2017年02月13日

修士号は論文不要だった件

【大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査】
 文部科学省は26日、大学院で修士論文を作成しなくても修士号を取得できるよう省令を改正する方針を決めた。博士号取得を目指す大学院生が主な対象で、論文の代わりに専攻だけでなく関連分野も含めた幅広い知識を問う筆記試験などを課す。大学院の早い段階から専門分野に閉じこもるのを防ぎ、広い視野を持つ人材を育てる狙い。来年度から適用する。
 現在の大学院教育は、2年間の修士課程と3年間の博士課程に分かれるのが一般的。省令の大学院設置基準では修士論文を提出して審査に合格することが事実上、修士課程を修了する条件になっている。
 文科省は同基準を改正。「博士論文研究基礎力審査」と呼ぶ試験に合格すれば修士号を得られるようにする。審査は筆記と面接で、博士課程で学ぶのに必要な専門分野と関連分野の知識、研究を自力で進める力などを判定する。
 修士課程2年の春から夏に筆記、冬に面接を行うことを想定。博士課程は別の大学院に進みたい場合、入試も受ける必要がある。博士課程に進まず就職する大学院生も多いことなどから、修士論文の提出を条件とする従来方式も認める。
 修士論文を実質的に不要にするのは広い視野と能力を持った人材を育てるのが狙い。従来の修士課程は論文作成のため早い段階から特定の研究室に所属して研究テーマを絞ることが多く、博士課程を終えても産業界から「専門分野には詳しいが応用が利かず、使いにくい」と評価されてきた。
 同省は審査の導入に合わせ、修士課程の教育内容の見直しを各大学に促す。院生が分野を超えて複数の研究室で学べるようにし、専門だけでなく関連する分野の知識も身に付けさせる。将来的には5年一貫教育で博士号の取得を目指すコースを普及させたい考えだ。
 大学院設置基準の改正案については年明けにも国民から意見を募集。その結果を踏まえて来年3月までに改正したい考えだ。
(2011/10/26、日本経済新聞)

「水は低きに流れる」の典型。
5年以上前の記事になるが、自分もすっかりアカデミズムから遠ざかっていたせいか、チラとは耳にした様な気もするのだが、十分認識していなかったので掲載しておく。
現実に基準を合わせると、理想が瓦解する。考えてみれば、自分などが修士課程を修了できた時点で、いずれこうなることは避けられなかったのかもしれないが。
自分が入院した際に、最初に教わったのは、「修士課程で学術論文の読み方と書き方を覚え、博士課程で論文作成を実践する」だったが、あれは一体なんだったのか・・・・・・

確かに現実には、修士学生を水増しした結果、特に留学生の論文など「日本語として読めればまだマシ」というレベルで、そもそも学術論文の形式すら成立していない、学部の卒論レベルにすら達していない感想文水準のものが横行していた。
私が在籍したのは、一応国立の一流大学と言われるところだったので、まだマシな状況にあったが、同時期あるいは後日相談された私立大学の場合、「六大学」級ですら、日本人学生の「論文」が学術論文の形式を満たしておらず、先行研究すら十分に把握されておらず、とても読めたものでないことに驚かされた。しかも、それが平均、一般的と言われ、「終わっているな、どうしてこんな事態になったのか」と思ったものだった。
修士レベルの論文など、「先行研究が適切に追えていれば7、8割完成」と言われるくらいで、形式と手順さえ教えてやれば、「(大学院に入る頭脳があれば)誰にでもできる」と思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。

とはいえ、考えてみれば、私の時代でも院生と留学生が水増しされたせいで、「教授1人に院生と留学生10人」などという状態が当然のように存在していた。かつては「教授1人に博士課程1人、修正課程1〜2人」程度が普通であったのだから、単純に考えて、3分の1以下に水で薄められていると見るべきなのだろう。そうなると、教授が指導できる部分などごくわずかとなり、文字通り形式と手順だけ示して、「あとは自分でやってくれ」と言うしかなくなる。私などは、他の同期や後輩の院生の指導までさせられていたが、殆ど「新兵が新兵の教導を行う」ような話だった。
国立の一流大であれだったのだから、「他は推して知るべし」だったのだろう。

そう考えれば、「基準を現実に合わせる」として、論文審査を廃止するのは現実的な対応なのかもしれない。だが、これは「受験科目に英語があるため、志願者が陸士に流れてしまう」として「英語廃止」を主張した海軍軍人と同じ過ちを犯している。司法試験を緩和して弁護士を増やした結果がどうなったかを想像しても良い。
だが、院生と留学生の水増しは、そもそも大学側の財政事情と、文科官僚の「関東軍的発想」に起因する合成の誤謬であり、高等教育行政のパラダイムシフト(中央統制の廃止)なくしては改善不可能だろう。
色々な意味で「終わっている」のかもしれない。
posted by ケン at 12:47| Comment(0) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする