2016年10月05日

英語で授業するという愚劣

文科省は将来的に、大学における一般教養授業の3分の1から半数を英語で行う方針を打ち出している。高等教育機関は独立性が保障されているものの、日本の場合は欧米諸国より従属度が高いこともあり、多くの大学で検討が進んでいる。私が大学院で学んだTG大なども率先して検討しているようだ。だが、これほど愚劣な方針は無い。
普通に考えて、日本語を母語とする教員が同学生に授業しても十分には理解されないのに、英語が得意なわけでもない教員が、英語を十分に理解できない学生に、高等教育の教授科目を教えるのだから、ますます理解度が下がるだけの話で、「誰得」な話なのだ。

正確な数字については様々な議論があるようだが、一般的に学校で教員が発信する情報のうち、生徒が受けとめて理解できるのは平均で3〜4割程度らしく、大学以上になると2〜3割程度になってしまうという。
さらに、それを外国語で行う場合、その外国語を理解する者でも2〜3割程度しか入らないと言われる。つまり、大学において英語で授業する場合、学生は教授が発する情報の10%以下しか身につかないことを意味する。
もともと大学の教員は、高校以下の教員と異なり、教授法の訓練を受けておらず、本来的には教育そのものが職務でないこともあって、「学生に理解させる」インセンティブに欠ける。そこに英語で教えろと言うのだから、ますますクオリティを低下させる結果にしかならない。
要は、文科省も大学も、自ら教育の非効率化を進めているのだから、「バカじゃ無いの!」としか言いようが無い。

私もロシアの大学で教えていた経験があるだけに確信を持って言うが、外国語で授業するというのは、準備も含めて母語の何倍もの時間とストレスが掛かる。しかも、それを日本の大学で日本人相手にやれと言うのは、全く意味が分からない。

グローバル化云々という話であれば、英語教育の特化機関やコースをつくって一年間集中してやらせて卒業を一年間遅らせれば良いだけの話で、その方がよほど効率性が高く、教員にとっても学生にとっても大学にとっても良いはずだ。

もっとも、先に述べた通り、この数年で言語工学は驚異的な進化を遂げ、機械翻訳の精度は非常に高くなっている。10年以内にも、大多数の翻訳は機械で足りる時代が実現する勢いであり、それを考えれば、文科省や大学機関の先見性の無さと愚劣ぶりが際立っていると言える。その意味では、日本の大学に通うこと自体、馬鹿げているとも言えなくも無いのだろうが。
同時に、「母語で高等教育が受けられる」という優位性を放棄しようとしている日本政府は、存在自体が売国的であり、Nation states=民族国家の名を冠するに値しない存在と化しているのだ。
posted by ケン at 13:39| Comment(4) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする