2018年01月12日

大山崎天王山に登る

昨夏から秋にかけては大忙しだったこともあり、この年末はゆっくり休ませてもらった。その最後に母妹と京都旅行に出た。「西山方面を回りたい」という、ややマニアックなコンセプトだったので、ケン先生からは「自分は天王山に登りたいであります!」との要望を出して実現させた。
幸いにして、妹が山崎にあるアサヒビール美術館に行きたがっていて、そこは天王山の登山口でもあったので、願ったり叶ったりとなった。自分はレンタカーを借りて運転するが、京都市内からは30分強で着いた。

同美術館は元々、関西の実業家であった加賀正太郎の別荘で、死後荒れていたものをアサヒビール社が買い取って美術館として再建している。英国様式大正モダン建築の典型で、天王山の登山口にあり、京都盆地や桂川・宇治川を一望する絶景を楽しめる。この建物と景色だけでも訪問する価値がある。
天王山自体は標高270メートルほどしかないのだが、麓の標高が低く、凄い急勾配になっている。駅から美術館・登山口に行くまでも、非常に急な坂を15分ほど上る必要がある。

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山崎合戦に際して羽柴秀吉が天王山に本陣を置き、明智勢を敗走、光秀を敗死させたことで「天下分け目の天王山」として知られるようになったが、現実の天王山は関ヶ原ほどの知名度はなく、訪れる人もまばらなようだ。
秀吉の陣は、美術館のある登山口から30分ほどだが、なかなかの急勾配でちょっとした山登りになる。ゆっくり登れば問題ないが、山頂まで行くとなれば、相応の準備と覚悟が必要かもしれない。その途中には、大阪平野を一望できる展望台もあり、京都盆地と大阪平野の両方を見下ろせる国境の重要高地であることが分かる。
秀吉が千成瓢箪を掲げた展望台からは、京都盆地を一望すると同時に、山崎や桂川・淀川を見下ろせる。ここまで登るのに30分以上かかるのだから、現代軍事学で言うところの高地効果を得るほどではなかったかもしれないが、明智勢の布陣を確認できたのは間違いない。実際、現代の軍事研究は「天王山を奪取したことが戦局を決したわけではない」と結論づけているようだ。

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なお、案内板には「明智方は開戦直後に敗走」旨が書かれていたが、最新の研究では明智方は日没近くまで奮戦するも、羽柴勢が淀川を迂回して明智の背後に廻る姿勢を見せたため、裏崩れを起こした、ということになっている。秀吉は間接アプローチ好きなので、恐らくそれが正しいのだろう。
余談になるが、同じく最新の研究では、開戦直後に一方が敗走して終了したのは、むしろ関ヶ原だったとされており、非常に興味深い。やはり勝者は歴史を改ざんする、ないしは歴史家は勝者に阿る傾向があるのだ。

天王山に登って山崎の古戦場を眺めてみると、数万の兵を率いて岡山から三日で戻った秀吉は「最初から分かっていたのでは」という気がするし、逆に明智光秀は全く予想していなかった羽柴勢の急着に対して、細川勢なしで1万6千人を動員して山崎に布陣できたこと自体、大したものだと思った次第。
そして、羽柴勢の京侵入を防ぐには、西山と桂川が扼して狭まっている山崎に陣取るほかなかったことがよく分かる。やはり参謀旅行は重要だ。

なお、光秀は敗走中に小栗栖の竹藪で土一揆勢に殺害されたというが、実際あの辺りは現在ですら竹林が多く、追及を避けるために竹藪に入ってしまい、動きが取りづらくなって槍で突かれてしまったことが容易に想像できる。これも現地を見て回った成果だろう。
posted by ケン at 12:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする