2018年04月04日

上海敵前上陸

P1250878.JPG
三好捷三 『上海敵前上陸』 図書出版社(1979)

他にあまり類を見ない、第二次上海事変に出征した下士官による戦場回顧録。
輸送船では切り干し大根のみ、上陸後は6日間補給無し、手渡された手榴弾と缶詰は日露戦争の残り物。上陸して10日後には、本人以外の分隊員は戦死傷などで全滅。伍長なのに一時は中隊長に(200人からの中隊が20人)。80日後、南京に向かって進撃する頃には、67kgあった体重が43kgになって野戦病院に収容、数ヶ月後、帰国除隊。

戦記物は小学生の頃から40年にわたって読み続けているが、日中戦争ネタは最近読み始めたばかりで、まだまだ気づかされることが多い。
日本軍の兵站軽視は十分に認識していたつもりだったが、日華事変勃発当初からロクに機能していなかったというのは驚かされる。筆者は、自分が直接戦闘を避けていたこともあるが、「次にいつ補給が来るか分からない」ことから弾薬を節約、要は小銃を撃たないように心がけ、上陸前に渡された200発の銃弾のうち、倒れて収容されるまでの80日間で使ったのは、わずか70発だったという。西南戦争の方がよほど撃っていただろう。

また、日本軍では白米を渡されて各自で自炊しなければならないため、上海戦のように2カ月間対峙が続くような状態に陥った場合、水を確保するためや炊事の火によって身を危険にさらすことになる。そのため、汚れた小川や池の水で、下手すると生米を水に漬けただけで食することになり、あっという間に赤痢が蔓延、コレラ、チフス、結核などの二次感染を引き起こし、戦う前に戦力を失ってしまう傾向があった。以下、参考。

日本軍歩兵は作戦時に20日分の食糧を携行するが、1日の白米配給量は6合(900グラム)であり、20日分で18kgになったという。これに対してドイツ軍歩兵は5食分を携行しただけだった。当時の日本人男性の標準体格が身長160cm強で体重60kg弱であったことを考えても、行軍時の負担は想像を絶するものがある。これは日本軍の兵站システムが脆弱であったことに起因する。一般的には近代的軍隊における戦闘部隊と兵站機能の割合は3対7から4対6であると言われ、赤軍はこれが5対5であったために1944年以降の対独反攻が何度も中断することになった。だが、日本軍に至っては、5対5以下の6対4に近いとされ、圧倒的に兵站機能が軽視された(現代の米軍は2対8に近づいているらしい)。日本軍の歩兵中隊の場合、戦闘員173名に対して後方支援要員はわずか7名に過ぎなかった。他方、ドイツ軍の1944年型歩兵中隊が、戦闘員115名に対して後方支援要員を53名も有していたことは、当時の日本軍人には想像もつかなかったに違いない。
しかも、日本軍で配給されたのは、現代的なレーションではなく、白米が直に支給され、兵士各自が自炊しなければならなかったため、戦場では炊飯時の煙が敵の砲爆撃を誘うことになり、水に漬けただけの米を食べざるを得ないなど極めて劣悪な環境におかれた。「勤務中に食事する時間など無いはずだ」という某ブラック社長の発言は旧軍の伝統を継承していると言える。また、日本軍には中隊レベルに靴や軍服を修理する機能が無く、靴や軍服の破損を直せずに裸足のままの兵が多数おり、劣悪な衛生環境が強いられ、破傷風や風土病に対して極めて脆弱だった。隊内で靴の盗難や強奪が頻発したことも良く知られている。大本営の拙劣な作戦指導も相まって、日本軍は戦没者の6割を占める140万人を餓死・戦病死させた。
野戦教範に見る日本のブラック性について


しかし、兵站の不備で大苦戦したにもかかわらず、杭州湾上陸という戦術的奇策によって中国軍を敗走、大勝した結果、この問題は全く顧みられることなく、終戦まで放置されるところとなった。なお、ゲーム的な表現を使うと、1937年7月に始まった日華事変・日中戦争は、1939年に入ると支那派遣軍の半分以上が補給不足となり、攻勢を中止、長期持久態勢に移行せざるを得なかった。
もともと、「上海居留民の保護」を名目に上陸したはずの上海派遣軍が、中国軍と全面交戦するところとなり、長期に渡る対峙状態に業を煮やした司令部が杭州湾上陸作戦を敢行したところ、「裏崩れ」によって中国軍は敗走したものの、今度は日本軍による追撃戦が始まってしまい、戦線拡大が止められなくなった側面もある。そして、停戦・休戦交渉が不調のまま南京攻略を行い、虐殺事件が生じたことで、ますます休戦する機会を失っていった。

著者は、九大出の民間エリートだったが、徴兵検査で「甲」と判定されてしまう。徴兵を回避するために、一年志願制度を利用して幹部候補過程に進むが、どうしても軍隊の権威主義になじめず、反抗的態度を繰り返し、将校認定されずに下士官に止められている。この辺りの事情が、いかにも大正リベラリズムと昭和ミリタリズムの相克を象徴しており、非常に興味深い。昭和一桁期は、まだまだ「軍隊何するものぞ」の空気が残っていたことが分かる。
ケン先生の祖父は大正一桁生まれだったが、大正リベラルの洗礼に浴したため、かなり現代人に近いリベラル感覚を持っていたが、その下の世代になると、初中等教育が軍国主義に染められてしまい、感覚的に別物の存在になっているようだ。
手元に置いておきたい一冊である

【追記】
マニアックなところでは、著者の部隊が「西住戦車隊」に窮地を救われるシーンがあり、分かる人は「軍神キターッ!」となるかもしれない。
posted by ケン at 12:27| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする