2018年05月29日

モラルハザード進む日本

【<狛江市>セクハラ疑惑 副市長「あった」に市長「ない」】
 東京都狛江市の高橋都彦(くにひこ)市長(66)が複数の職員にセクハラ行為をした疑惑があり、水野穣(みのる)副市長は21日、2人へのセクハラが確認されたとの調査結果を発表し、市長に辞職を迫ったことを明らかにした。これに対し、高橋市長も記者会見してセクハラを否定。調査への疑念をあらわにし、真っ向から対立する異例の事態となっている。
 疑惑は共産党市議が3月1日の市議会で質問して表面化した。情報公開請求で入手したセクハラ相談に関する内部文書の「口をつけたコップで何度も飲むことを強要」されたなどの記述を基に、黒塗りで伏せられた加害者を「市長ではないか」と繰り返し追及。市長は「心当たりがない」と否定してきた。
 一方、市幹部が文書の作成者と女性職員の計4人に聞き取りを実施。水野副市長によると、女性職員の一人は否定したが、2人は被害に遭ったと証言した。2014年4月〜16年3月に「車の中で手を触られた」「腰に手を回された」との内容が確認できたという。
 この調査結果は市長と市幹部が18日に開いた臨時庁議で報告された。水野副市長が公表した議事録などによると、副市長は「立場を利用して卑劣な行為を行ったにもかかわらず、身に覚えがないと言い逃れ、職員や市政に及ぼした影響は計り知れない」と批判。石森準一参与も「あなたがその地位にいる限り、市は残念ながら、一歩も前に進めない」と市長に辞職を迫った。
 一方、高橋市長は21日の会見で「セクハラをしたという認識は持っていない」と重ねて否定。調査に関しても「目的から外れ、辞職を迫る内容になっている。圧迫面接のような調査が行われた。聞かれた側が正直に話したか疑念がある」と反発した。進退については「今は白紙の状態」と述べ、「支持者の意見を聞きながら対処の仕方を考えていきたい」と語った。
 高橋市長は東京都交通局総務部長、産業労働局理事などを歴任し、12年6月の狛江市長選に出馬して初当選。現在2期目。一方、水野副市長は市職員の生え抜き。
(5月21日、毎日新聞)

「狛江市に見る地方自治の衰退」の続編だが、異なる視点で考えたい。なお、高橋市長は23日の記者会見で辞任を表明している。
セクハラ事件では、前の財務次官も辞任こそしたものの、今もって行為自体は否定し続け、政府自体も「セクハラ罪という罪は存在しない」という愚にも付かない閣議決定をしている。これらは、国を挙げて権力者による性的非道を庇い、性的非道から市民の人権や尊厳を守るつもりがない姿勢を示している。

最近話題になっている日大アメフト部事件でも、監督が部員に試合出場の条件として「相手(プレイヤー)をぶっ壊してこい」と指示したにもかかわらず、発言を否定すると同時に、「部員が指示の理解を誤った」などと部員に責任転嫁する姿勢を示している。

これらに共通するのは、「性的嫌がらせ程度で告発するとはケシカラン」「監督に服従しない部員はケシカラン」という権威主義であり、同時に「権力者は何をしても罪に問われない」という権力者無答責の原則である。
中国では、政治局員で重慶市長だった薄熙来氏が、収賄と横領罪で無期懲役に処されたたことを思えば(権力闘争の側面はあるにせよ)、国家倫理の上でも日本の堕落と中国の向上が顕著になっている。

特に日本の場合、総理大臣自ら森友・加計などの疑惑を全否定し、質問に対しては正面から答えずに、延々と無関係の話をして審議時間を潰すという行為を繰り返しているため、地方自治体だろうが、民間企業だろうが、大学であろうが、ありとあらゆる組織のトップがマネをし始めている。
中国の場合、儒教を導入して以来、皇帝がモラルの範を示すことが権力の正統性を保持する重要な要素となってきた歴史がある。これに対して日本は、儒教は導入したものの、学問としてのみであり、文化や慣習の点では殆ど普及しなかったため、権力者が高い倫理観を持たねばならない理論的根拠が存在しなかった。「権力者は何をしても許される」という文化は、中国よりもモンゴルのそれに近い。

例えば、清の雍正帝は、自らの居室の入口に「為君難(君主たるは困難である)」「原以一人治天下(天下が治まるか治まらぬかは朕一人の責任である)」「不以天下奉一人(天下は朕のために存在するのでは無い)」の三つの額を掲げ、入室するたびに読み上げたという。こうした感覚は、日本の権力者には存在しないだろう。
安倍氏や麻生氏が、無自覚に保身のために責任転嫁と不快な言動を繰り返せば繰り返すほど、他の権力者たちも「あれが許されるなら俺も」と考えるのが道理であり、悪貨が良貨を駆逐する流れにある。

欧米の場合は、権力を分立させることで、仮に行政府が腐敗しても、議会の追及や司法の捜査によって正すことが可能だ(想定している)。しかし、日本の場合、権力分立の意義を理解しないまま制度だけ導入した結果、江戸期同様に行政府に権限が集中し、司法や立法府が従属する形になっている。特に戦後60年にわたって自民党が政権党の座にあり続けた結果、一党独裁と同様に、立法府と行政府が一体化して、ともに腐敗する状況が生じている。

さらに、戦後恐らく意図的に、デモクラシーやリベラリズムに基づいた主権者教育を国民に施してこなかったことと、教員組合も一体となって目上に絶対服従することを善とする権威主義教育を行ってきたことが、市民の主権者意識を育てず、権力者に反論したり、反対したりすることを悪とする倫理観(奴隷根性)を植え付けてしまった。その結果、市民レベルでの自浄能力が働かず、「ベルリンの壁崩壊」に象徴される民主化運動すら期待できない状況が現出している。

こう言うと、「田中角栄や小沢一郎も腐敗していた」と言われそうだが、江戸期で贈賄が最も激しかった田沼意次時代が懐古されるのは、圧倒的な好景気に依拠していたためで、田中角栄の手法も同様だった。つまり、景気の良いときは腐敗が目立たなくなるが、景気が悪化した時は、権力者の腐敗は正統性に対する懐疑となり、不景気が故に腐敗による蓄財が横行、負のスパイラルに陥ってゆく。
日本はすでにポイントオブノーリターンを越えたのである。

【追記】
昨今、日本と北朝鮮の近似性を指摘する向きが強い。いずれも戦中期の国体を模してつくられているからだ。「(国体護持のために)あと2千万の日本男児を特攻させれば、必ず勝ちます!」という大西軍令部次長の狂気は、金王朝から日大アメフト部まであまねく浸透している。
posted by ケン at 12:42| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする