2018年04月30日

ヴァイオレット・エヴァーガーデン原作入手!

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前期最高傑作『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の原作三冊を入手!「終戦後」と戦争後遺症をテーマにした珍しいラノベ。
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2018年04月29日

D&D キャッスル・レイヴンロフト 初プレイ

ファンタジーTRPGの最大手であるD&D第四版をボードゲーム化した作品。
雰囲気的には『ディセント』に近いが、より簡素化されている。マスターを必要としないところが大きな違いだろう。

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プレイヤーは既成の5人のキャラ(ファイター、クレリック、ウィザード、ローグ、レンジャー)から一人を選び、ミニチュアを動かしてプレイする。シナリオは全部で13本あるが、同一シナリオでもマップ生成(40枚のタイルからランダムで選ぶ)やモンスターの出現はランダム(カード)なので、異なる状況が現出する。

基本的には移動と戦闘の繰り返しで、ランダムイベントでモンスターが出現したり、罠が発動したりする。シナリオの目的は、シナリオによって異なるため、必ずしもボスを倒すことだけが目的では無い。
一回のシナリオは1時間前後で終わるため、この日は3人でプレイして、5つのシナリオを終えた。ギリギリセーフだったものはあるが、任務に失敗したケースはなく、難易度的にはディセントよりも低めな感じ。マスター無しで、3人ともキャラクターをプレイできたのは良かった。

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サクサク進むのでペース的には良い感じ。だが、ドラゴンボーン・ファイターがやたらと強いのと、ドワーフ・クレリックがチート的なスキルを持っているのに対し、残りのキャラは一段下がる感じで、ややバランスに難がある。スキルも使うスキルと使わないスキルの差が大きい気もする。ボス敵以外はあまり強くなく、ディセントのようなギリギリ・ヒリヒリ感も無い。
あと、罠やイベントによって被るダメージが、あまりにも大きく、「戦闘する前にこれかよ」と、いささか納得のゆかないところがある。

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マスターもシナリオ準備もいらず、ゲームの準備や片付けも比較的楽なのは良いが、肝心の移動、戦闘、モンスターの処理がいささか簡素化され過ぎていて、物足りなさを覚えるところもある。悪くは無いが、個人的にはディセントの方が好ましい。
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2018年04月27日

セクハラ事件の深刻度について

【財務次官セクハラ疑惑 福田次官の退、菅義偉官房長官「財務相が対応」】
 菅義偉官房長官は16日午前の記者会見で、複数の女性記者へのセクハラ疑惑を週刊誌で報じられた財務省の福田淳一事務次官の進退について「任命権者である財務相がきちんと対応していくべき話であり、財務省に聞いていただきたい」と述べた。安倍晋三首相は、福田氏の更迭は不可避と判断している。
(4月16日、産経新聞)

先に東京都狛江市の市長によるセクハラ事件を取り上げたが、官界に限らず政界でも表沙汰にならないだけでセクハラやパワハラは非常に多い。トヨマユ事件についても、「女性議員だから」表面化した面もあり、私が直接知る範囲でも、議員に性的関係を迫られた女性秘書は複数いる。少なくとも例外的なケースでは無い。

永田町に勤務するケン先生の感覚では、財務次官のセクハラも例外的なケースではなく、確かに「次官だから」槍玉に挙げられた可能性は否めないものの、それは直接的には「あのセクハラ野郎が次官とかあり得ない!」という義憤から起きたものと推察される。

訴えられた二人はともに「記憶に無い」を連発して、スルーしようとしているが、こうした対応がますます被害者を激高させると同時に、西欧諸国から「人権後進国」扱いされる原因となっている。

ただでさえ世界的に見ても女性の地位が「イスラム諸国並み」である日本では、女性が性犯罪の被害を申し出ることに非常に高いハードルがある。その最初のハードルを乗り越えて、被害を訴えているにもかかわらず、加害者側は「記憶に無い」「セクハラに相当することはしていない」などと弁解している。だがこれは、「オレ基準では、セクハラに相当しない」と言っているに過ぎない。

財務省「セクハラ被害者がいるなら名乗り出ろ!いなければオレ無罪」
自衛隊「(国会議員に向かって)この非国民が!」

セクハラやパワハラに対する国際基準は年々厳しくなっており、日本にも同様の水準が求められている。特に日本の場合、労働力不足から女性の動員が不可欠とされており、そのためには地位向上が必須と考えられる。これは、二つの世界大戦で国民の戦時動員が不可欠となった結果、政治的権利と社会保障制度の拡大が実現した経緯の延長線上にある。
にもかかわらず、中世並みの女性蔑視観を持った者が、省庁の次官や自治体の首長、あるいは国会議員を務め、その差別的感情を丸出しにした弁解が何の非難も無く報じられているのが、日本の現状なのだ。

必要な改革を実行できない国は滅びる原則から考えても、現行制度は遠からず敗滅する流れにある。

【追記】
「女性議員がひな壇に上って金切り声を上げるような抗議集会じゃ、広い支持は得られませんよ。普通に男性も参加して、ハラスメントの問題点を淡々と説く話にしないと、どこまでも自己満足の運動に終わってしまいますよ」と進言はしているのだが、こちらはこちらで深刻だ。
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2018年04月26日

「米内を斬れ!」の遠景を望む・下

前回の続き
日中戦争についてはもう二点ある。
あらゆる休戦工作が頓挫して日華事変が泥沼化する1938年末、海軍は重慶爆撃を提案する。これは、当時最先端の理論だったジュリオ・ドゥーエの戦略爆撃論に基づいたもので、都市に対する無差別爆撃によって首都住民をはじめとする国民の抗戦意思を挫く考え方だった。当時は「理論倒れ」と見る向きも強かったが、日本海軍が1935年に採用した九六式陸上攻撃機(中攻)の存在が実現可能にしていた。例えば、同作戦を主導した伯父上は、「われわれは海軍航空隊による重慶を初めとする中国奥地戦略要点の攻撃に重点を置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵であると確信している。この作戦は、日露戦争における日本海海戦にも匹敵するものであるとの認識のもとに、全力投球している」と述べている。
この重慶爆撃についても、陸軍は軍事的効果と外交的影響の両面から否定的で、遠藤三郎らの強い反対もあって途中から参加を拒否したほどだった。実際、重慶爆撃はむしろ国民政府に対する支持を強めただけでなく、連合軍による日本本土に対する無差別爆撃や原爆使用を正当化するネタにされてしまった。

もう一つは海南島上陸である。1939年2月、日本海軍は海南島に奇襲上陸を行い、以後6半年にわたって、海軍管理の軍政下に置いた。海南島は、南シナ海を隔ててフィリピン・ルソン島を1000キロ以内に収め、東の対岸は仏領インドシナという戦略的重要地点にあった。1000キロ以内というのは、上記の九六式中攻や零戦の攻撃範囲内であることを意味する。また、連合国による援蒋ルート(ハノイとビルマ)を遮断するためにも航空機の作戦距離内に飛行場をつくる必要があった。
それだけに、対米英戦を想定していた海軍軍令部はかねてより海南島攻略と基地設置を要望していたが、戦線拡大や米英仏への刺激を懸念した陸軍の反対もあって、先送りになっていた。これも当時の米内海相(平沼内閣)がゴーを出す形で、海軍が単独(陸軍的には勝手に)で作戦を強行するに至っている。海軍陸戦隊による治安戦(ゲリラ討伐)と慰安婦や奴隷化を強要した占領政策は、今日に至るまで日中間のトゲとなっている。
この海軍による海南島占領と、それに伴う39年3月の新南群島(南沙諸島)領有化宣言(高雄市編入)は、陸軍が危惧した通り連合国を硬化させ、米英仏による抗議を初め、米国では対日経済制裁論が高まって、くず鉄の事実上禁輸が実現した。そして、日本側は逆に「毒食らわば皿まで」とばかりに自ら南進論を規定してしまった。

これらの全てを海軍の責任に帰して、「日中戦争は海軍の陰謀だった」とするのは乱暴すぎるとは思うのだが、少なくとも阿南大臣のいまわの際に「米内を斬れ!」と言わせるには十分の状況証拠があったとは言えるだろう。
日中戦争以外にも二点ばかり「陸軍の怨恨」の根を紹介しておきたい。

一つはガダルカナルである。1942年8月のガダルカナル上陸は、米豪遮断作戦の一環として行われた。これは、元もと海軍側が要望した豪州上陸作戦に対して、陸軍が「日中戦争やってて、ビルマにも行かないとなのに、どこにそんな戦力あるの!」と逆ギレした結果、妥協の産物として「じゃあフィジーでいいよ(米豪分断作戦)」となった経緯から生まれたものだった。実際には、軍令部員も参謀本部員もガダルカナルがどこにあるかも知らず、イギリス製の地図で位置を確認するところから始まったとされる。この時も陸海の事前協議が不十分で、陸軍内には「海軍が勝手に上陸して飛行場を作ったのに、何で陸軍が守らないとならないんだ!」と叫ぶ者が少なくなかったという。
そして、陸軍側は、(一応は)継続的な補給について懸念を示したものの、海軍側は制海権と制空権を保証してきたため、「ノモンハンの生き残りでミッドウェーで使い潰す予定だった一木支隊ならまぁ良いか」と差し出したところ、上陸から数日で全滅してしまう。その後、陸軍は戦力を逐次投入する形で最終的には3万6千人を送るが、2万2千人以上を戦病死(大半は餓死と病死)させて撤退するところとなった。
陸軍的には、「海軍が当初の戦略通り、漸減作戦を実施した上で、マリアナで米海軍と一大決戦を行っていれば、ソロモンやニューギニアの悲劇は回避できた」という思いが強いのだ。

二つは、1944年10月のレイテ島である。フィリピン防衛については、もともと陸軍はルソン島を要塞化して米陸軍を引きずり込んでドロドロの持久戦を行う予定で、「(レイテを含む)その他の島は海軍が担当」と協定まで結んでいた。
だが、同時期に生起した台湾沖航空戦で海軍が過大な戦果(95%ウソ)を発表した結果、天皇を含めて「早期決戦を!」と国論が沸騰、敗北続きの参謀本部は抗しきれずに、現地軍(第14方面軍)の強い反対を押し切って、「レイテ決戦」に舵を切った。この際、昭和帝は「海軍が捷一号作戦を発動して、米太平洋艦隊に決戦を挑むというのに、陸軍はルソンに籠もるのか(何もしないのか)」旨を仰せられたという話もある。
これに対し、14方面軍の山下司令官は、台湾航空戦の戦果発表に懐疑的で、「制空権が無いままレイテ島に兵員、物資を送るのは殆ど不可能」と意見具申したものの、寺内南方総軍司令官が「元帥命令」を発してレイテ決戦を強要した。
なお、海軍は発表した台湾沖航空戦の戦果の大半が「誤認」であったことを確認した後も隠蔽し続け、10月20日に行われた陸海軍合同作戦会議においても陸軍に伝えないまま、「ルソンからレイテへ」が決定された。

結果、レイテ海戦では連合艦隊が壊滅、陸戦では米側上陸兵力20万人に対して戦死3500、日本陸軍が投入した兵力は8万4千人に対して戦病死7万9千人(軍司令官、師団長級も4人戦死)という歴史的大敗を喫した。
このレイテ決戦のためにルソン島から抽出した戦力を補うため、台湾の第十師団がルソンに、沖縄の第九師団が台湾に引き抜かれ、翌45年4月からの沖縄戦で兵力不足に陥るところとなった。

ガダルカナルとレイテの二カ所だけでも、「海軍の横暴」で陸軍兵士が十万人以上死んでいることが分かる。陸軍の作戦指導は大いに疑問だが、陸海軍の連携の酷さは想像を絶するものがあったのだ。
その海軍の代表者である米内が、したり顔で陸軍の責任と早期終戦を唱えていたのだから、阿南でなくとも少し視野の広いものなら「海軍にだけは言われたくない」と思うのは当然だったと言えよう。
同様に、今もって一般的には「海軍善玉論」が幅をきかせているが、相当懐疑的に検証し直す必要がある。
なお、昭和帝は戦後、
「陸軍、海軍、山下皆意見が違ふ。斯様な訳で山下も思切つて兵力を注ぎこめず、いやいや戦つてゐたし、又海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した。」

と回顧しているが(寺崎英成『昭和天皇独白録』)、まるで他人事である。

【参考】
『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』 笠原十九司 平凡社(2015)
「日中戦争の拡大と海軍」 手嶋泰伸 『年報・日本現代史』第22号所収(2017)
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2018年04月25日

「米内を斬れ!」の遠景を望む・上

終戦時の陸軍大臣だった阿南惟幾は、自決前に義弟の竹下正彦中佐と杯を交わしたが、その際に「米内を斬れ!」と口走ったとされる。その真意については、実際に耳にした者たちも解釈に戸惑ったようで、今日に至るまで定説はない。実際のところ、阿南は相当に酩酊していたようで、どこまでが本意だったのかは今では分かりようもない。最も一般的なところでは、「和平論の首魁で、陸軍を責め立てた米内に対する個人的感情」という解釈があるが、和平論者という点では東郷外相の方がより急進的だったはずだし、「聖断」に持ち込んだ鈴木総理の策士ぶりも槍玉に挙げて良さそうなものだ。

だが、最新の研究を踏まえてより広い視野で見た場合、異なるものが見えてくる。その最大の問題は、日中戦争の開戦責任である。
日中戦争の開戦責任は、1937年7月に盧溝橋事件で国府軍と戦端を開いた陸軍(特に牟田口)と、関東軍・朝鮮軍の支援派兵を決めた近衛内閣に帰せられるのが、まず一般的な解釈と言える(中国側の挑発もあるが)。
例えば、当時、参謀本部戦争指導課長だった河辺虎四郎の回顧に依れば、事件の第一報を受けて柴山兼四郎軍務課長(陸軍省)が「厄介なことが起こったな」と言ってきたのに対して、武藤章作戦課長(参謀本部)は「愉快なことが起こったね」と言っていたという。陸軍の中は慎重派と積極派に完全に二分されていた。
また、7月11日の夜、近衛首相は政界、財界、マスコミの重鎮を官邸に集め、挙国一致・国論統一に向けた協力を呼びかけるが、「官邸はお祭り騒ぎのように賑わって」(石射『外交官の一生』)という有様で、やる気満々だったことが分かる。ところが、この近衛は翌8月に訪ねてきた池田純久中佐に対して、「池田君とうとうやつたね。支那事変は軍の若い人たちの陰謀だ」と言ったというから、全く他人事で無責任だった(『陸軍葬送委員長』)。その池田は、戦争を決めたのは貴方ですよと返して、近衛を黙らせている。

だが、盧溝橋事件自体は、1937年7月17日に停戦協定が成立、その後も小規模の衝突を繰り返しつつ、「船津工作」による和平交渉が進められていた。それを潰したのは、海軍による第二次上海事変だった。
詳細は笠原十九司先生の『海軍の日中戦争』(平凡社)を読んでいただきたい(陰謀論に傾きすぎだが)。当時、日本海軍はロンドン条約の失効を経て大建造体制に入っていたが、対米戦の備えとして航空戦備の充実が課題となっていた。しかし、海軍予算は全て新艦建造に回されており、航空予算を確保するためには、小規模の戦争が起こることが望ましかった。仮に日中戦争が生起した場合、陸軍による対ソ戦を回避できると同時に、海軍は自らの艦艇の消耗を防ぎつつ、海軍航空隊の実験と練度向上を図ることが可能と考えられた。
結果、海軍は「大山事件」を利用して(自作自演の疑いがある)、上海で武力衝突を起こし、海軍陸戦隊を勝手に上陸させた上で、陸軍に救援を求めた。陸軍的には全く乗り気ではなかったのだが、当時上海には数万人からの在留邦人がいたこともあって、放置することはできず、二個師団からの上海派遣軍を編成、派兵したものの、上海を重要視した国民党軍は最大戦力を動員して対抗したため、戦力が不足、日本側も大動員したことや日中両軍が空爆を始めたこともあって、全面戦争に発展、船津工作も破綻した。

「上海居留民の保護」を名目に上陸したはずの上海派遣軍が、中国軍と全面交戦するところとなり、長期に渡る対峙状態に業を煮やした司令部が杭州湾上陸作戦を敢行したところ、「裏崩れ」によって中国軍は敗走したものの、今度は日本軍による追撃戦が始まってしまい、戦線拡大が止められなくなった。そして、停戦・休戦交渉が不調のまま南京攻略を行い、虐殺事件が生じたことで、ますます休戦する機会を失っていった。

上海事変後、海軍は大々的に渡洋爆撃を開始、9月に入ると漢口、広東、南昌へと爆撃対象を拡大させ、さらに中国沿岸の海上封鎖を宣言した。北京周辺と上海をめぐる地域紛争は中国全土における全面戦争へと発展していった。
首都の南京進撃が俎上に上がった際も、現地軍は繰り返し南京攻略の許可を参謀本部に求めるが、多田駿次長はこれを握り潰し、国民党政府のメンツが立つ形で講和に導く方針を有していた(トラウトマン工作)。11月24日には、大本営御前会議が開かれるも、近衛首相も米内海相も広田外相も多田の主張に耳を傾けず、12月1日には大陸命第八号を発して南京攻略を命じている。
さらに南京陥落後の翌38年1月15日午前には、大本営政府連絡会議が開かれ、陸軍の多田参謀次長と海軍の古賀軍令部次長が国力の限界から長期戦を戦うことの困難さを説明し、中国側との和平交渉の継続を主張した。ところが、近衛首相「速やかに和平交渉を打ち切り」、広田外相「支那側の応酬ぶりは和平解決に誠意なきこと明瞭」、杉山陸相「蒋介石を相手にせず、屈服するまで戦うべき」、米内海相「統帥部が外務大臣を信用しないのは政府不信任」などと声を揃えて反論され、立ち消えに終わり、近衛総理の「爾後国民党政府を対手とせず」声明に繋がった。
以下、続く
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2018年04月24日

公務員組合が反公務員党を支持する倒錯

【自治労が立憲民主党支持 中央委員会で運動方針決定】
 自治労は30日の中央委員会で当面の国政・地方選挙の運動方針を決めた。立憲民主党の綱領や基本政策が「自治労の政策、運動方針とおおむね一致すると評価できる」と明記し、同党支持の姿勢を鮮明にした。
 連合傘下の産別組織で立憲民主党への支持を明確化したのは初めて。今後、官公労系労組を中心に同様の動きが出そうだ。一方、民間労組には立憲民主党と距離を置く傾向もあり、来年夏の参院選は、連合が傘下産別ごとに支持政党が分かれる「股裂き状態」に陥る可能性がある。
 自治労の運動方針は、従来の「民進党を基軸」という表現を「立憲民主党、民進党を基軸」に改めた。希望の党に関しては「自治労の政策を理解する候補について支援する」との記述にとどめた。自治労出身の江崎孝参院議員は昨年末に民進党を離党し、立憲民主党に入党している。
(1月30日、産経新聞)

【立憲民主 参院比例で日教組候補の公認決定】
 立憲民主党は3日、来年夏の参院選比例代表について日教組の組織内候補で前職の水岡俊一氏(61)の公認を決定した。日教組が3月に公認申請していた。連合産別の組織内候補で立憲民主党による公認決定は、私鉄総連に続いて2例目。
(4月4日、産経新聞)

公務員の労働基本権を回復し、労働条件を交渉で決める仕組みを構築するとともに、職員団体などとの協議・合意を前提として、人件費削減を目指します。
(立憲民主党基本政策より)

「公務員人件費を削減する」と基本政策で述べているプチブル政党に公務員労組の最大手が率先して支持を表明するという倒錯。だからこそ、労働組合に対する信頼も醸成されなければ、プチブル政党はつけあがってますます新自由主義に傾倒することになり、誰にとってもプラスにならない状態。

ちなみに日本の労働監督公務員は、ドイツの3分の1から4分の1しかおらず、これをさらに減らして違法操業、長時間労働、賃金不払いなどの監督ができるはずもなく、「インターバル規制の導入も具体的に提案します」という基本政策も全く絵に描いた餅に過ぎないことが分かる。

戦わない労働組合も、プチブル政党も、もはや20世紀の遺物であり、遠からず時代に置いてゆかれるだろう。
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2018年04月23日

日本司法の権威主義性について

戦前の人民戦線事件、ゾルゲ事件、河合栄治郎事件、横浜事件などの政治裁判の記録をまとめた『日本政治裁判史録』をつらつらと見ていたら、次のような記述があった。
「「政治裁判史」の記録をずっと見ていると、全体にわたって必ず被告の改悛を求めているのが特徴でしょう。だから、日本の法廷は西洋の教会を兼ねているといいたいくらいです。説教するわけですよ、裁判官が。そして、そのとおりです、とざんげないし改悛すれば、起訴猶予になったり、あるいは罪一等を減じられるという。ですから、これは裁判官の法意識、司法手続、あるいは裁判における心証主義の問題と関係しているのですね。」
(『日本政治裁判史録 昭和・後』p.585、座談会における辻清明氏の発言)

確かに言われてみれば、政治裁判に限らず、一般の刑事事件でも裁判長が被告に人倫の道を説くような話は良く聞く。自分があまり縁の無い世界なだけに気に止めたことも無かったが、考えてみれば、裁判官が上段から被告に説教をたれるというのは、誠に奇怪な話で、およそデモクラシーやリベラリズムの原理にそぐわない。

デモクラシーは有権者間の平等性と権力の共有に正統性の基盤を置いている。それだけに、裁判官が上座から対等であるはずの被告に向かって「正しい道」を示すようなことは本来的には許されない。
また、リベラリズムは「Liberty」の本来の意味が「解放」であることから分かるとおり、「権威・権力からの自由」を志向する。結果として価値中立性や表現の自由が重要な意味を持つ。従って、リベラリズムの原則的には、裁判官が自らの権威を振りかざして「お前は間違っている、俺が言う正しさを認めて受け入れろ」などと曰うことは許されない。

先にケン先生が「放送における公平とは何か」で述べたように、電波使用の許認可権を有する政府が監督権を持つ上に、法律によって規定された「政治的公平性」の判断をも下すという日本型システムは、完全にリベラリズムの原則に反するものであることを指摘したが、私の周囲では賛同するものは稀で、自由主義を標榜するはずの立憲民主党ですら「放送法4条の撤廃は論外」と言う始末になっている。
つまり、戦後のGHQ改革によってデモクラシーのシステムとリベラリズムの概念が導入されて70年が経つわけだが、制度だけ導入してその理念の教育・啓蒙を怠ってきた結果、誰もデモクラシーやリベラリズムの原理を十分理解していない有様となっている。

話を司法に戻すと、何故こういうことになるのかについては、古代に起源を求めることができる。
古代ギリシアのアテナイでは、法廷はすでに行政組織とは別機関の民衆法廷として存在していた。制度化されたシステムの下で、原告は被告と対等な弁論を行い、それを承けて陪審員が二者択一の票決を行った。つまり、古代にあってリベラリズムの原則である権力分立が存在した。

これに対し、中国では古代より原告が行政機関に訴え、基本的には県組織が捜査、拘引、取り調べ、自供確認などを行い、訴えと捜査記録と法律を基に量刑と判決が下される。そこには権力分立の考え方は存在しない。
日本では、隋唐期に中国型の専制システムを取り入れたことから、長く同システムが受け継がれてきた。「大岡越前」をイメージするまでもなく、江戸期の「お白州」はその象徴だった。
ただ、興味深いことに、南北朝期に足利直義が室町幕府の行政部門と司法部門の分離を図る改革を進めたものの、「観応の擾乱」が生起して不十分に終わった。

戊申政変によって幕藩体制が倒れて明治政府が成立した後、統一日本は欧化政策を採用して、プロイセン型国家の建設を目指すところとなるが、全く伝統に無かった権力分立の考え方はどうにも理解できなかったらしく、1875年には司法省法廷から分離する形で大審院(現在の最高裁にあたる)が設置されたものの、その権力分立度は非常に低いものとなった。

大日本帝国の司法制度下では、検事は「裁判所検事局」の一員であり、判事と同格で、行政ではなく司法の一部を構成していた。法廷で法服を着る資格があったのは、検事と判事だった。当時、弁護士は公判においても、地べたに立たされて検事と裁判官を仰ぎ見る形で公判に臨んだ上、当然法服を着ることなど許されなかった。
そして、官吏の格付けとして検事総長は大審院長(最高裁長官)よりも「格上」とされていた。戦前期には「検事に非ずんば人にあらず」と言われたほど検事が圧倒的な権威を持っていた。
一方、大審院は、違憲立法審査権も司法行政権もなく、単なる上級審という位置づけで、司法権の独立は非常に限定的だった。そもそも、明治憲法の下ではあらゆる主権は天皇一人に帰属しており、運用上のみ分離するのは無理のある話だった。結果、大津事件のような例外はあるものの、基本的には司法と行政は「御上」として一体のもので、せいぜい「半個室」程度の扱いだった。

そのため、「権力を分散して互いの権力を監督させる」というリベラリズムの原則は働かず、明治司法は「御上」が「臣民」を教化・感化し、それに服さない場合は、懲罰を与えて服従を強要するという原理の上に成り立っていた。
これらは一度ポツダム宣言の受諾を承けて、GHQ改革によって否定されたはずだったが、帝政原理が否定されることなく、表面上のみのデモクラシーとリベラリズムの導入がなされた結果、戦後70年を経て権威主義がヴァンパイアのように復活しつつある。
posted by ケン at 13:09| Comment(0) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする