2017年02月13日

修士号は論文不要だった件

【大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査】
 文部科学省は26日、大学院で修士論文を作成しなくても修士号を取得できるよう省令を改正する方針を決めた。博士号取得を目指す大学院生が主な対象で、論文の代わりに専攻だけでなく関連分野も含めた幅広い知識を問う筆記試験などを課す。大学院の早い段階から専門分野に閉じこもるのを防ぎ、広い視野を持つ人材を育てる狙い。来年度から適用する。
 現在の大学院教育は、2年間の修士課程と3年間の博士課程に分かれるのが一般的。省令の大学院設置基準では修士論文を提出して審査に合格することが事実上、修士課程を修了する条件になっている。
 文科省は同基準を改正。「博士論文研究基礎力審査」と呼ぶ試験に合格すれば修士号を得られるようにする。審査は筆記と面接で、博士課程で学ぶのに必要な専門分野と関連分野の知識、研究を自力で進める力などを判定する。
 修士課程2年の春から夏に筆記、冬に面接を行うことを想定。博士課程は別の大学院に進みたい場合、入試も受ける必要がある。博士課程に進まず就職する大学院生も多いことなどから、修士論文の提出を条件とする従来方式も認める。
 修士論文を実質的に不要にするのは広い視野と能力を持った人材を育てるのが狙い。従来の修士課程は論文作成のため早い段階から特定の研究室に所属して研究テーマを絞ることが多く、博士課程を終えても産業界から「専門分野には詳しいが応用が利かず、使いにくい」と評価されてきた。
 同省は審査の導入に合わせ、修士課程の教育内容の見直しを各大学に促す。院生が分野を超えて複数の研究室で学べるようにし、専門だけでなく関連する分野の知識も身に付けさせる。将来的には5年一貫教育で博士号の取得を目指すコースを普及させたい考えだ。
 大学院設置基準の改正案については年明けにも国民から意見を募集。その結果を踏まえて来年3月までに改正したい考えだ。
(2011/10/26、日本経済新聞)

「水は低きに流れる」の典型。
5年以上前の記事になるが、自分もすっかりアカデミズムから遠ざかっていたせいか、チラとは耳にした様な気もするのだが、十分認識していなかったので掲載しておく。
現実に基準を合わせると、理想が瓦解する。考えてみれば、自分などが修士課程を修了できた時点で、いずれこうなることは避けられなかったのかもしれないが。
自分が入院した際に、最初に教わったのは、「修士課程で学術論文の読み方と書き方を覚え、博士課程で論文作成を実践する」だったが、あれは一体なんだったのか・・・・・・

確かに現実には、修士学生を水増しした結果、特に留学生の論文など「日本語として読めればまだマシ」というレベルで、そもそも学術論文の形式すら成立していない、学部の卒論レベルにすら達していない感想文水準のものが横行していた。
私が在籍したのは、一応国立の一流大学と言われるところだったので、まだマシな状況にあったが、同時期あるいは後日相談された私立大学の場合、「六大学」級ですら、日本人学生の「論文」が学術論文の形式を満たしておらず、先行研究すら十分に把握されておらず、とても読めたものでないことに驚かされた。しかも、それが平均、一般的と言われ、「終わっているな、どうしてこんな事態になったのか」と思ったものだった。
修士レベルの論文など、「先行研究が適切に追えていれば7、8割完成」と言われるくらいで、形式と手順さえ教えてやれば、「(大学院に入る頭脳があれば)誰にでもできる」と思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。

とはいえ、考えてみれば、私の時代でも院生と留学生が水増しされたせいで、「教授1人に院生と留学生10人」などという状態が当然のように存在していた。かつては「教授1人に博士課程1人、修正課程1〜2人」程度が普通であったのだから、単純に考えて、3分の1以下に水で薄められていると見るべきなのだろう。そうなると、教授が指導できる部分などごくわずかとなり、文字通り形式と手順だけ示して、「あとは自分でやってくれ」と言うしかなくなる。私などは、他の同期や後輩の院生の指導までさせられていたが、殆ど「新兵が新兵の教導を行う」ような話だった。
国立の一流大であれだったのだから、「他は推して知るべし」だったのだろう。

そう考えれば、「基準を現実に合わせる」として、論文審査を廃止するのは現実的な対応なのかもしれない。だが、これは「受験科目に英語があるため、志願者が陸士に流れてしまう」として「英語廃止」を主張した海軍軍人と同じ過ちを犯している。司法試験を緩和して弁護士を増やした結果がどうなったかを想像しても良い。
だが、院生と留学生の水増しは、そもそも大学側の財政事情と、文科官僚の「関東軍的発想」に起因する合成の誤謬であり、高等教育行政のパラダイムシフト(中央統制の廃止)なくしては改善不可能だろう。
色々な意味で「終わっている」のかもしれない。
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2017年02月11日

1、2月の読書(2017)

ロシア革命100周年ということで、色々な本が出ているみたいだけど、まずは様子見。

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『超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条』 フィリップ・E・ テトロック、ダン・ ガードナー 早川書房(2016)

既出

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『人質の経済学』 ロレッタ ナポリオーニ 文藝春秋社(2016)
「欧州難民問題の構図」の元ネタ。犯罪、テロと見られがちな人質誘拐を「ビジネス」「経済」の視点から解析する意欲的な一冊。少なくとも「経済学」ではないのだが、ジャーナリズムを重視しつつもセンセーショナルに傾斜することなく、中東・アフリカの貧困が誘拐や海賊をビジネスとして成立させ、欧米の対応がそれを加速させている事実を淡々と指摘してゆく。ジハーディストの資金源がどのように形成されているか、実は米欧も「一蓮托生」であることなど、非常に納得度の高い一冊に仕上がっている。特にGMT「ラビリンス−テロ戦争」のプレイヤーは必読。

『データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』 矢野和男 草思社(2014)
身体に装着して人の行動の様々なデータを恒常的に計測する「ウエアラブルセンサ」を用いて収集したビッグデータを解析することで、行動経済学や心理学などで仮説とされたものを立証してゆく。「人は効率的に時間を使えるのか」「職場の生産性を高める要素は何か」「従業員は何によって幸福を担保されるのか」など、それぞれ回答は意外であったり、陳腐だったりするわけだが、科学的データを用いて説明しているので、一定の説得力がある。だが、「科学、科学」と言われると、逆に胡散臭く聞こえてしまうところがあり、ナゾである。

『ベトナム戦争―誤算と誤解の戦場』 松岡完 中公新書(2001)
ベトナム戦争を最新の視点からシミュレートしたGMT「Fire in the Lake」を購入しようとしたところ品切れだったので、できるだけ新しい解説書を読んでおこうと思った次第。ベトナム戦争終結から40年以上経ち、日本では完全に風化が進み、特に冷戦後などに公開された新資料が膨大にあるにもかかわらず、それを用いた研究は多くない。本書はその貴重な一冊で、良いバランスでまとめられており、「おさらい」を兼ねて最良の選択と言えそう。ただ、著者は冷戦研究者のようなのだが、かなり米国寄りの視点になってしまっており、今どきスターリンを「独裁者」などと書いてしまっているのは、ソ連学徒として噴飯ものだ。

『考証 日ソ中立条約』 ボリス・スラヴィンスキー 岩波書店(1996)
グラスノスチとソ連崩壊を経て(一時的に)公開されたソ連の外交文書を駆使して書かれた、主にソ連側から見た日ソ中立条約の研究。格別な新事実や驚きがあるわけではないが、ソ連側当時者たちの生々しい発言や思考が確認できると同時に、日本側の外交担当者がいかに(バレバレの)二枚舌を駆使して条約締結と維持に努めたかが良く分かる。日ソともに1941年春期の国益を追求した結果、条約締結に至っただけの話で、ソ連側としては日米が開戦して日本が敗勢に至るまで、日本による条約破棄、極東侵攻をずっと警戒し続けていたことが実感できて興味深かった。
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2017年02月10日

増える難民申請

【難民申請1万人超…就労目的の「偽装」が大半か】
 昨年1年間の難民認定申請数が、1982年に統計を取り始めて以降、初めて1万人を超えるのが確実となったことが、関係者の話でわかった。大半は就労目的の「偽装申請」とみられ、法務省が2015年9月に始めた偽装申請対策の効果が十分でない実態が、改めて浮き彫りになった。日本の難民認定制度は10年3月の運用改正で、申請6か月後から一律に就労できるようになった。このため、就労目的の偽装申請が急増。10年に1202人だった申請数は11年以降、過去最多を更新し続け、15年は7586人に上った。昨年は9月末時点で既に7926人。関係者によると、申請はその後も増え続け、年間で1万人を突破するのは確実だという。一方、昨年9月末時点で6人(15年は27人)だった認定数は大幅には増えない見通しで、申請数の増加が真の難民の審査に遅れを生じさせている可能性がある。
(1月26日、読売新聞)

申請者の就労が許されたのは、申請者に対する生活支援に限界があり、長期間に及ぶ審査の間は「自分で稼いでください」という目的だったが、これが悪用される形になっている。

この傾向は欧州でも同じで、欧州の場合は「シェンゲン」も相まってシェンゲン圏内で難民申請してしまえば、圏内のどこにでも行けて一定の就労も可能になるため、難民希望者は圏外での難民申請を拒み、「いかに圏内に入るか」ばかり考える。結果、ハンガリーのように「難民防止フェンス」を設置するという話になっている。現実には、「圧倒的多数の経済難民の中に少数の政治難民がいる」状況なのだが、欧州はリベラリズムの建前上、これを否定できない。だが、東欧諸国からは「リベラリズムなんぞクソ食らえだ!」と言われている。

日本の場合、欧州とは事情が異なるが、就労目的者が増えているという点は変わらない。大きく異なるのは、難民として入国するのではなく、一般的なビザで入国して難民申請する点にある。
難民申請が急増したのは、就労に関する運用変更が直接の原因ではあるものの、急増した申請者の大半は留学生と外国人技能実習生と見られており、もともと就労目的で入国したものの、待遇や労働条件が劣悪であるため、「難民就労」に切り替えているものと推察される。例えば、留学生の実態を無視して「30万人計画」を強行した結果、就学目的外の者が流入している。技能実習生の場合、劣悪な実習環境から5年間で1万人以上が失踪しているにもかかわらず、実習対象を増やし制度拡大が図られている。

要は、留学生の数を絞って、技能実習制度を廃止すれば、少なくとも急増した分の偽装申請は抑止できるはずだ。何のことは無い、自業自得の話なのだが、究極的には「移民を認めるのか、認めないのか」というところに繋がってゆくだろう。

【参考】
問題は奴隷制度そのものに 
無理目の外国人看護師・介護士 
posted by ケン at 12:13| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月09日

西南戦争の原因を考える・下

前回の続き)
そこで、薩摩に視点を転じたい。同じ幕藩体制下の大藩ながら、薩摩は他藩と大きく事情が異なる。その最たるものは、武士階級の人口であり、それに伴う動員力だった。明治初年における鹿児島藩の人口は72万人で、長州と同水準にあった。ところが、動員可能な人数は、嘉永5年(1852年)で、城下士4500人、郷士2万3千人、陪臣1万人、計3万7500人と、長州藩の何と5倍もの動員力を誇っていた。しかも、この数字は「当主」の数に過ぎず、兄弟や子を戦時動員するなら5万人を超えるまで可能だった。当時も「薩摩の実兵力は5万とも10万とも言う」と話されたそうだが、あながち誇張ではなかった。
鳥羽伏見戦における幕府軍の兵力が1万人強、後詰めで大坂城に駐留していたのが2万人超であったことを考えても、薩摩の「戦争マシーン」ぶりがよく分かるだろう。九州南部に引き込んで戦うなら、島津は徳川に負けないだけの兵力を、江戸期を通じて保有していたのである。ちなみに会津戦争において、会津藩は白虎隊に象徴される総動員を行ったが、それでも4千人に満たなかった。

維新後、鹿児島で申請された士卒の数は34万人に及び、総人口に対する割合は45%にも及んだ。全国平均が6%前後であったことを考えれば、壮絶な数であり、この数の士卒を維持するため、薩摩・大隅はもちろんのこと奄美などの植民地では言語を絶する収奪が行われた。西南戦争に際し、農民層がこぞって新政府軍に協力したのは、このためだった。

ところが、戊辰戦争に際し、鹿児島藩が動員して出征させたのはわずか8千人で、多く見積もっても1万人に過ぎなかった。持てる兵力の殆ど全てを倒幕戦(革命戦)に投入した長州に対し、薩摩は先鋒程度の兵力を投入したに過ぎず、兵力の過半を後方で温存させていた。これは、西郷・大久保らが、「幕府が全面戦争を決断した場合」を想定して兵力を温存していた可能性もあるが、基本的には「革命の推進者」として長州、土佐とのバランスを考慮して、自藩が突出して悪目立ちしないよう配慮した上での戦力供出だった。例えば、薩摩が2万人も出してしまうと、長州5千、土佐3千と比べて突出してしまい、「幕府が倒れた後、薩摩が権力を独り占めするのではないか」とあらぬ疑いが掛けられてしまう恐れが強かった。この感覚は、マルチプレイ・ゲームのプレイヤーなら想像に難くないだろう。
さらに、戊辰戦争における薩摩の戦死者は500人超に満たず、禁門の変や薩英戦争の死者を足しても600人に遠く届かなかった。つまり、長州が全身をボロボロにして御一新を迎えたのに対し、薩摩は「もう一戦でも二戦でもできるぜ!」くらいの余力を残していた。

そこで当然ながら、長州の脱隊騒動と同じ状態が生起する。戊辰戦役に出征したか否かにかかわらず、御一新で武士が失職するのは変わらない。薩摩の場合、約3千人が御親兵として維新政府に供出され雇用が守られた。ところが、これはほぼほぼ城下士に限られており、郷士や陪臣は置き去りにされた。そのため、治安維持の必要もあって、大久保・川路が主導して東京警視庁を発足させ、郷士階級を中心に警察官への採用が進められた。とはいえ、警察官を鹿児島県人に限定させるわけにもいかず、正確な数字は分からないが、薩摩からの採用は当初2千人、その後さらに1千人ほど増員されたものの、3千人程度だった。結果、雇用された警察官の半分以上が薩摩の士卒出身者となり、他藩出身者からは強い不満が上がった。また、明治初頭の「東京」では、意思疎通のできない警察官が多すぎて「通訳」が不可欠だったと伝えられている。「おい、こら!」はその名残である。だが、それでも3万人以上の郷士や陪臣は、御一新の恩恵を何ら賜ることなく、「秩禄処分」「徴兵令」を迎えることになる。

付言すると、明治期は「藩閥政治」と批判されることが多いが、地方行政官は意外と能力主義に基づいて公正に採用、配置されていたところがあった。例えば山口県令、県知事は戦前期に1人も長州出身者がいなかった。これに対して、明治初頭の薩摩の場合、県知事も県庁役人も殆どが鹿児島県人で占められ、「独立王国」と陰口を叩かれると同時に、長州人は「薩摩の連中は御一新の意味を全く理解していない」と批判した。長州人は腐敗した側面もあるが、意外と「革命」に忠実だったのである。

まず「秩禄処分」は、明治6年末(1873年)、廃藩置県に伴い家禄を返上した士族に対し、数年分の禄高を半分は現金、もう半分は「秩禄公債」で支給することになった。言うなれば、武士の退職金、失業手当である。ところが、明治初頭は不換紙幣である太政官札を始めとする政府紙幣と国立銀行券が併存して大量発行されていたことや、秩禄処分、殖産産業などのために大量に公債が発行されたことが相まって、高インフレ状態にあった。そのため、現金は間もなく価値を失い、公債の利息もすぐに微々たるものになってしまった。そもそも郷士や足軽は家禄が低いため、禄高に基づく査定はごく低いものでしかなく、「単に武士でなくなった(=定収入を失った)だけ」になってしまった。最多層の下級武士が拝受した公債の金利は、日割りにすると当時の最底辺労働者の賃金の半分以下だった言われる。
歴史学で言うところの「封建的特権の有償廃止」であるが、明治政府の財政事情は十分な補償を許さなかった。明治初年における政府歳出に占める家禄支給額の割合は30%を超えており、封建特権を放置したまま近代化などできるワケもなかったのだ。

話はやや前後するが、徴兵令は明治6年始めに施行される。これは士族特権だった武力行使権を廃止して中央政府に一括集中することを意味したが、士卒階級からすれば「町人に権限を奪われた」形となった。同時に、士族に家禄を支給する根拠が失われた。
徴兵制の導入については、西郷隆盛を筆頭に主に薩摩閥から強い反対意見が出され、彼らは自然と士族が中心となる志願兵制を主張した。だが、最終的には「武士の軍隊では近代戦は戦えず、国民軍が不可欠」という長州閥の意見が大勢を占め、徴兵制の導入が決められた。最終的には「皇軍」なる怪しげなもの(天皇の私軍)になってしまうものの、明治初頭のこの段階では「四民平等の国民軍」が志向され、そのため武士は武権を失い、武権に伴って設定された家禄を失うことになった。
明治9年の廃刀令は、士族に唯一残された個人武装権をも剥奪されるというもので、現実には象徴的なものであったが、精神的打撃は大きかった。

「征韓論」に象徴される「明治六年政変」は、まさにこの時期に起きた。征韓論の説明は省略するが、長州閥と薩摩・大久保派を除く薩摩、土佐、肥前閥がこぞってこの時期に外征を主張した背景には、どの藩でも抱えていた士族の失業問題を解消、抑制するために、徴兵制が軌道に乗る前に大規模な外征を行って大動員を果たしたい、という狙いがあった(どこまで自覚的だったかは不明だが)。この辺の背景は、根源的には豊臣秀吉の朝鮮出兵とよく似ている。
ところが、紆余曲折があり、多数派だった征韓派は敗れ、西郷(薩摩)、板垣、後藤(土佐)、江藤、副島(肥前)の5人の参議が辞職した。これに伴い、薩土を主とする官吏、軍人600人ほどが同調、下野するが、うち軍人は400人超と見られる。
同時代を扱った小説では、「征韓派が一斉に下野して大混乱に陥った」などと書かれているが、当時の近衛兵(御親兵)1万人のうち、薩摩兵が4千、土佐兵が2千程度だったことを考えると、薩摩・土佐兵のうち征韓派に同調したのは10分の1にも満たなかったことが分かる。やはり、小説は小説であり、注意して読む必要がある。
この明治六年政変で征韓派が下野したのは、明治6年10月のことであり、その12月に上記の「秩禄処分」が開始されたのだから、士族からすれば「どこまでも救いが無い」と考えてもおかしくなかった。

秩禄処分は、激変緩和措置として当初は「家禄の自主返上者」のみを対象にしていたが、上記の通り補償が不十分だったため、一向に返上は進まず、業を煮やした明治政府は、明治9年(1876年)、秩禄処分を全士族への強制適用を決定した。
熊本・神風連の乱が同年10月、西南戦争が翌明治10年1〜2月に始まったことを考えれば、「封建的特権の廃止」こそが、士族反乱の最大の原因だったと考えるのが合理的だろう。
下野した西郷らは、鹿児島で「私学校」をつくり、士族子弟の教育を担うことで暴発を止めようとした、と今日では美談のように語られるが、その生徒数は700人程度で、原則的には城下士に限定されていた。つまり、「上京できず就職できなかった城下士」のみを対象にしていたのであり、郷士や陪臣などはここでも放置されていた。もっとも私学校は、鹿児島県下に支部をつくって郷士の組織化に努めていたようだが、実態はよく分からない。全体で見ると異なる風景も見えるかもしれない。

西南戦争で西郷軍が動員したのは鹿児島県人2万3千人だった(日向を含めると2.6万人)。鹿児島の武家当主3万7千人に対し、上京・就職できたのは7、8千人程度に過ぎず、鹿児島県庁に就職できた士族層を考慮しても、御一新で家禄を失い、失業した士族層が、倒幕戦のために準備された武器を持って反乱に立ち上がったと見るのが最も自然なのではなかろうか。仔細に見ると、私学校党が1万3千人、徴募兵が1万人となっている。つまり、「上京就職できなかった城下士とその子弟」が中核を担い、鹿児島近郊の郷士(麓郷士)を動員して初期兵力の1万3千人をなしたと見て良い。意外と外城郷士や陪臣層には不参加だったものが多く、それらは徴募という形で強制徴召集せざるを得なかったのだろう(初期動員時にも志願強要があった模様)。戦後の口述書や上申書の類いを見ると、意外と「場の空気で志願せざるを得なかった」とか「私学校党の区長に強要されて」などの供述が多いことが分かる。
鹿児島は単に武士が多すぎたのである。

【追記】
西南戦争における薩軍の戦死者は、薩摩大隅で3,263人、日向で650人だった。戊辰戦争の500人に比して、あまりにも大きいツケを支払わされたと言えよう。

【追記2】
最終的な薩摩武士の動向を大ざっぱに推計すると、西郷軍参加者が3万人(後方配置含む)、政府側についたものが1万人強、逃亡または動員拒否者が1〜2万人と考えられる。詳細は既存の郷土史研究を精査する必要があるので、良い資料をご存じの方がいらしたら是非とも紹介いただきたい。
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2017年02月08日

西南戦争の原因を考える・上

西南戦争の原因についてネットで論争しているのを見かけ刺激を受けたので、一説ぶってみることにした。
西南戦争の原因については、いまもって定説が無い。それは首謀者とされる西郷隆盛が戦争(反乱)目的について何一つ語らなかったためだった。結果、様々な仮説が立てられているが、仮説のままになっている。主なものを挙げると、「征韓論に敗れたため(安保政策の相違)」「欧化政策への不満」「士族特権廃止への不満」などがある。
このうち征韓論については、外征策が否定されたことが、果たして3万人もの人が武装蜂起する理由になるかと言うと、当時の空気感を考えても疑問を禁じ得ない。欧化政策については、反乱参加者の中に留学帰りのものもおり、3万人が武装蜂起する根拠としては弱い。士族特権の廃止は、最も合理的な理由ではあるものの、現実の西郷軍は同じく明治政府に不満を持つ他藩士からの協力申し出に恐ろしく冷淡だった。但し、最終的には7千人からの非薩人が参加している。

大きな社会現象を1つの原因の特定するのはあまり意味が無い。例えば、「第二次世界大戦は何故起きたのか」を考えた場合、その原因をヒトラー一人に負わせることは、むしろ事の本質を見失わせるだけにしかならない。
だが、そうは言っても、いくつかの原因を挙げて影響の大きさを論じることには意義があると考える。

そして、西南戦争を含む明治初頭の士族反乱について、必ず考慮すべき要素がある。それは「失業」だ。
まず、士族反乱の先鋒となったのは、長州諸隊の反乱だった。戊辰戦争は、明治2年(1869年)5月に北海道・箱館を拠点とする榎本武揚らの旧幕軍が降伏したことで終結する。同年7月には版籍奉還がなされるが、同11月、長州藩は財政再建を理由に長州軍(諸隊)5千人余のうち3千人をいきなり解雇、残る2千人余を「御親兵」として朝廷(新政府)に差し出して自らを武装解除してしまった。
これは「御一新・王政復古(中央集権)により諸藩が独自の軍を持つ必要は無くなった」という解釈の下、維新を推進した長州藩が他に範を示そうとして行う意図もあった。当時としては、革命思想の先端を行ったものだったが、解雇された者としては「維新を担って、幕軍を打ち倒したのはオレたちじゃねぇか!」という怒りを覚えるのは当然だった。しかも、拙いことに、解雇に際しては一時金もまともに支払われず、雇用継続の御親兵には士族階級が上から優先配置されたため、下級藩士や町人階層から「騙された!四民平等などウソだった!」という声が上がった。
結果、11月末には解雇に反対する不満分子が千人以上集まり、翌明治3年1月には蜂起、山口藩議事館(県庁)を包囲、藩兵を撃退、排除する事態に陥った(脱隊騒動)。1月末までには、農民一揆も加わって2千人を超える軍勢となり、新政府幹部の顔を青ざめさせた。そこで、2月には長州閥のリーダーである木戸孝允が自ら兵を率いて鎮圧に向かい、激戦の上、平定している。
現代の教科書等では、7年後に起きる「萩の乱」の方が大きく扱われているが、同乱の参加者は2〜300人でしかなく、政府が受けた衝撃は奇兵隊反乱の方がはるかに大きかった。

ここで戊辰戦争期の人口動態と動員力を考えてみたい。長州藩の場合、支藩を含めると、明治初年の人口が79万人で、うち士族2万人、卒族(足軽階級等)が2万3千人で、士卒の割合は5.4%とほぼ全国平均にあった。この数字は家族を含めるので、このうち戦時動員可能なのは7〜8分の1程度、実数にして6千人弱でしかない。長州戦争や馬関(下関)戦争に際し、高杉晋作が平民の志願兵で「奇兵隊」を結成したのは、兵力不足を補うためだった。ちなみに、小説等では八面六臂の活躍をする奇兵隊・諸隊だが、その実数は定数で1500人、実数で2千人超であり、世間の評価は過大と言える。
戊辰戦争における長州藩兵の死者は約500人、他に禁門の変、下関戦争、長州戦争等の死者が約千人なので(禁門の変だけで半分)、明治初年における長州藩兵が「5千人余」というのはごく現実的な数字なのだが、このうち士族は2千人前後と考えられるので、士族のみを御親兵にして雇用を守り、残りの足軽、中間、陪臣(家臣の家来)、平民を問答無用で解雇したのが、「脱隊騒動」の本質だった。
第一次世界大戦以降、戦死者の数が急増するので感覚が麻痺してしまっているところがあるが、民兵を含めて7500人の兵のうち1500人の死者を出した(戦死率20%)長州は、まさに「革命の推進者」だった。
鳥羽伏見の戦いが勃発して、長州藩執行部が倒幕戦を決心した際、実質上の軍最高司令官だった大村益次郎(村田蔵六)は、「この現状で幕府と戦争などできるわけがない。少なくともあと数年は必要だ」と(キャラに似合わず)叫んだとされる。
ちなみに、農民出身の大村に藩軍指揮を任せていた一点だけでも、長州藩は時代の革命者だったと言える。
以下続く
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2017年02月07日

残業規制で状況悪化か?

【残業上限は月60時間、繁忙期100時間 政府が改革案】
 政府は「働き方改革」で、これまで事実上、青天井になっていた長時間労働に制限を設け、残業時間の上限を繁忙期も含めて年間720時間、月平均60時間とする方向で調整に入った。忙しい時には月最大100時間、2カ月の月平均80時間までの残業は認める。労使との調整を経て、年度内にまとめる働き方改革の実行計画に具体策を盛り込みたい考えだ。
 現在の労働基準法は、労働時間の上限を「1日8時間」「1週間40時間」と定めている。ただ、同法36条に基づいて労使が協定(36〈サブロク〉協定)を結ぶと、法律の上限を超えた残業が認められる。
 その残業時間は「月45時間、年360時間以内にするのがのぞましい」としているが、労使間で「特別条項」を付ければ、年6カ月までは青天井にできる。長時間の残業を設定しても罰則がないため、長時間労働や過労死を生む原因と指摘されていた。いわゆる「過労死ライン」と呼ばれる過労死の労災認定基準は、1カ月100時間、または2〜6カ月の月平均80時間とされている。
 このため政府は、労働基準法を改正し、残業時間の上限を原則として「月45時間」「年間360時間」と規定。そのうえで、企業の繁忙期に対応できるよう6カ月は例外を設け、「月最大100時間」「2カ月の月平均80時間」の残業を認める。その場合でも、「年間720時間」「月平均60時間」に抑えるよう義務づける。違反に対しては、罰則を科す。
(1月29日、朝日新聞)

いかにもやる気の無い、表面上だけ取り繕った「改革案」である。
そもそも政府は「過労死ライン」を「月80時間」に設定しておきながら、「月60時間」を上限としている辺りで、いかにも「8掛けしておけばいいだろう」的な安直さが透けて見える。「繁忙期は月100時間まで」「2カ月で月平均80時間はOK」とか、過労死ラインすら無視されている。
月60時間は、月24日勤務と仮定して一日2.5時間、勤務8時間に休憩1時間を加えると一日11.5時間までの拘束が「合法化」されることを意味する。これに通勤時間往復2時間を加えると13.5時間にも達する。
このことは、逆に「年720時間までならノープロブレム」という大義名分を与えかねない危惧があることを示している。

また、違反企業には罰則を科すとしているが、現行、労働基準監督署は規模過少で機能しているとは言いがたく、電通事件を見ての通り、死人が出てようやく出向くレベルでしかない。労基署をよほど拡張しない限り、実効性はほとんど期待できない。

実効性という点では、「残業のアングラ化」も課題だ。現状でも、残業時間の過少申告やそもそも申告が認められない、あるいは労働者の判断で申告しないといった問題が山積している。これは、特に公務労働において著しく、例えば地方公務員の残業時間は、統計上、大ざっぱな全国平均で1時間に満たないわけだが、私が見聞きする限り「月100時間は当たり前」「月200時間以上の人もいた」レベルにある。特に都市部の社会福祉関係部署は相当にブラックな状況にある。先に私制服を着用して生活保護受給者を威嚇していた問題が明らかにされた小田原市の場合、ケースワーカーの定数29人に対し実働は25人だった。これは「まだマシ」な部類かもしれない。学校教員の場合、夜9時とか10時に退校して、夜半まで仕事するケースが報告されている。
民間企業では、「朝5時出社」という例が報告されており、何のことは無い勤務時間がずれただけになっている。

こうしたことが起こるのは、「管理職の命令」と「正規の手続き」という残業の大前提が現実には殆ど無視されているためだ。例えば、労働組合が機能している工場では、たとえ日本でも、定時になると労働組合の幹部が職場を回って、残業の有無を点検、「管理職の命令」「正規の手続き」を確認している。これは、労働組合が殆ど機能していないホワイトカラー職やサービス職ほど、「残業天国」が横行しやすいことを示唆している。
この「管理職の命令」と「正規の手続き」を徹底させない限り、「穴の空いたバケツ」の水を注ぐ結果にしかならないのだ。同時に、残業を命じる管理職の評価を下げる人事評価基準を導入しつつ、違法残業の内部通報制度を確立することが不可欠だ。

要は残業時間上限の問題では無いのだ。
マジで官僚どもは「Sねばいいのに!」と思えてくる。だが、これは単に官僚の問題では無く、「人を使い潰しても生産力を上げろ」という日本国の国家方針に起因しているのである。
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2017年02月06日

日立がウラン濃縮技術開発から撤退

【日立、700億円の営業外損失見通し 米国の原発事業で】
 日立製作所は1日、米国での原発事業で2017年3月期に700億円の営業外損失が出る見通しになったと発表した。世界的に原発の新設が鈍っていることを受け、米ゼネラル・エレクトリック(GE)との合弁会社がウラン燃料の濃縮事業から撤退するため。英国での原発新設については、コスト管理を徹底して予定通りに進めるとした。16年4〜12月期決算を発表する記者会見で、西山光秋専務が明らかにした。
 GEが60%、日立が40%を出資する「GE日立ニュークリア・エナジー」が、グループ会社で手がけていた燃料の新しい濃縮法の開発から撤退し、見込んでいた収益が得られなくなったという。損失の計上後、合弁会社の株式のうち、日立の持ち分の価値は約110億円しか残らないといい、「これ以上の大きな損失リスクはない」(西山氏)と説明している。 英国で20年代に4〜6基の原発を新設する計画について、西山氏は「海外で初めての建設で、もともとリスクはある。英国政府やプラントメーカーと協議し、リスク管理を徹底する」と話した。
(2月1日、朝日新聞)

東芝に引き続き日立もダメらしい。
もはや原発はビジネスとしては国内でしか成立しない模様。日立は英国での事業を続行する決意を示しているが、そのコストは天井知らずの状態にあり、攻勢限界点が見えながらも攻撃を止められない指揮官の様相を呈している。
欧米で成立しない原子力ビジネスが日本国内で成立するのは、低めに設定された安全基準がコスト超過を防いでいることと、国民負担が大きいことによる。

原発事業は自由主義経済下では成立し得ないことは自明であり、部分的統制経済下にある日本でも事業が困難になってきていることを示している。ちなみに「部分的統制」というのは、社会保障や電力、あるいは巨大な補助金や政策減税などを指している。
今後も原子力政策を継続できそうなのは、中国、ロシア、インドなど安全保障と統制経済をからめて戦略的に核保有を進める国に限られそうだ。そして、日本はより統制経済と権威主義体制に傾斜しつつ原子力政策を続けるか、現行の自由主義経済を維持して原子力を諦めるか、という選択肢を迫られることになりそうだ。
posted by ケン at 13:06| Comment(0) | 労働、経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする