2018年04月26日

「米内を斬れ!」の遠景を望む・下

前回の続き
日中戦争についてはもう二点ある。
あらゆる休戦工作が頓挫して日華事変が泥沼化する1938年末、海軍は重慶爆撃を提案する。これは、当時最先端の理論だったジュリオ・ドゥーエの戦略爆撃論に基づいたもので、都市に対する無差別爆撃によって首都住民をはじめとする国民の抗戦意思を挫く考え方だった。当時は「理論倒れ」と見る向きも強かったが、日本海軍が1935年に採用した九六式陸上攻撃機(中攻)の存在が実現可能にしていた。例えば、同作戦を主導した伯父上は、「われわれは海軍航空隊による重慶を初めとする中国奥地戦略要点の攻撃に重点を置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵であると確信している。この作戦は、日露戦争における日本海海戦にも匹敵するものであるとの認識のもとに、全力投球している」と述べている。
この重慶爆撃についても、陸軍は軍事的効果と外交的影響の両面から否定的で、遠藤三郎らの強い反対もあって途中から参加を拒否したほどだった。実際、重慶爆撃はむしろ国民政府に対する支持を強めただけでなく、連合軍による日本本土に対する無差別爆撃や原爆使用を正当化するネタにされてしまった。

もう一つは海南島上陸である。1939年2月、日本海軍は海南島に奇襲上陸を行い、以後6半年にわたって、海軍管理の軍政下に置いた。海南島は、南シナ海を隔ててフィリピン・ルソン島を1000キロ以内に収め、東の対岸は仏領インドシナという戦略的重要地点にあった。1000キロ以内というのは、上記の九六式中攻や零戦の攻撃範囲内であることを意味する。また、連合国による援蒋ルート(ハノイとビルマ)を遮断するためにも航空機の作戦距離内に飛行場をつくる必要があった。
それだけに、対米英戦を想定していた海軍軍令部はかねてより海南島攻略と基地設置を要望していたが、戦線拡大や米英仏への刺激を懸念した陸軍の反対もあって、先送りになっていた。これも当時の米内海相(平沼内閣)がゴーを出す形で、海軍が単独(陸軍的には勝手に)で作戦を強行するに至っている。海軍陸戦隊による治安戦(ゲリラ討伐)と慰安婦や奴隷化を強要した占領政策は、今日に至るまで日中間のトゲとなっている。
この海軍による海南島占領と、それに伴う39年3月の新南群島(南沙諸島)領有化宣言(高雄市編入)は、陸軍が危惧した通り連合国を硬化させ、米英仏による抗議を初め、米国では対日経済制裁論が高まって、くず鉄の事実上禁輸が実現した。そして、日本側は逆に「毒食らわば皿まで」とばかりに自ら南進論を規定してしまった。

これらの全てを海軍の責任に帰して、「日中戦争は海軍の陰謀だった」とするのは乱暴すぎるとは思うのだが、少なくとも阿南大臣のいまわの際に「米内を斬れ!」と言わせるには十分の状況証拠があったとは言えるだろう。
日中戦争以外にも二点ばかり「陸軍の怨恨」の根を紹介しておきたい。

一つはガダルカナルである。1942年8月のガダルカナル上陸は、米豪遮断作戦の一環として行われた。これは、元もと海軍側が要望した豪州上陸作戦に対して、陸軍が「日中戦争やってて、ビルマにも行かないとなのに、どこにそんな戦力あるの!」と逆ギレした結果、妥協の産物として「じゃあフィジーでいいよ(米豪分断作戦)」となった経緯から生まれたものだった。実際には、軍令部員も参謀本部員もガダルカナルがどこにあるかも知らず、イギリス製の地図で位置を確認するところから始まったとされる。この時も陸海の事前協議が不十分で、陸軍内には「海軍が勝手に上陸して飛行場を作ったのに、何で陸軍が守らないとならないんだ!」と叫ぶ者が少なくなかったという。
そして、陸軍側は、(一応は)継続的な補給について懸念を示したものの、海軍側は制海権と制空権を保証してきたため、「ノモンハンの生き残りでミッドウェーで使い潰す予定だった一木支隊ならまぁ良いか」と差し出したところ、上陸から数日で全滅してしまう。その後、陸軍は戦力を逐次投入する形で最終的には3万6千人を送るが、2万2千人以上を戦病死(大半は餓死と病死)させて撤退するところとなった。
陸軍的には、「海軍が当初の戦略通り、漸減作戦を実施した上で、マリアナで米海軍と一大決戦を行っていれば、ソロモンやニューギニアの悲劇は回避できた」という思いが強いのだ。

二つは、1944年10月のレイテ島である。フィリピン防衛については、もともと陸軍はルソン島を要塞化して米陸軍を引きずり込んでドロドロの持久戦を行う予定で、「(レイテを含む)その他の島は海軍が担当」と協定まで結んでいた。
だが、同時期に生起した台湾沖航空戦で海軍が過大な戦果(95%ウソ)を発表した結果、天皇を含めて「早期決戦を!」と国論が沸騰、敗北続きの参謀本部は抗しきれずに、現地軍(第14方面軍)の強い反対を押し切って、「レイテ決戦」に舵を切った。この際、昭和帝は「海軍が捷一号作戦を発動して、米太平洋艦隊に決戦を挑むというのに、陸軍はルソンに籠もるのか(何もしないのか)」旨を仰せられたという話もある。
これに対し、14方面軍の山下司令官は、台湾航空戦の戦果発表に懐疑的で、「制空権が無いままレイテ島に兵員、物資を送るのは殆ど不可能」と意見具申したものの、寺内南方総軍司令官が「元帥命令」を発してレイテ決戦を強要した。
なお、海軍は発表した台湾沖航空戦の戦果の大半が「誤認」であったことを確認した後も隠蔽し続け、10月20日に行われた陸海軍合同作戦会議においても陸軍に伝えないまま、「ルソンからレイテへ」が決定された。

結果、レイテ海戦では連合艦隊が壊滅、陸戦では米側上陸兵力20万人に対して戦死3500、日本陸軍が投入した兵力は8万4千人に対して戦病死7万9千人(軍司令官、師団長級も4人戦死)という歴史的大敗を喫した。
このレイテ決戦のためにルソン島から抽出した戦力を補うため、台湾の第十師団がルソンに、沖縄の第九師団が台湾に引き抜かれ、翌45年4月からの沖縄戦で兵力不足に陥るところとなった。

ガダルカナルとレイテの二カ所だけでも、「海軍の横暴」で陸軍兵士が十万人以上死んでいることが分かる。陸軍の作戦指導は大いに疑問だが、陸海軍の連携の酷さは想像を絶するものがあったのだ。
その海軍の代表者である米内が、したり顔で陸軍の責任と早期終戦を唱えていたのだから、阿南でなくとも少し視野の広いものなら「海軍にだけは言われたくない」と思うのは当然だったと言えよう。
同様に、今もって一般的には「海軍善玉論」が幅をきかせているが、相当懐疑的に検証し直す必要がある。
なお、昭和帝は戦後、
「陸軍、海軍、山下皆意見が違ふ。斯様な訳で山下も思切つて兵力を注ぎこめず、いやいや戦つてゐたし、又海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した。」

と回顧しているが(寺崎英成『昭和天皇独白録』)、まるで他人事である。

【参考】
『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』 笠原十九司 平凡社(2015)
「日中戦争の拡大と海軍」 手嶋泰伸 『年報・日本現代史』第22号所収(2017)
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする