2017年02月08日

西南戦争の原因を考える・上

西南戦争の原因についてネットで論争しているのを見かけ刺激を受けたので、一説ぶってみることにした。
西南戦争の原因については、いまもって定説が無い。それは首謀者とされる西郷隆盛が戦争(反乱)目的について何一つ語らなかったためだった。結果、様々な仮説が立てられているが、仮説のままになっている。主なものを挙げると、「征韓論に敗れたため(安保政策の相違)」「欧化政策への不満」「士族特権廃止への不満」などがある。
このうち征韓論については、外征策が否定されたことが、果たして3万人もの人が武装蜂起する理由になるかと言うと、当時の空気感を考えても疑問を禁じ得ない。欧化政策については、反乱参加者の中に留学帰りのものもおり、3万人が武装蜂起する根拠としては弱い。士族特権の廃止は、最も合理的な理由ではあるものの、現実の西郷軍は同じく明治政府に不満を持つ他藩士からの協力申し出に恐ろしく冷淡だった。但し、最終的には7千人からの非薩人が参加している。

大きな社会現象を1つの原因の特定するのはあまり意味が無い。例えば、「第二次世界大戦は何故起きたのか」を考えた場合、その原因をヒトラー一人に負わせることは、むしろ事の本質を見失わせるだけにしかならない。
だが、そうは言っても、いくつかの原因を挙げて影響の大きさを論じることには意義があると考える。

そして、西南戦争を含む明治初頭の士族反乱について、必ず考慮すべき要素がある。それは「失業」だ。
まず、士族反乱の先鋒となったのは、長州諸隊の反乱だった。戊辰戦争は、明治2年(1869年)5月に北海道・箱館を拠点とする榎本武揚らの旧幕軍が降伏したことで終結する。同年7月には版籍奉還がなされるが、同11月、長州藩は財政再建を理由に長州軍(諸隊)5千人余のうち3千人をいきなり解雇、残る2千人余を「御親兵」として朝廷(新政府)に差し出して自らを武装解除してしまった。
これは「御一新・王政復古(中央集権)により諸藩が独自の軍を持つ必要は無くなった」という解釈の下、維新を推進した長州藩が他に範を示そうとして行う意図もあった。当時としては、革命思想の先端を行ったものだったが、解雇された者としては「維新を担って、幕軍を打ち倒したのはオレたちじゃねぇか!」という怒りを覚えるのは当然だった。しかも、拙いことに、解雇に際しては一時金もまともに支払われず、雇用継続の御親兵には士族階級が上から優先配置されたため、下級藩士や町人階層から「騙された!四民平等などウソだった!」という声が上がった。
結果、11月末には解雇に反対する不満分子が千人以上集まり、翌明治3年1月には蜂起、山口藩議事館(県庁)を包囲、藩兵を撃退、排除する事態に陥った(脱隊騒動)。1月末までには、農民一揆も加わって2千人を超える軍勢となり、新政府幹部の顔を青ざめさせた。そこで、2月には長州閥のリーダーである木戸孝允が自ら兵を率いて鎮圧に向かい、激戦の上、平定している。
現代の教科書等では、7年後に起きる「萩の乱」の方が大きく扱われているが、同乱の参加者は2〜300人でしかなく、政府が受けた衝撃は奇兵隊反乱の方がはるかに大きかった。

ここで戊辰戦争期の人口動態と動員力を考えてみたい。長州藩の場合、支藩を含めると、明治初年の人口が79万人で、うち士族2万人、卒族(足軽階級等)が2万3千人で、士卒の割合は5.4%とほぼ全国平均にあった。この数字は家族を含めるので、このうち戦時動員可能なのは7〜8分の1程度、実数にして6千人弱でしかない。長州戦争や馬関(下関)戦争に際し、高杉晋作が平民の志願兵で「奇兵隊」を結成したのは、兵力不足を補うためだった。ちなみに、小説等では八面六臂の活躍をする奇兵隊・諸隊だが、その実数は定数で1500人、実数で2千人超であり、世間の評価は過大と言える。
戊辰戦争における長州藩兵の死者は約500人、他に禁門の変、下関戦争、長州戦争等の死者が約千人なので(禁門の変だけで半分)、明治初年における長州藩兵が「5千人余」というのはごく現実的な数字なのだが、このうち士族は2千人前後と考えられるので、士族のみを御親兵にして雇用を守り、残りの足軽、中間、陪臣(家臣の家来)、平民を問答無用で解雇したのが、「脱隊騒動」の本質だった。
第一次世界大戦以降、戦死者の数が急増するので感覚が麻痺してしまっているところがあるが、民兵を含めて7500人の兵のうち1500人の死者を出した(戦死率20%)長州は、まさに「革命の推進者」だった。
鳥羽伏見の戦いが勃発して、長州藩執行部が倒幕戦を決心した際、実質上の軍最高司令官だった大村益次郎(村田蔵六)は、「この現状で幕府と戦争などできるわけがない。少なくともあと数年は必要だ」と(キャラに似合わず)叫んだとされる。
ちなみに、農民出身の大村に藩軍指揮を任せていた一点だけでも、長州藩は時代の革命者だったと言える。
以下続く
posted by ケン at 23:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする