2017年02月21日

コバちゃんを独裁者と呼ばないで

先の記事で「今どきスターリンを『独裁者』などと書いてしまっているのは、ソ連学徒として噴飯もの」と書いたところ、「なぜスターリンを独裁者と言ってはいけないのか」旨の問い合わせがあったので、ここに記しておく。

まず大前提として、特定の個人を「独裁者」などと呼ぶのはただのレッテル貼りに過ぎず、論者の主観の問題であって、客観的な議論を否定する話にしかならない。例えば、安倍晋三氏を「独裁者」と呼ぶことは、論者の主観的には「正しい」かもしれないが、そこには客観的な議論は存在せず、むしろ議論を否定して「安倍は独裁者である」という認識を強要する意図が感じられる。同時に、そこには「独裁者か否か」の中立的な検討が存在せず、論者が前提条件無しに決めつけてしまっている。
こう言うと「安倍については独裁者かどうか議論があるかもしれないが、スターリンは独裁者で良いだろう」との反論がありそうだ。そこで、少し迂遠ながら自国の例で考えたい。

日本史において「独裁者」と呼ぶに値する指導者に晩年の豊臣秀吉がいる。晩年の秀吉は、周囲の慎重意見や反対意見を排して朝鮮出兵を強行、諫言する者を粛清している。豊臣秀次事件の陰惨さは、まさに一般にイメージされる独裁者そのものだろう。だが、秀吉は最初から独裁的だったわけではなく、むしろ独裁から最も遠いところにいた。若年から壮年に至る秀吉は、とにかく聞き上手で、人の間に入って交渉、裁定するのを得意とした。秀吉が天下人になれたのは、様々な要因があるものの、個性として自己肥大の塊のような戦国諸将をなだめすかし、褒め殺しながら、利害調整する手腕に長けていたことが大きい。つまり、「多数の意見を反映させつつ過半の合意を得る」という民主的傾向が強かったのであって、秀吉個人が超人的な能力をもって暴力的に他者を支配下に置いたわけではない。秀吉が、パラノイア、独裁的傾向を示すのは、小田原征討以降のことだった。
「豊臣秀吉は独裁者だった」と言ってしまうと、晩年については妥当性が認められるとしても、壮年に至る大半のキャリアを否定することになってしまい、妥当性や中立性の点で大いに疑問が生じる。「独裁者」はやはりレッテル貼りでしかない。

なお、戦国期の戦国大名は、今日流布されているイメージと異なり、「地域豪族の取りまとめ役」でしかなく、殆どの場合、自分の意志を通すことすら難しかった。武田信玄が「名君」とされたのは、文字通り朝から晩まで国衆の話に耳を傾け、合意を得ることに長けていたためであり、故に松平元康も領主の範とした。上杉謙信などは、豪族たちのアクの強さに嫌気をさして、何度も出奔したり、引き籠もりしたりしている。

スターリンを論じる前に、ソ連邦における国家意思の形成過程の一例を挙げておきたい。一般的には、全体主義国家の意思決定は独裁的に決せられると考えられている。だが、本ブログでいくつか検証してきた通り、その意思決定は共産党書記長が独裁的に決するものではなかった。詳細は記事を読んで欲しい。

・ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程 
・「プラハの春」−ソ連の対応と誤算 
・ソ連は何故ポーランドに軍事介入しなかったのか 

ブレジネフの例を挙げると、「プラハの春」の前にプラハ入りした際、滞在した48時間のうち40時間を、チェコスロヴァキア共産党の幹部、関係者数十人との面会・ヒアリングに充てているが、とうてい「独裁者」のイメージでは無い。
アフガニスタン介入やポーランド危機と同時期のフォークランド紛争を見た場合、当時のサッチャー英首相は、大多数を占めていた慎重、反対意見を頭から否定して、自らの信念だけで相当強引に開戦に持ち込んでいる。意思決定過程を見る限り、ブレジネフよりもサッチャーの方がはるかに独裁的なのだが、サッチャーを独裁者とする記述は、少なくとも今日ではお目に掛からない。

「肝心のスターリンは?」と言うと、実はこれも同じで、スターリンが独裁的地位を確立するのは対独戦に勝利する前後のことであり、それは「大祖国戦争を勝利に導いた」神話に基づいている。スターリンは1953年に死ぬが、独裁権を振るったのはやはり10年に満たない期間でしか無かった。大粛清の終了をもって「独裁権確立」と判断しても15年に満たない。

そもそもスターリンが、レーニン死後のボリシェビキの後継者レースに勝利したのは、「独裁的じゃ無いから」だった。レーニンの死の前後、オールド・ボリシェビキたちはレーニンの指導力に敬意を表しつつも、その独断的傾向や人の話に耳を貸さないスタンスに嫌気をさしていた。レーニンは、遺書でスターリンを「粗暴」「独裁的」と非難するわけだが、そのスターリンを書記長に就けたのはレーニン自身だった。その理由の1つは、トロツキーではボリシェビキをまとめられず、スターリンなら可能(実務能力が高く面倒見が良い)という判断だったと推察される。能力という点では、トロツキーはダントツだったが、いかんせん自分の能力をひけらかし、他者を見下す傾向があり、特に党内の幹部級から嫌われていた。これに対し、スターリンはとにかく人の話に耳を傾け、容易に自説を主張せず、「仲間」と見込んだ者は必ず守る「男気」があると評価されていた。レーニンはどこかの時点でスターリンの本質を悟ったのだろうが、党内の評価は全く別だった。
スターリンの意思決定は、常に慎重で周囲の意見を丹念に聞き出し、その上で多数派を見出して同意するというものだった。それ故にレーニンやトロツキーらからは蔑視されていたわけだが、人事の妙と相まって、常に多数派を形成していた。

スターリンはレーニンの遺書を封印して党内権力を握るが、その座は不安定で内外に多くの敵を抱えていた。そこで、政敵の排除を始めるが、粛清を進めれば進めるほど、疑心暗鬼が強まっていってしまう。さらに無理な農業集団化や重工業化が祟って、国内の不満が高まり、国際情勢的にも不穏となる中で、「政治統制を急ぐ必要がある」として大粛清が始まる。
直接的な原因は、大衆的人気の高かったセルゲイ・キーロフが暗殺されたことにあり、定説は、スターリンが自らの地位を脅かすキーロフを暗殺し、これを切っ掛けに大粛清を始めたとしている。だが、現実にはスターリンがキーロフ暗殺を指示したという証拠も傍証もなく、むしろキーロフ暗殺の知らせを聞いたスターリンが、周囲も驚くほど狼狽し、放心していたことが確認されている。一般的には、大粛清は「スターリンの妄想に始まった」と理解されているが、スターリン個人が周囲の反対を押し切って粛清を強行したことを示す資料はなく、むしろ周囲の人間が「内なる脅威」を煽り立てた節があるくらいだ。

大粛清の過程で「内なる敵」を徹底的に排除したことで、スターリンの独裁的権力が確立したと考えるのは、おおむね妥当かもしれない。だが、例えば、1941年6月22日、スターリンの予想に反してナチス・ドイツがソ連への侵攻を開始した際、スターリンは呆然自失となり、後事をモロトフに託して別荘に引きこもってしまう。この時スターリンは、完全に自分が粛清されるものとして身辺整理していたのだが、案に反してやって来たのは、「どうか戦争指導を引き受けてください」という党幹部の嘆願だった。
ジューコフは、大戦当時のスターリンについて、「すべての重要な決定にはスターリンの決裁が必要だった」と述べると同時に「われわれのような専門家の意見を率直に聞く耳を持っていた」と評価している。
また、モロトフは一般労働者並みの年金で生活していた晩年にインタビューを受けているが、「レーニンとスターリンと、どちらの方が恐ろしかったか」との問いに対し、「スターリン?ふん、あんなのはレーニンに比べれば羊も同然だ」と応じている。同時代にあったものの印象としては、レーニンの方がはるかに「恐ろしい独裁者」だったのだ。

今日にあっても、西側では「独裁者」と言われるプーチン氏だが、氏をよく知るものたちは皆、「プーチン氏ほどよく人の話を聞く人はいない」と口を揃えて言うという。
先に「独裁者」とレッテルを貼って見てしまうと、無数の視点を見落としてしまうだろう。少なくとも中立性、客観性、学術性を重視するならば、相応の理由や必要性無くして「独裁者」などの言葉は使うべきでは無いのである。
posted by ケン at 12:57| Comment(2) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする