2017年09月12日

総力戦体制とは何だったのか・上

1941年7月に海軍省が「対米開戦を辞せず」を決定した際(そして南部仏印進駐)、航空本部長だった伯父は「こんな航空戦備で対米戦などできるわけがない」「長期戦をどう戦うつもりなんだ」と大臣に噛みついたという。資料を読んでいると、子孫としては、「伯父上おやめください」と背中に飛びつきたくなるほど真に迫っている。

先の「航空人事から見た日本の戦争運営について」で書いたように、日米開戦時の日本海軍の常用航空機定数は3019機で、運用に必要な搭乗員は3445名だったが、海軍所属の搭乗員は全3615名に過ぎなかった。このうち勤務2年以上の熟練搭乗者は49.5%だった。だが、42年末までに2300人からの搭乗員が失われ、熟練搭乗員の割合は22%にまで落ち込んだ。開戦時の米海軍と海兵隊が保有していたのは約4千機、同6千人だった。独ソ開戦前のソ連に至っては、航空機1万2千機に対し、2万人からの搭乗員を用意していた。
つまり、日本海軍は「緒戦で負けたら再起不能」という軍備しか用意しておらず、それで米英と戦争を始めてしまったことになる。伯父上がキレるのは当然だったが、当の海軍幹部たちは「アメリカと戦争することを前提に国家財政が傾くほどの予算をもぎ取ってきたのに、戦争できませんとは言えない」というのが本音だった。

実際、国家財政に占める軍事費の割合は、満州事変直前の1930年で28.5%、日華事変前の36年で47.6%、全面戦争突入後は38年で77%、41年で75.7%となっていた。
にもかかわらず、中国戦線では事変勃発から1年半後の1939年には前線部隊の約半数が補給不足に陥り、「攻勢不可」と認識された。

『ノモンハンとインパール』の著者で両戦役に砲兵として参戦した辻密男は、ノモンハン事件に際し、満州のハイラルから馬匹で200kmの距離を1週間かけて改造三八式野砲を運び、実戦では何の役にも立たなかった旨述懐している。
この1907年に制式化された改造三八式野砲は敗戦まで現役だったわけだが、次世代式の九〇式野砲は(1930年)は生産数200門、最新式となった九五式野砲は320門でしかなかった。この他に九一式十糎榴弾砲があり、こちらは生産数1200。なお、日本の歩兵師団の砲定数は36門で(75mmが24門、105mmが12門)、重火力師団(四単位編成)で48門だった。
制式野砲だった九〇式がわずか200門しか生産されなかったのは、必ずしも工業力のせいではなく、重量の問題から「馬匹牽引できない」「でも牽引車も無い」という理由だった。そのため馬匹牽引可能な軽量の九五式が開発されたものの、性能的には「改造三八式よりはマシ」というレベルに低下してしまった。

これに対し、ソ連の1939年式УСВ(76mm野砲)は約1万門、42年式ЗИС−3(同)に至っては10万門以上が生産されている。狙撃兵師団の野砲定数は、時期によって内容が異なるが122mmや152mm砲を含めて60門が基本だった(例えば76mmが16門、122mmが32門、152mmが12門)。
炸薬量を考えれば、赤軍の火力は日本軍の優に2倍以上あったわけだが、当時の日本陸軍は「日本の一個師団はソ連の二個ないし三個師に相当する」と豪語していた。一体どのような計算をすれば、そのような結論が出るのか、あの世で御先祖(一人は重砲兵学校長、一人は関東軍情報将校)に聞く必要がある。
ドイツ軍が「ラッチュ=バム」と呼んだことで日本のヲタクにも知られるZIS-3野砲は、発射速度で日本軍の九〇式の2倍(最大25発/分)を誇った。だが、その開発理由は前モデルのUSVが「生産コストが高く、納期が遅い」というもので、コストと納期を3分の2に縮めた上に、性能も向上させている(現代の中東・アフリカ紛争では現役、グルジア紛争やウクライナ内戦で使用されたという話もある)。

ここで「総力戦体制とは何か」を考えてみたい。
第一次世界大戦は、各国の軍事技術者や政治指導者の予想に反し、大規模かつ長期化を余儀なくされ、国家の工業力と経済力をフル稼働させて軍事生産すると同時に、国民大衆を肉体的にも精神的にも戦争に駆り立てる必要が生じた。また、政治社会的には、戦争の長期化と被害拡大に伴い、前線部隊の士気低下と国民大衆の不満増大が問題となり、厭戦気分や反戦運動・サボタージュへの対処が大きな課題となった。
戦争自体は、ロシアとドイツの軍事的敗北に起因する革命によって終了するが、共産主義ソ連の成立と、ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約以降の慣例(領土権、主権と内政の不干渉)を無視したヴェルサイユ条約の締結、さらに植民地体制の動揺(民族解放運動の激化)と世界恐慌によって、「軍事力による国際秩序の再編は不可避」という認識が、特にドイツ、イタリア、日本において共有されていった。
ソ連はソ連で「資本主義帝国による、干渉戦争に次ぐ侵略は必ず行われる」という認識を有していた。具体的にスターリンは「米英の支援を受けた日波同盟が東西から挟撃してくる」と予想し、早急なる戦時体制の確立を目指して、重工業化、軍部粛清、大軍拡に踏み切ることになる。

「次なる世界戦争」もまた、一次大戦以上の超規模かつ長期化が予想されたため、総力戦に向けた継戦能力と軍事生産能力の向上と大規模動員を可能とする国家体制の構築が求められた。これが「総力戦体制」となる。
英米仏に比して経済的、産業的基盤の弱い日独伊は、国際的影響力や経済力の脆弱性を軍事的優越によって補正し、あるいは覆そうという意図を持って、市民的自由を制限しつつ、広範な国家動員体制を築いて、重工業化と産業基盤の強化を目指した。

日本の場合、「日満支」のブロック経済化を実現し、自給自足体制を確立、軍需工業の拡充を目指し、その主敵は米英ソであった。石原莞爾は、1920年代半ばには次大戦の決戦戦力が航空機になることを予測、1937年には開戦までに生産数にして年1万2千機が必要と指摘したが、それは前年実績の10倍の数だった。だが、現実には日米開戦の41年でも5千機を達成するのが関の山だった。しかも、実際に開戦したのは、米ソではなく、「差し当たっては武力衝突を回避すべき」中国が相手だった。

もっとも、仮に中国との全面戦争を回避したとしても、当時すでに経済力で1位と2位にあった米ソを相手に、海軍は世界最大の艦隊を持つアメリカ、陸軍は世界最大の兵力を有するソ連と対手とするという想定自体「あり得ない」ものだった。1936年6月に改定された「帝国国防方針、帝国国防に要する兵力、帝国軍の用兵綱領」は、仮想敵を「米国、露国を目標とし、併せて支那、英国」としたが、何度見ても正気の沙汰と思えない。この点もあの世で伯父上に問い糾したいところだ。

GNPを見ると、日華事変が始まる1937年で、米8334億ドル、ソ連3980億ドルに対し、日本は1587億ドルに過ぎない。
特に日本が1936年1月にロンドン海軍軍縮条約を脱退し、自ら建艦競争を激化させたことで、直接的な軍事力整備(象徴的なところでは戦艦大和)に巨額の予算が掛かるようになり、基礎工業力(潜在的戦争遂行能力)のベースアップに割く予算と資源が少なくなり、刹那的になっていった。
そして、1937年に日華事変が勃発すると、直接軍事費(戦争経費)が膨大となり、諸外国からの借款や投資が滞るところとなって、資金調達が困難となり、国内や植民地からの収奪を強化するほかなくなったのである。同時に、軍事産業を支える熟練労働力を次々と戦時召集してしまい、大量生産技術が未整備の中、生産兵器のクオリティも低下する一途となった。
つまり、帝国日本は「世界最終戦争」(石原)に備えて総力戦体制を確立しようと試みたが、始めたばかりのところで自分から「世界戦争」を始めてしまったのだ。
以下、続く
posted by ケン at 12:55| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする