2016年10月13日

ボランティアじゃなくて勤労奉仕

【条件厳しいのに…タダ働き? 東京五輪ボランティア像】
2020年東京五輪・パラリンピック大会組織委員会が求めるボランティア像を明らかにしたところ、「タダ働きでは」「ブラック過ぎる」と反発の声が上がった。組織委がタダで人材を集めては虫がよすぎるのだろうか?コミュニケーション能力がある▽日本語に加え、外国語が話せる▽1日8時間、10日間以上できる▽採用面接や3段階の研修を受けられる▽20年4月1日時点で18歳以上▽競技の知識があるか、観戦経験がある▽ボランティア経験がある――。以上の7点を備えた人材が、組織委が素案で大会運営ボランティアに望む要件だ。ユニホームは支給されるが、期間中は無償。交通費も出ない。宿泊や東京までの移動手段も自分で手配しないといけない。
 素案が明らかになると、ネット上では「条件が厳しすぎる」「語学経験込みだと、派遣なら時給1400円はもらえてもおかしくないな」などの意見が相次いだ。ただ、4年後の東京も4年前のロンドン五輪を参考にしていて、過去の大会に比べて特段厳しいわけではない。業務によっては語学力がそんなに必要のない分野もあり、「10日以上」という条件も、「保安上の問題もあるので半日だけの参加と言われても困る」(組織委)という事情もある。組織委は「あくまでも議論のたたき台」としており、18年夏の募集開始までに詳細を決めるという。そもそも、ボランティアとは、社会のために自ら進んで、無償で働くもの。それが「タダ働き」と受け止められる声が出てくるのはなぜなのか。
(7月22日、朝日新聞抜粋)

これは、記者の無知にこそ問題があるが、この誤認は世に流布しており、個々人の責任に帰するべきものでもなかろう。
記事は、ボランティアを「社会のために自ら進んで、無償で働くもの」と定義しているが、これがそもそも原義から大きくかけ離れている。一部過去ログの再掲になるが、許されたい。

ボランティアの語源は、ラテン語の「voluntas」(=自由意志)にあり、意味上の原義は徴集兵に対する志願兵を指す。歴史的には、十字軍に自発的に従軍する人を指し、王家の常備軍や貴族の傭兵、あるいは修道会の騎士団とは一線を画した。つまり、宗教的動機に基づく義勇兵を意味した。
キリスト教の大きな特徴の一つは「善への希求」にある。善行をなすことは、天に徳を積むことになり、それによって最後の審判の時に天国行きか地獄行きかの判定の基準となる。善行を積み重ねることは、絶対神に対する人間の義務とされていた。
つまり、キリスト教徒にとっての善行は、相手のためではなく、第一義的には自分のため神に対する義務を遂行することにある。善行の結果は、あくまで行為の結果であって、それ自体が目的ではない。
十字軍の悲劇は、「キリスト教(会)のために行う聖地奪還」という「聖戦の遂行」が目的であって、結果として略奪や侵略になってしまったことは従軍者(ボランティア参加者)にとっては「どうでもいいこと」だったことに起因する。
従って、「ボランティアは誰かのためにするもの」と一般的には思われがちだが、原義的にはむしろ「自己実現」が基本となる。この原理が分からないと、イスラム国に参加しようとする欧米人らジハーディストの精神を理解することは不可能で、「巧妙な宗教的勧誘に騙された可哀想な人たち」などという解釈になってしまう。こうした基本原理は十字軍に参戦するキリスト教徒も、聖戦に加わるムスリムも同じと考えて良い。

日本史上で言えば、戦国領主に対して立ち上がった一向門徒(浄土真宗徒)や、大坂の陣において大坂城にはせ参じた明石ジョアン・ジョストらキリシタンがこれに当たる。
歴史的に「一向一揆」と呼ばれるそれは、寺社の特権や治外法権に介入しようとした戦国領主に対して、自分たちの宗教コミュニティを守るために門徒が立ち上がったことに起因する。浄土真宗が特に有名になったのは、「講」や「無縁」と呼ばれる自治性の高いコミュニティを有して、それが一種の宗教的ユートピアとして機能していたからだった。
浄土真宗が民衆に圧倒的な浸透力を持ったのは、必ずしも僧侶に依拠しない信者組織「講」(〜講の語源)を創設し、信者が独自に信仰を広めていったところが大きく、この辺も聖職者不在のイスラム教に似ている。

戦場は石山に限られていたわけでは無く、休戦期間もあったこともあり、実際にどれほどの門徒が集まったのかは分からないが、ピーク時には2〜3万人に達したものと思われる。近畿圏だけでなく、九州や北陸・東北からも参集したようで、まさに全国規模だった。基本的には名のある武家では無く、農民や職人層であったが、皆一族で金を集めて自弁で武装と兵糧を用意し、一族を代表する屈強な若者に持たせて参戦させたのだ。当時の火縄銃は現在の自動車並みの値段だった。本願寺は装備、練度、戦術能力の全てにおいて織田軍に劣っていたが、それでも10年にわたって戦い続けたことは、まさに現代のジハーディスト民兵と被る。

大坂の陣や島原の乱には全国からキリシタンが参戦している。特に大坂の陣では、明石全登(ジョアン・ジョスト)が十字架の幟を立ててキリシタン部隊を率いて信教の自由を求めて戦った。明石は大坂に入城する際、その条件として「キリスト信仰の容認」を挙げたと言われる。

この二つの例から分かるのは、本来「ボランティア=義勇兵」というのは、「自らの価値観やコミュニティを守る」ことを本懐とし、それを通して自己実現を図ることを目的としている。
ただ、この原義に基づくと、現代でボランティアを名乗る資格があるのはジハーディストだけ、ということになりかねないので、今少し解釈を広げる必要がある。その場合でも、本来的には「価値観やコミュニティを共有する」ことが重視されるべきで、例えば展覧会や音楽会あるいは学会の手伝い、コミケの売り子や運営員、より原義に近いものではお祭りの運営員や宗教の勧誘員などが、これに相当する。

日本においてボランティアが「ただ働き」との批判が尽きないのは、行政・学校・企業などの巨大な権威と資金を有するものが、価値観を共有しないところで、無償労働を義務的に要求するからだと考えられる。
例えば、自治体が清掃ボランティアを、学校が通訳ボランティアを募集するのは、単に「報酬を払いたくない」だけの話であり、それは企業が社員にサービス残業を要求するのと似たような構図になっている。本来、対価を支払うべき労働を、「ボランティア」の美名で虚飾し、無償の労働力動員を正当化している点が、おぞましいのだ。

五輪組織委がボランティアを募集するのは、五輪の理念を守るためではなく、単に無償労働者が必要なためであり、組織委が何千万円の報酬をもらっていることが、その腐敗臭を強めてしまっている。
個人的にも、ゲームマーケットやコミケのボランティアは引き受けるが、五輪のそれは拒否感しか覚えないのは、そこに「理念の共有」が存在しないためだろう。

まずは、行政、学校、企業やそれに類する組織が「ボランティア」を使用することを止め、「勤労奉仕」に置き換えることから始めるべきだ。

【参考】
・異文化を理解するということ−ボランティア精神 
posted by ケン at 12:47| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする