2017年11月17日

日本の高等教育は崩壊過程

【龍谷大・ゼミ受講めぐり学生らが申し立て 京都】
 京都市の龍谷大学で、教員不足によりゼミを受講できず、学習権を侵害されたとして、学生らが京都弁護士会に人権救済を申し立てました。
 人権救済を申し立てたのは龍谷大学の経営学部の学生らで、6日に会見を開きました。龍谷大学経営学部では、2年生の後期から受講する少人数制で専門性の高い「ゼミ」と呼ばれる授業の数が、教員不足のため、かつての25クラスから今年度は18クラスまで減少。2年生500人のうち、およそ80人がゼミを受講できない「未ゼミ生」となっています。学生側は、「学習権を奪われている」と主張。さらに、「就職活動で不利になる可能性がある。同じ学費を払っているのに質が違うのは、おかしい」と主張しています。学生らは、今年6月、およそ330人分の署名を大学に提出しましたが、何ら対応が示されないことから、弁護士会に人権救済を申し立てたということです。龍谷大学は、「申し立て書を見ていないので、現時点でのコメントは控える」としています。
(11月6日、朝日放送)

大学に入学しながら、ゼミに参加するために就(ゼミ)活が必要な時代。確かに自分が大学院に通っていた十数年前も、学部ゼミには20人以上も学生がいるものもあって、場合によっては30人近いものもあり、「まともにやったら一年に一回も報告できないじゃん」と思ったものだった。
記事のケースで考えても、開講されているゼミが18に対し、「未ゼミ生」を除く420人が参加、平均するとゼミ当たり23人を超えている。現実には人気ゼミとそうでないゼミがあるので、多いところでは30人前後もいるのだろう。
確かに「少人数制」という場合の少人数の定義は定まっていないものの、少なくとも20人を超えるものは少人数とは言えないだろう。「高等教育」と言うからには、10人以下にして欲しいくらいだ。
「同じ学費を払っているのに、ゼミが受けられないのはおかしい」という学生の苦情は全く正当なものだ。

だが、教員は教員で一昔前(例えば80年代)は、週5、6コマの受け持ちだったものが、90年代以降増え続け、いまや10コマは当たり前(最低ラインくらい)で、15コマという話も聞く。これは、90年代以降の規制緩和で大学院が広く設置された他、様々な授業が増え、授業数が厳密に管理されるようになったことなどが影響している。授業を持つということは、少なくとも授業時間と同じ時間数を準備に充てる必要があり、授業が増えれば増えるほど教員の負担は加速度的に重くなる。
自分もロシアの大学で2年ほど教えたが、臨時的に10コマ持ったときは準備が大変で、「これ以上増えたらクオリティが落ちる」と思ったものだった。それも、事務仕事など殆ど無い状態だったのだから、ムダに事務仕事や書類作業の多い日本の大学の勤務環境は非常にブラックなものになっている。

この間、大学の経営環境は悪化の一途を辿っており、90年代以降、まず教員や職員の非正規化が進んだあと、ここ10年くらいでは非正規の雇い止めと正規教員の負担増(割り当て増)が進んでいる。
その結果、大学教員の研究時間が減り、論文数の減少に直結している。また、授業のクオリティも低下の一途を辿り、学生の質的劣化も相まって、高等教育のクオリティ自体が恐ろしく低下している。一種の負のスパイラルだろう。

危機を回避するためには、高等教育に対する公的資金の投入、中央規制(授業数の厳正管理や文科役人の天下りなど)の撤廃などが考えられるが、現実には全て逆を行っている。
posted by ケン at 12:31| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする