誰がいつ決めたのかよく分からないから責任の所在も分からない」という結論に誘導されつつある。
拙稿「新国立競技場の責任者は誰?」で、新国立競技場とインパール作戦の責任の所在をめぐる問題の共通点について解説したが、今回もまさにこれに相当する。責任の所在を明確にしない日本型システムの弊害がますます表面化している。

今回の問題は単純に「日本型統治システム」だけの話ではなく、より複合的な要因が存在する。まず、現代日本の国や自治体で多用されている「有識者会議」の問題がある。有識者会議は、もともと官僚組織の権威低下と腐敗に対応すべく導入されたわけだが、現在では官僚や政治家が恣意的な人選や議題設定を行うことで、自ら望む結論に誘導し権威付けを図るシステムになってしまっている。「専門家集団の提言(を採用しただけ)」ということで、官僚は責任回避を図り、首長は権威付けを図る構図だ。しかも、有識者会議は、取り扱うテーマが終わると解散する上、会議そのものには決定権が無い(提言するだけ)ので、責任回避のツールとして非常に優れている。

私の母はかつて某自治体の局長級を務めていたが、ある日市長に「有識者会議でこのような決定がなされました」と報告したところ、市長に「その認識は間違っている。決定を下すのはあくまで(市長たる)僕だよ。有識者会議は提言書を出すだけだ」と怒られたという。その市長は総務省キャリア上がりだったが、制度を理解している良識派だったから良かったようなもので、多くの場合はそのような認識が無いため、豊洲のような問題が頻発している。

特に東京の場合、あまりにも巨大すぎるため、有識者会議だけで山のようにあり、毎日のように提言や報告書が上がってくるが、知事はあくまでも1人しかおらず、副知事を含めてもその全てを完全にチェックすることなど人間業ではできない。
東京都は予算13兆円、職員16万人の超巨大官庁だが、行政部において民主的統制を行うのは都知事ただ1人であり、最大4人の副知事を含めても5人でしか無い。副知事は、知事の指名を受けて、都議会の承認を経て就任するが、都議会の承認が必要なため、多くの場合、都官僚や中央官僚となってしまい、民主的統制の点で問題がある。
民主的統制が効かないということは、外部のチェックが効きにくいことを意味し、官僚による組織的隠蔽を始めとする腐敗の温床となりやすい。日本型組織で「身内同士のかばい合い」が横行するのは、外部チェックが弱いためだ。
その象徴的な例が、学校のイジメである。本気で学校からイジメをなくしたいなら、単位制とオープン型教室を導入すれば済む話だが、それをしないのは学校組織や文科省が、閉鎖的空間の利益を手放したくないからだろう。警察の汚職が一向に減らないのも同じ理由から説明される。
日本の統治システムは、「公開原則」が弱すぎる点に、根源的脆弱性が認められる。

もう一つの問題は、東京都議会の機能不全である。築地市場の移転については、都議会の賛成(一票差)を得ているが、果たして十分に審議されたのか、成立後の経過チェックが不十分だったのではないかという疑惑がある。NK党はかねてより問題点を指摘していたが、勢力が弱いことと、ブル新(ブルジョワ新聞)が扱わなかったこともあって、影響力を発揮し得なかった。旧民主党は、基本的に移転反対だったが、内部分裂して賛同者を出し、賛成多数の原因を作り出した。その後、豊洲の建設・移転をチェックしていたかと言えば、疑問だろう。そして、大敗を経ていまや第四党なので、殆ど影響力が無い。
1980年代以降、日本の自治体の多くで「NK党を除くオール与党」化が進んでしまい、もともと立法機能が軽視されていたこともあって、自治体議会の多くが「予算を奪い合う場」となって、本来業務の一つである行政監視が機能しなくなっている。これは国政でもほぼ同じで、特に民主党、民進党の与党指向と機能不全(提案型のような野党性の否定)が、自公と官僚組織の暴走を許してしまっている。

第三の要因としては、有効なマスメディアの不在、あるいは脆弱性が指摘される。日本の大型メディアは、「記者クラブ」「クロスオーナーシップ」「再販制」「電波許可制」などによって権力と一体化しており、実質的には旧ソ連の「イズベスチヤ」や中国の「新華社」に近い宣伝機関の機能しか果たしていない。
リベラリズムにおけるメディアの役割は、政治家が有権者に対して説明責任を果たしているか、官僚が民主的統制に服して腐敗無く公正な行政を担っているか、などについて監視し、虚偽や欺瞞があれば容赦なく暴露して、権力の健全性を保つことにある。
だが、日本のメディアでこの機能を果たしているのは、東京新聞や西日本新聞などごく限られており、この点でも政治家や官僚の腐敗を放置してしまっている。

【追記】
もともと築地移転問題は、東京五輪の開催に際し、銀座や五輪会場に近い築地から市場を移転して、一大整備計画で一儲けしようというゼネコン、政治家、官僚による巨大腐敗に端を発している。その意味でも、東京五輪を返上し、東京都を分割すれば、この手の問題がなくなることはないにしても、腐敗規模ははるかに小さくなると思われる。
posted by ケン at 12:38| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする