2017年02月09日

西南戦争の原因を考える・下

前回の続き)
そこで、薩摩に視点を転じたい。同じ幕藩体制下の大藩ながら、薩摩は他藩と大きく事情が異なる。その最たるものは、武士階級の人口であり、それに伴う動員力だった。明治初年における鹿児島藩の人口は72万人で、長州と同水準にあった。ところが、動員可能な人数は、嘉永5年(1852年)で、城下士4500人、郷士2万3千人、陪臣1万人、計3万7500人と、長州藩の何と5倍もの動員力を誇っていた。しかも、この数字は「当主」の数に過ぎず、兄弟や子を戦時動員するなら5万人を超えるまで可能だった。当時も「薩摩の実兵力は5万とも10万とも言う」と話されたそうだが、あながち誇張ではなかった。
鳥羽伏見戦における幕府軍の兵力が1万人強、後詰めで大坂城に駐留していたのが2万人超であったことを考えても、薩摩の「戦争マシーン」ぶりがよく分かるだろう。九州南部に引き込んで戦うなら、島津は徳川に負けないだけの兵力を、江戸期を通じて保有していたのである。ちなみに会津戦争において、会津藩は白虎隊に象徴される総動員を行ったが、それでも4千人に満たなかった。

維新後、鹿児島で申請された士卒の数は34万人に及び、総人口に対する割合は45%にも及んだ。全国平均が6%前後であったことを考えれば、壮絶な数であり、この数の士卒を維持するため、薩摩・大隅はもちろんのこと奄美などの植民地では言語を絶する収奪が行われた。西南戦争に際し、農民層がこぞって新政府軍に協力したのは、このためだった。

ところが、戊辰戦争に際し、鹿児島藩が動員して出征させたのはわずか8千人で、多く見積もっても1万人に過ぎなかった。持てる兵力の殆ど全てを倒幕戦(革命戦)に投入した長州に対し、薩摩は先鋒程度の兵力を投入したに過ぎず、兵力の過半を後方で温存させていた。これは、西郷・大久保らが、「幕府が全面戦争を決断した場合」を想定して兵力を温存していた可能性もあるが、基本的には「革命の推進者」として長州、土佐とのバランスを考慮して、自藩が突出して悪目立ちしないよう配慮した上での戦力供出だった。例えば、薩摩が2万人も出してしまうと、長州5千、土佐3千と比べて突出してしまい、「幕府が倒れた後、薩摩が権力を独り占めするのではないか」とあらぬ疑いが掛けられてしまう恐れが強かった。この感覚は、マルチプレイ・ゲームのプレイヤーなら想像に難くないだろう。
さらに、戊辰戦争における薩摩の戦死者は500人超に満たず、禁門の変や薩英戦争の死者を足しても600人に遠く届かなかった。つまり、長州が全身をボロボロにして御一新を迎えたのに対し、薩摩は「もう一戦でも二戦でもできるぜ!」くらいの余力を残していた。

そこで当然ながら、長州の脱隊騒動と同じ状態が生起する。戊辰戦役に出征したか否かにかかわらず、御一新で武士が失職するのは変わらない。薩摩の場合、約3千人が御親兵として維新政府に供出され雇用が守られた。ところが、これはほぼほぼ城下士に限られており、郷士や陪臣は置き去りにされた。そのため、治安維持の必要もあって、大久保・川路が主導して東京警視庁を発足させ、郷士階級を中心に警察官への採用が進められた。とはいえ、警察官を鹿児島県人に限定させるわけにもいかず、正確な数字は分からないが、薩摩からの採用は当初2千人、その後さらに1千人ほど増員されたものの、3千人程度だった。結果、雇用された警察官の半分以上が薩摩の士卒出身者となり、他藩出身者からは強い不満が上がった。また、明治初頭の「東京」では、意思疎通のできない警察官が多すぎて「通訳」が不可欠だったと伝えられている。「おい、こら!」はその名残である。だが、それでも3万人以上の郷士や陪臣は、御一新の恩恵を何ら賜ることなく、「秩禄処分」「徴兵令」を迎えることになる。

付言すると、明治期は「藩閥政治」と批判されることが多いが、地方行政官は意外と能力主義に基づいて公正に採用、配置されていたところがあった。例えば山口県令、県知事は戦前期に1人も長州出身者がいなかった。これに対して、明治初頭の薩摩の場合、県知事も県庁役人も殆どが鹿児島県人で占められ、「独立王国」と陰口を叩かれると同時に、長州人は「薩摩の連中は御一新の意味を全く理解していない」と批判した。長州人は腐敗した側面もあるが、意外と「革命」に忠実だったのである。

まず「秩禄処分」は、明治6年末(1873年)、廃藩置県に伴い家禄を返上した士族に対し、数年分の禄高を半分は現金、もう半分は「秩禄公債」で支給することになった。言うなれば、武士の退職金、失業手当である。ところが、明治初頭は不換紙幣である太政官札を始めとする政府紙幣と国立銀行券が併存して大量発行されていたことや、秩禄処分、殖産産業などのために大量に公債が発行されたことが相まって、高インフレ状態にあった。そのため、現金は間もなく価値を失い、公債の利息もすぐに微々たるものになってしまった。そもそも郷士や足軽は家禄が低いため、禄高に基づく査定はごく低いものでしかなく、「単に武士でなくなった(=定収入を失った)だけ」になってしまった。最多層の下級武士が拝受した公債の金利は、日割りにすると当時の最底辺労働者の賃金の半分以下だった言われる。
歴史学で言うところの「封建的特権の有償廃止」であるが、明治政府の財政事情は十分な補償を許さなかった。明治初年における政府歳出に占める家禄支給額の割合は30%を超えており、封建特権を放置したまま近代化などできるワケもなかったのだ。

話はやや前後するが、徴兵令は明治6年始めに施行される。これは士族特権だった武力行使権を廃止して中央政府に一括集中することを意味したが、士卒階級からすれば「町人に権限を奪われた」形となった。同時に、士族に家禄を支給する根拠が失われた。
徴兵制の導入については、西郷隆盛を筆頭に主に薩摩閥から強い反対意見が出され、彼らは自然と士族が中心となる志願兵制を主張した。だが、最終的には「武士の軍隊では近代戦は戦えず、国民軍が不可欠」という長州閥の意見が大勢を占め、徴兵制の導入が決められた。最終的には「皇軍」なる怪しげなもの(天皇の私軍)になってしまうものの、明治初頭のこの段階では「四民平等の国民軍」が志向され、そのため武士は武権を失い、武権に伴って設定された家禄を失うことになった。
明治9年の廃刀令は、士族に唯一残された個人武装権をも剥奪されるというもので、現実には象徴的なものであったが、精神的打撃は大きかった。

「征韓論」に象徴される「明治六年政変」は、まさにこの時期に起きた。征韓論の説明は省略するが、長州閥と薩摩・大久保派を除く薩摩、土佐、肥前閥がこぞってこの時期に外征を主張した背景には、どの藩でも抱えていた士族の失業問題を解消、抑制するために、徴兵制が軌道に乗る前に大規模な外征を行って大動員を果たしたい、という狙いがあった(どこまで自覚的だったかは不明だが)。この辺の背景は、根源的には豊臣秀吉の朝鮮出兵とよく似ている。
ところが、紆余曲折があり、多数派だった征韓派は敗れ、西郷(薩摩)、板垣、後藤(土佐)、江藤、副島(肥前)の5人の参議が辞職した。これに伴い、薩土を主とする官吏、軍人600人ほどが同調、下野するが、うち軍人は400人超と見られる。
同時代を扱った小説では、「征韓派が一斉に下野して大混乱に陥った」などと書かれているが、当時の近衛兵(御親兵)1万人のうち、薩摩兵が4千、土佐兵が2千程度だったことを考えると、薩摩・土佐兵のうち征韓派に同調したのは10分の1にも満たなかったことが分かる。やはり、小説は小説であり、注意して読む必要がある。
この明治六年政変で征韓派が下野したのは、明治6年10月のことであり、その12月に上記の「秩禄処分」が開始されたのだから、士族からすれば「どこまでも救いが無い」と考えてもおかしくなかった。

秩禄処分は、激変緩和措置として当初は「家禄の自主返上者」のみを対象にしていたが、上記の通り補償が不十分だったため、一向に返上は進まず、業を煮やした明治政府は、明治9年(1876年)、秩禄処分を全士族への強制適用を決定した。
熊本・神風連の乱が同年10月、西南戦争が翌明治10年1〜2月に始まったことを考えれば、「封建的特権の廃止」こそが、士族反乱の最大の原因だったと考えるのが合理的だろう。
下野した西郷らは、鹿児島で「私学校」をつくり、士族子弟の教育を担うことで暴発を止めようとした、と今日では美談のように語られるが、その生徒数は700人程度で、原則的には城下士に限定されていた。つまり、「上京できず就職できなかった城下士」のみを対象にしていたのであり、郷士や陪臣などはここでも放置されていた。もっとも私学校は、鹿児島県下に支部をつくって郷士の組織化に努めていたようだが、実態はよく分からない。全体で見ると異なる風景も見えるかもしれない。

西南戦争で西郷軍が動員したのは鹿児島県人2万3千人だった(日向を含めると2.6万人)。鹿児島の武家当主3万7千人に対し、上京・就職できたのは7、8千人程度に過ぎず、鹿児島県庁に就職できた士族層を考慮しても、御一新で家禄を失い、失業した士族層が、倒幕戦のために準備された武器を持って反乱に立ち上がったと見るのが最も自然なのではなかろうか。仔細に見ると、私学校党が1万3千人、徴募兵が1万人となっている。つまり、「上京就職できなかった城下士とその子弟」が中核を担い、鹿児島近郊の郷士(麓郷士)を動員して初期兵力の1万3千人をなしたと見て良い。意外と外城郷士や陪臣層には不参加だったものが多く、それらは徴募という形で強制徴召集せざるを得なかったのだろう(初期動員時にも志願強要があった模様)。戦後の口述書や上申書の類いを見ると、意外と「場の空気で志願せざるを得なかった」とか「私学校党の区長に強要されて」などの供述が多いことが分かる。
鹿児島は単に武士が多すぎたのである。

【追記】
西南戦争における薩軍の戦死者は、薩摩大隅で3,263人、日向で650人だった。戊辰戦争の500人に比して、あまりにも大きいツケを支払わされたと言えよう。

【追記2】
最終的な薩摩武士の動向を大ざっぱに推計すると、西郷軍参加者が3万人(後方配置含む)、政府側についたものが1万人強、逃亡または動員拒否者が1〜2万人と考えられる。詳細は既存の郷土史研究を精査する必要があるので、良い資料をご存じの方がいらしたら是非とも紹介いただきたい。
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする