2016年12月30日

2016年の読書から

今年は若干読書量が少なめだったかもしれないが、自戒を込めて数冊、お勧め本を挙げておきたい。
明日は更新できるか分からないので、読者の皆さんも良い年をお迎えください。
本年はおつきあいいただきまして、ありがとうございました。

『代議制民主主義 - 「民意」と「政治家」を問い直す』 待鳥聡史 中公新書(2015)
デモクラシーに対する不信が高まり、ポピュリズムが蔓延、強権的なリーダーが目立つ中、代議制民主主義とは何か、何を目指す制度なのかを再検証している。直接民主主義が物理的に不可能な中で、有権者は政治家に政策決定や官僚監視を委任し、政治家は官僚に政策実行を委任すると同時に、有権者に対して説明責任を負う。だが、どのようにして政治家を選出し、政治家に何をどこまで委任するかについては、様々な制度が存在している。この委任と責任の関係を、良く整理して明快に説明している。新書としては、非常に濃い内容だが、プロフェショナルとしても考えさせられるところの多い一冊である。

『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』 加藤聖文 中公新書(2009)
日本本土を始め、帝国内の領土・植民地がどのように敗戦を迎え、対応したのかという珍しいテーマを扱う。在外日本人の安全を保障し、引き上げる作業。突然日本国籍を失い、植民地支配から「解放」されるも、全く先の見通しがなくなってしまう在外領土、ソ連に編入される樺太と千島など、通常の歴史研究が見落としがちなケーススタディをまとめた一冊。

『超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条』 フィリップ・E・ テトロック、ダン・ ガードナー 早川書房(2016)
既出。

『黒い巨塔 最高裁判所』 瀬木比呂志 講談社(2016)
小説ではあるが、一般人には全く馴染みの無い司法がどのような仕組みと論理で動いているかが描かれている。小説技法としては説明過剰で微妙な気もするし、人物造形もややステレオタイプ的ではあるが、そんなことはどうでもいい。著者自身が言っているように、新書で司法の組織構造は説明できても、中にいる人間、裁判官や事務官がどのような論理や習慣で動いているかについてまでは説明できない。形式的には憲法で三権分立が保障されているにもかかわらず、なぜ行政と一体化しているような判決ばかりが出るのか、漠然と想像していても、本書を読むと「なるほど、そういうことか」と納得がゆく。多少スターリン研究にも従事した私からすると、日本の司法はソ連のそれと非常によく似ていることが分かる。原発訴訟など、ブハーリン裁判と同じではないかと。国粋主義、権威主義とはまぁそういうものなのだろう。

『灰と幻想のグリムガル』 十文字青 オーバーラップ文庫 既刊9巻
今春放映されたアニメの原作。基本的には最近流行のオンラインRPG世界におけるファンタジーなのだが、戦闘の地味さと登場人物の感情表現の微細さが際立っている。パーティーのメンバーは主人公を含めて、何一つチート的な能力も装備も持っておらず、ゴブリン相手に延々と苦労する始末。最初の方などは、6人パーティーなのに「ゴブリン2体とかちょっと無理じゃね?」くらいのノリで、新選組の「3対1原則」も真っ青なところから始まっている。もともと私は、高い能力を有する主人公がチートな装備を持って、圧倒的な強さを誇る敵をバッタバッタとなぎ倒してゆく式の少年漫画のノリに飽き飽きしていただけに、「超弱い主人公が、仲間と協力して、弱っちい敵を超苦労して倒す(倒せないこともあるし、味方もやられる)」という、本作の「リアリティ」に思わず、「これだよ、これ!」と快哉を上げてしまった。

『りゅうおうのおしごと!』 白鳥士郎 GA文庫 既刊4巻
昨秋始まった「のうりん」の白鳥先生の新作。白鳥先生らしい取材力がよく反映されている。設定や演出にラノベ要素が用いられているものの、骨格部分はなにげに手堅い作品に仕上がっている。多少の将棋知識があればニヤリとさせられる表現、熱い少年漫画展開、白鳥製変態描写など、無数の魅力があり、「名作」レベルの出来になっている。敢えてコテコテの関西(将棋会館)を舞台にしているところも面白い。

『虚構推理』 原作/城平京 漫画/片瀬茶柴 講談社コミック 既刊5巻
『絶園のテンペスト』城平先生の小説を基にした漫画。片眼、片足を失って「智恵の神」となったヒロインと、先祖伝来の秘法をもって「死なない肉体」を持った主人公が、怪異の謎・虚構の原理に挑む。RPG好きとしては、城平先生のプロットの置き方にいつも感動しているが、本作も「絶園」ファンなら必読デス。
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2016年12月29日

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場

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『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』 ギャヴィン・フッド監督 英(2015)



南ア出身のフッド監督が無人兵器・ドローンをテーマにした対テロ戦争の実相に迫った作品。
ドローンを描いた作品はすでに何本かあるようだが、私は本作が初めてなので比較はできないが、非常に考えさせられる一本で、映画館を出て家に帰るまでいろいろと考えてしまった。
設定はいささか戯画的なところがあるものの、似たようなケースは実際にあったことを想像させるに十分で、リアリティが感じられる。
ストーリー的には単純といえば単純で、テロ組織の幹部を発見して無人機からミサイルを撃つか撃たないかで延々と「会議が踊る」だけなのだが、それだけの話を100分の映画にしてずっと緊張感を保っているところが秀逸で、見た後疲労感を覚えるほどなのだ。

【以下ネタバレ注意!】
本作が秀逸なのは、まず設定にある。作戦の指導権は英国にあるが、実施者は米軍で、実施国はケニア、敵はソマリアのジハーディスト組織幹部(ラビリンスのプレイヤーなら組織名は知っている)という複雑な状況にある。ケニアは旧英国植民地で現在も友好国だが、隣国のソマリアは延々と内戦を続けており、テロの温床となっている。敵は友好国のケニアに潜伏中だが、指揮所はロンドンにあり、無人機の操縦者はハワイにいる。この時点でワケ分からない感がハンパないだろうが、これが現代戦なのだ。

作戦の主導者は英軍だが、テロリストの中にはジハーディスト化した自国人がおり、「敵」とはいえ自国民であり、裁判にもかけずに殺害して良いのか。「敵」を攻撃するといっても、ミサイルを撃ち込むのは友好国内であり、政治的、外交的な問題は発生しないのか。無人機を操縦するのは米軍人で、たとえ同盟国とはいえ、他国軍の指揮官からミサイル発射を命ぜられる葛藤。ミサイルの弾着先は、民間人も居住する市内であり、民間人への被害はまず確実に避けられない。
軍事的要請、政治的リスク、外交的リスク、コンプライアンス(交戦規程)、人道問題、国民国家の原理など様々な要素が絡み合い、それを誰がどのように判断し、決断するのか、という課題・ハードルこそが、本作の最大のテーマになっており、見事に描ききっている。

個人的に思ったのは、自由民主主義とテロ戦争の相性は非常に悪く、確かに最新技術で軍事的な勝利は挙げられるかもしれないが、「作戦」を実施すればするほど「敵」も増やしてしまう構図になっているが、指導者は遠い安全な場所にいるので「よっしゃよっしゃ」で終わってしまい、何の疑念も持たないのだから始末に悪い(ゼロではないのだろうが、考え始めたらテロ戦争などできない)。
別の観点では、100馬力超しかなかった「プレデター」が、いきなり10倍近い出力を持つ「リーパー」になり、非常に強力になっていた。「ヘルファイア」が想像以上の威力だったことにも驚かされた。ほかの最新機器も含めて「百聞は一見にしかず」だった。

GMT「ラビリンス」のプレイヤーならば、より多くの「気づき」があるだろうし、そうでない人でもニュースや本で読む知識と、映画とはいえ映像から得られる情報は非常に大きいものがあると考えられるので、テロ戦争や現代戦に関心のある者はぜひ見に行くことをお勧めしたい。特にゲーマーの皆さんには、映画を見て本コメント欄に感想を書いて欲しい。
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2016年12月28日

知的でナチス的な民進党?

ドイツの哲学者カール・ヤスパースの言葉とされるものがある。
「ドイツ人は知的で誠実でナチス的だが、この3つが鼎立することはなく、知的で誠実だとナチス的でなく、知的でナチス的だと誠実でなく、誠実でナチス的だと、知的ではない」

ここに言う「ナチス的」が何を指すのかは議論の余地があるものの、要素としては全体主義的、大衆迎合的といった感じなのだろうと思われる。仮にナチスを共産党に替えても何の違和感も無いし、アベやハシモトに置き換えても同様だからだ。
日本の政治情勢が絶望的なのは、

霞ヶ関:知的でナチス(権威主義)的
自民党:単にナチス(国粋主義)的
民進党:知的でナチス(大衆迎合)的


といった具合にどこにも誠実要素が不在であることに起因すると考えられる。
だが難しいのは、デモクラシーは往々にして誠実を拒む傾向がある点にある。
例えば、本ブログでも度々取り上げているが、

・増税なくして社会保障の水準維持は難しい
・解雇規制を緩和した方が労働生産性が高まる
・領土問題に固執したら日露交渉は成功しない

などのテーマを取り上げた途端に、日本では選挙に勝てなくなり、代議員に選ばれることはないだろう。つまり、現行システムでは、誠実であるものはそもそも(狭義の)政治家になれないのだ。
私が決して議員を目指さず、スタッフに徹しているのは「誠実たり得ない」ことが大きい。
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2016年12月27日

米国の大学の授業で使われる文献

米国の大学の授業でよく使われている文献トップ100」なる面白いサイトを紹介してもらったので、ここでも紹介したい。
「Open Syllabus Explorer から、米国の大学に限って、授業で教科書としてよく使われている文献を1位から100位までリストにしたものである」との説明。ここでは1位から10位まで引用したい。

1. ストランク『英語文章ルールブック』
2. プラトン『国家』
3. キャンベル『生物学』
4. マルクス『共産党宣言』
5. アリストテレスの倫理(学集)
6. マキアヴェリ『君主論』
7. ホッブス『リヴァイアサン』
8. ソポクレス『オイディプス王』
9. シェリー『フランケンシュタイン』
10. トゥラビアン『シカゴ・スタイル 研究論文執筆マニュアル』


英文実践を除けば想像以上に古典、それも古代ギリシア系が多いことに驚かされる。やはり欧米の学生にとっての基礎文献、基礎知識はそこなのだろう。同時に、意外と文学の講読が多いようで、日本の大学とは異なるようだ。全体の印象としては、英米系に偏り過ぎなのが気になるところではあるが、「基礎を徹底的に」というスタンスには非常に好感が持てる。あと、歴史関係が恐ろしく少ない点も、「アメリカだなぁ」と思わせる。
米国の大学で教えたこともある妹にも感想を聞いてみたいところだ。

アジアの某国ではカリキュラムの何分の1かが英語の勉強で、でもシェークスピアなんて無駄だから簿記をやるとかいう大学が一般的らしいから、えらい違いである。
だが、いま学校で学ばれている実学など20年以内に相当数がAI化されると思われるだけに、AIでは代用できない基礎体力、即ち思考回路の深層性や重層性を強化してこそ高等教育の存在価値も残るはずだが、日本の文部官僚や大学人にその認識は無さそうだ。そもそも文科省が高等教育に介入している時点で「終わっている」のだが。
つまり、日本の教育にはいかなる未来も無いと予測される。

ちなみにケン先生の場合、上記10点のうち『共産党宣言』と『君主論』は高校時代に読んでいる。プラトンは岩波文庫を手に取ってみたが、読みづらくて諦めた。
さらに高校のフランス語では、バルザック、プルースト、カミュ、サルトルなどを原語で読まされたが(もちろん一部抜粋)、プルーストは「死ねばいいのに!」というくらい最悪に退屈だったし、サルトルの仏語は訳が分からなかった記憶がある。読みやすかったのはカミュで、そのおかげで大学に入った後も(日本語で)評論集を読みあさった。どうせならデュラスとかアルトーを原語で読みたかったが、「読みたきゃ自分で読め」と言われるのがオチだろう(笑)
高校の外国語で原書講読は相当にハードルが高く、しかもいかなる実用性も無いのだが、実は「基礎体力・知力を身につける」点では意外とバカにできないのではないか、と最近は感じている。

自分は大学(学部)では、言語や必修の授業以外は超適当にやっていた、(当時としては)ごく一般的な学生だったが、周囲のものよりは本を読んでいたと思う。大学というのは、読書を習慣化する最後の機会であり、これを逃すと殆どの場合、読書するのが苦痛になってゆくようだ。私の母などは70を過ぎても凄まじい読書量だが、そこまで行かなくとも初老を過ぎた私が仕事を抱えながらも最低限の読書を続けていられるのは、高校と大学で読書を習慣化できたことが大きい。

末尾に学部時代に自分が読んだ本の一端を紹介しておきたい。今から思えば、異端過ぎて恥ずかしい独自路線ではあるが、しかもロシア語科だったのにフランス文学ばかり、何と言うか「中二病」ならぬ「大三病」って感じ(爆)

ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』『眼球譚』『無神学大全』
アルベール・カミュ『反抗的人間』『異邦人』
マルキ・ド・サド『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』
アルトナン・アルトー『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』
マルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』『モデラート・カンタービレ』
カール・シュミット『政治的ロマン主義』『パルチザンの理論』
ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』『反文明的考察』
レフ・トロツキー『永続革命論』『ロシア革命史』『わが生涯』
コリン・ウィルソン『現代殺人百科』『右脳の冒険―内宇宙への道』『宗教とアウトサイダー』
澁澤龍彦『神聖受胎』『人形愛序説』『異端の肖像』
posted by ケン at 12:24| Comment(3) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月26日

超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条

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『超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条』 フィリップ・E・ テトロック、ダン・ ガードナー 早川書房(2016)

今回の米大統領選の予測は、米国政治の専門家がこぞって外して、的中させたのは専門外の人ばかりだった。同じようなことは30年前にもあった。1984年夏にワシントンの要請で米国学術会議にソ連研究の専門家が集められ、「チェルネンコ後」の予測が行われた。その結果、「頑迷な保守派が登場して対米強硬路線を進めるだろう」というのが専門家内で一致した予測となった。ただ、同会議内のリベラル派は「レーガンの強硬路線を受けてソ連側も強硬路線を採る」と分析したのに対し、保守派は「完成された全体主義国家は全体主義者を選ぶ(路線転換する理由がない)」という理由を挙げた。その半年後に書記長に選ばれたのは、専門家も名前を知る程度のゴルバチョフだった。

この話がさらに面白いのは(本に記載があるわけではない)、スターリンですら1934年2月の党大会で行われた中央委員選挙において、投票総数1059のうち反対票が123から292票も投ぜられたのに対し、ゴルバチョフは党中央委員会の満場一致で書記長に選出されたことにある。
このことは、1934年のソ連におけるスターリンよりも、1985年におけるゴルバチョフの方がより多くの共産党員から必要とされたことを意味する。少なくとも1985年のソ連共産党では、「いかなる形かは別にしても、何らかの改革をしなければ体制を保てない」という認識が(自覚的では無いかもしれないが)共有されていた。同年3月に開かれた政治局会議までに、保守派は自前の書記長候補を出そうと模索はしたものの、適任者を見出せなかった。これは、「頑迷な保守派」ですら改革が不可避であることを否定できなかったことを示している。

にもかかわらず、冷戦の対手であるアメリカにあって、ソ連研究の大家たちは誰一人としてゴルバチョフはおろか改革路線を予見できなかった。要は専門家ほど「リベラルな米国人がトランプを選ぶワケが無い」とか「共産党員がリベラルな指導者を選ぶわけが無い」といった固定観念に囚われやすいということなのだ。日本で言う「木を見て森を見ず」に相当する話だが、普遍的原理のようだ。
逆に、ソ連崩壊を早期から予見していた一人にE・トッド先生がいるが、彼は人口学の大家である上、ソ連の衰退を予見した『最後の転落』を記したのは1976年で25歳のことだった。なお、ハンチントン『文明の衝突』を「妄想」とぶった切る先生も、アメリカの没落については「2050年以降」と慎重な姿勢を見せている。また、先生は2000年の来日時に「長期的なタームで見たとき、ドイツや日本のような社会において個人の安全を脅かすリベラリズム的な状況が続いたならば、極めて右傾化した不愉快な反応が生み出されてもおかしくないのです」と述べられており、凄まじい預言者ぶりを発揮している。もっとも、この点については、私も1999年に発行されたある自費出版本に「日本の自由民主主義は、ここ10〜15年程度で終焉を迎えるだろう」旨の投稿をしており、ソ連崩壊ほどの難易度ではなかったかもしれない(これはただの直観だが)。

すっかり前置きが長くなったが、本書は「専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ」という調査結果をウリにして全米を風靡した一冊で、題名的にもキワモノ感があるものの、内容的には非常に充実したビジネス書、実践書である。予測スキルや未来予測力という、一見非科学的な能力を行動経済学や統計学を駆使して解析してゆく。
状況予測は、日頃私が本ブログで試みていることで強い関心があるだけに手にとってみた。私的に特別真新しいことが書いてあったわけではないのだが、漠然と使っていた思考法を論理立てて説明しており、改めて目を見開かされた思いだった。その主な要素は、

・直感に頼らない(直観は意味あるが検証が不可欠)
・問題を分解して複数の要素に分けて考える
・他者の視点と論理で考える(自身のスタンスに拘泥しない)
・確率論を忘れない、数字を重視する
・過去の判断や分析に拘泥しない
・予測の更新や判断の変更は当たり前


などにある。これらは私も心がけていることではあるが、本書を読んで知識・スキルとして「定着」した感じがする。私の世代になると、会社や社会で様々な判断や決断を下す地位に就く人が増えるだけに、一度本書を読んで「予測するというのはどういうことか」を再認識して欲しい。
本ブログの「米軍駐留費の妥当性について」は身内から最も好評価いただいた一本だが、具体的な数字を挙げて検証しているが故のものだろう。これに対し、親米派の外務官僚や政治家、学者は数字を否定し、「アメリカが没落するわけが無い」「日本を見捨てるわけが無い」などという観念論から入るため、専門家ほど失敗する構図になっている。
逆に1980年のポーランド危機を扱った「ポーランド危機をめぐる経済情勢」は、歴史検証ではあるものの、「後付けの智恵」ではなく、殆どを同時代のマルクス経済学者の論文に依拠しており、社会主義国といえども公開情報で同水準の検証を行うことが可能だったことを証明している。ところが、私が基にした論文群は、同時代人に完全に無視された。

この点、シミュレーション・ゲーマーは鍛えられていると言える。確率を無視して直感に頼って勝てるゲーマーはいないし、普通はドイツ軍を担当することもあれば、ソ連軍を担当することもある(武田しかやらないという先輩もいるが)。状況は刻々と変化するので、従前の判断や認識に拘泥していたら、新たな状況に対応できないだろう。これらは全て「予測力」に繋がる要素であり、それを論理立てて解説してくれる本書は、情報分析者は当然のこと、ゲーマーにとっても政治家にとっても必読と言える。
われわれは自らの予測力を高めると同時に、政治家、評論家、学者など権威とされる人々の予測を無批判に受け入れる前に、「この人物の過去の予測は正確だったのか」と問いかける必要がある。それが空疎な議論を防ぎ、予測と検証のプロセスを通じて社会が賢くなることにつながる。

【参考】 シミュレーションゲームの効用‐リスクテイクと全体最適

【追記】
わが一族は「超」かどうかは別にして凄まじい予測力の持ち主ばかりだった。その筆頭は海軍にいた大伯父で、例えば日米開戦前の1941年初めに上層部に提出された「新軍備計画論」では、来たるべき日米戦を以下のように想定している。
米国は多数の潜水艦を日本近海と日本の生命交通線に活動させ、航空機と協力し、根強く日本の海上交通破壊戦を行い、日本の物資封鎖の挙に出るに違いない。日本は国家生存と作戦遂行上の必要から、米の潜水艦と航空機の攻撃に対抗し、海上交通線の確保を必要とするだろう。この意味で、海軍の海上交通確保戦は、日米作戦中重要な一作戦だ。
(中略)
日本は、日本の生存上必要な、又戦争遂行上必要な、国としての海上補給線の確保に必要な兵力を整備することが必要である。日本が、その国家生存上と戦争遂行上、国家として日満支連絡線、それと蘭印を含む西大西洋海面の交通線の保持を必要にするので、戦時この交通線の対米軍保護を絶対必要とする。この場合、会敵を予期する米軍兵力は、航空機、潜水艦と機動水上部隊になるに違いなく、日本はこれらに対応する兵力を保持・運用することが必要である。

同年7月に開かれた局部長会議では、航空本部長として大臣に向かって「大臣あなた、こんな航空戦備で本当にアメリカと戦争できると思ってるんですか!」と怒鳴りつけたというから、75年を経た今でも子孫としては色々な意味で背筋が冷たくなる話である。

また、陸軍中野学校を出て関東軍の情報将校となった大伯父は、ソ連の参戦が近いことをずっと進言し続け、参戦後は関東軍主力が通化を目指して退却した後も新京に残って、機密文書廃棄や残務処理をした後、朝鮮商人に身をやつしながら、ソ連軍の戦線をすり抜けて後方に出た後、ひたすら東に向かって歩き、ウスリー川を渡ってウラジオストクに出て、どんな手段を使ってか日本行きの船に乗り込んで、そのまま帰ってきている。戦後は国会図書館の職員として対ソ諜報に従事した。(忠義とロイヤリティ2補
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2016年12月25日

反骨の血

1941年(昭和16年)7月3日の臨時局部長会議で、次官から「南部仏印進駐を閣議決定した」旨の報告を受けた伯父は航空本部長として、「大臣あなた、こんな航空戦備で本当に対米戦などできると思っているんですか!」と詰め寄り、まともに答えようとしない大臣に対し、「そんなことで大臣が務まりますか!」と怒鳴りつけたという。75年経たいま記録を読んでも、「伯父上、お止め下さい」と背中にすがりつきたくなってしまう(秘書的に)。

母も某市の子ども児童福祉本部長として、局部長会議では激しく議論に参加、疑問や提案・要望があるとすぐに市長に直言、直談判に行くことで知られたそうだから、一族の「血」としか言いようが無い。

そんな伯父でもさらに出世を続け次官に至るのだから、戦前の組織は単純には語れそうに無い。
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2016年12月24日

己を律する権力者

T先生は自治官僚出身の大ベテランで、後輩である総務大臣の携帯に電話して「ちょっと来てくれないか」と言ってしまう方だったが、副大臣時代は省庁に行くときは公用車を使い、議員会館に戻る時は歩きだった。「省庁に行くのは公務だが、自分の事務所に戻るのは私事だから」という理由からだ。さすがに大臣になると警視庁から懇願されて常に公用車で移動するようになったが、それくらい公私の別に厳しかった。「(国会議員なんだから)これくらいは許されるだろうという甘えが、モラルハザードを引き起こす」というのは正にその通りだ。

伯父は戦時中、自分が校長を務める学校に、高松宮を迎えることになったが、教頭が張り切って全校生徒を動員して出迎えようと企画するのを耳にし、これを止めた。「宮様は皇族として視察に来るのでは無く、一軍人として折衝に来るのだろう。馬鹿なことをするな、(日本は立憲君主制なのだから)教育に悪い」ということだった。伯父は、宮殿下が応接室に入ったのを見計らって自ら挨拶に赴き、相応の礼儀を尽くしたとされる。

前ボスも己を厳しく律する人だったが、こういう政治家は100人のうち10人もいるかいないか、というのが永田町に身を置く私の実感である。
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする