2018年07月22日

東京五輪は打ち水でヲモテナシ

【真夏の東京五輪、暑さ対策に打ち水など検討へ】
 国土交通省は、真夏に開催される2020年東京五輪・パラリンピックの期間中、道路への打ち水など伝統的な「暑さ対策」を行う。17日にマラソン元五輪代表の瀬古利彦氏らによる有識者会議の初会合を開き、「道路のおもてなし」の具体策の検討を始める。東京五輪・パラリンピックは20年7月下旬から9月上旬に開催される。道路を利用する競技は、マラソンや競歩、自転車競技などがあり、選手や観客の熱中症予防策が重要となる。有識者会議は、打ち水のほか、浴衣、よしずの活用など日本ならではの対策を盛り込み、観光PRにも生かしたい考えだ。外国人観光客に快適に過ごしてもらうため、路上でオープンカフェを開きやすいよう規制を緩和することや、案内標識のデザインの見直しなども検討する。さらに、赤外線を反射する遮熱材を路面に施して温度を上がりにくくする舗装技術などの効果を検証する。 
(2015年4月17日、読売新聞)

3年前の記事ではあるが、この「始まる前から負けている」既視感たるやどうだろう。
内申書を盾に強制動員された中高生の「ボランティア」が、炎天下40度(アスファルトの上では50度前後)の下で打ち水を行い、バタバタと倒れて行く絵しか思い浮かばない。果たして彼らは、靖国神社に祀られるのであろうか。

この記事で思い出すのは、「竹槍でB29」もあるが、やはりインパール作戦である。
最初から直線距離で400km近く離れ、その間にある大河、密林、2000m級の山を越え、インド領内に侵攻する計画だが、補給計画の見込みはハナから立っていなかった。牟田口司令官は、「日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食料に困るなどというのは、ありえないことだ」と述べ、ジャングルに生えている野草を食用にする研究を命じただけだった。最終的には、ビルマ領内で強制徴発した牛などの家畜に物資を載せて進軍し、その家畜を食用にする「計画」となったが、現実には大半が河に溺れ、山から落ち、空爆の攻撃にさらされてほぼ全滅、作戦開始から一カ月も経たないうちに食糧に事欠くところとなった。

そもそも作戦計画は、3週間の攻勢を前提に立てられたにもかかわらず、1944年3月8日の開始から3カ月が経とうという5月末まで攻勢が継続されていた。いわゆる「抗命」「独断退却」事件が起きたのはこの時で、第31師団の佐藤幸徳師団長は「軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす」と宣言した。
当初の構想は、「先制攻撃を加えて英軍の予備戦力を漸減することで、当面の攻勢意思を挫く」というものであり、占領地を保持するという話では無かった。その目的は不十分ながらも攻勢開始一カ月で達成していたはずだったが、「達成不十分」「このまま占領地を保持できる」と判断してしまった結果、補給不足のまま雨期を迎えてしまい、英軍の反転攻勢を受けて最悪の状況の中で破断界に達した。第15軍司令部が作戦中止を決定したのは、そこからさらに一カ月後の7月3日のことだった。

あれから70年余を経て、再び国家は国民の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつある。それは明治帝政の本質でもあるのだ。
posted by ケン at 00:00| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月20日

国際情勢を見る視点

第一流の知性とは、二つの相反する考え方を同時に抱きながら、なおかつ思考を機能させる能力を持つことである。(スコット・フィッツジェラルド)

原文:The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in mind at the same time and still retain the ability to function.

冷戦研究の泰斗であるジョン・ギャディス先生が紹介されていたのを読み、「我が意を得たり」と思った次第。

つい先日、大手紙でデスクを務める後輩が「ロシアに自由はあるか」という上から目線の記事を書いているのを見て、「やっちまったな」「よい子ちゃんにも困ったものだ」と思っていたところだっただけに、改めて自らの中に知性を構築すること、政治や歴史を公正な視点から分析することの重要性を確認させられた。
その記事は、はなから自由を人類固有の権利である善として扱い、現代ロシアにどこまでの自由が存在するのか、あるいは認められているのかを問うコンセプトの上に成り立っていた。しかし、このスタンスに立った場合、「ロシアには自由が無い」「プーチン政権が市民を弾圧」という記事にしかならず、大半のロシア人からすると、「それが何か?」という反応になってしまい、どこまでも西側知識人の自己満足に終わりかねない。
この視点は、ちょうどソ連期における「ハンガリー動乱」「プラハの春」「アフガニスタン介入」などに対する西側知識人の感情的(脊髄反射的)反応に見られた、「悪の帝国であるソ連が、小国の民族自決を踏みにじって弾圧した」に酷似している。
これに対し、本ブログでは、全体主義研究の最前線から現実に起きた事象を再構築して記事にする試みを続けているが、いまだに一つの反論も無い。

・「プラハの春」とカーダールの苦悩
 
・ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程 
・ポーランド危機をめぐる経済情勢 

これらに共通するのは、全体主義を悪とせず、同時に自由主義を善とせず、二つのイデオロギーを並立させつつ、価値判断を挟むことなく、事象を分析するスタンスである。仮に、ケン先生がチェコスロヴァキアの改革派やポーランドの連帯に強いシンパシーを抱き、共産党を敵視するスタンスを採っていたら、既存の読み物と何ら変わらない記事になっていただろう。

自国・日本の安全保障問題についても、ケン先生自身は左派・リベラル派に身を置きつつも、記事を書くにあたっては、可能な限り、タカ派・介入主義・改憲派とハト派・宥和主義・護憲派の二つの論理や価値観を並立させつつ、「何故これが議論になっているのか」を問うスタンスを堅持するよう努めてきた。

・集団的自衛権容認の閣議決定を受けて 
・同盟のジレンマと非対称性 
・自民党は本音で安保を語るべき 

歴史検証に際しても、例えば私は幕臣の末裔にして佐幕派ではあるが、近代と前近代の価値観を並立させつつ論じるよう心がけている。幕末や明治維新を論じる場合も、近代原理や統一国家(明治帝政)を絶対善とするスタンスからは本質を見落としてしまうだろう。

・西南戦争の原因を考える 
・長州人から見た明治維新150周年 
・幕末のインフレーション 

現代の北朝鮮や中国を論じるにしても、「大量殺戮と飢餓輸出によって核開発を進める悪の帝国」とか「言論を弾圧し、表現の自由を認めない独裁国家」といった視点だけで見ると、見えない部分ばかりが増えてしまう。

例えば、中国の場合、卑近な例を挙げるなら、今回の私の就職は一教授の推挙で決まり、旅券の更新に必要な書類を事務方に求めたところ、その日のうちにPDFで送られてきた。これは、中国の大学組織において教授の権限が大きい一方、事務レベルの内容のものは事務レベルで決済できることを示している。これが日本の大学であれば、採用選考には数ヶ月を擁し、私が求めた書類の用意には1〜2週間はかかったはずだ。このことは、日本の組織が中央集権化しすぎて、末端の自由裁量が失われ、組織が重くなりすぎている一方、中国の組織は末端の自由裁量が大きく、迅速な意思決定を下せるシステムになっていることを示している。少なくとも、中国における経済的自由は、日本よりもはるか前に行ってしまっていると言えるくらいなのだ。これは、自由の定義を「政治的自由」に限定してしまう西側知識人の視野狭窄を示している。

ジェンダーの自由を見た場合、確かに中国ではLGBT運動は弾圧されているが、民間企業における女性管理職の比率は35%にも達しており、日本の7%(別の統計では12%)を大きく上回っている。幹部職員の93%が男性という日本企業に、自由があるとは言えないだろう。

あらゆる組織における上下関係でも同じことが言える。中国には共産党という絶対的な権威がある一方で、その他の組織内における上下関係は非常に緩く、部下の上司に対する物言いなども容赦が無いケースが多く、日本人的には「儒教国だよね」と言いたくなってしまう。しかし、そこは逆で、もともと公の概念が弱く、同時に上下関係が希薄だからこそ、「礼」の価値が称揚されたと見るべきなのだ。
他方、日本では現代に至るまで、部活動で「相手をぶっ壊してこい」と監督に命令されて、その指示に唯々諾々と従ってしまった挙げ句、監督は「指示が正しく認識されていなかった」と弁解して許されてしまう社会になっている。頂点に立つ支配者のみがあらゆるルールや罰則から「自由」で、被支配者は絶対的な従属下に置かれてあらゆる自由が奪われている。

国際情勢を見極めるためには、一つの価値観を絶対視すること無く、複数の異なる価値観を併走させて考える必要がある。同時に、ある事象はそれが発生するに至る原因と経緯があることを踏まえ、日頃から歴史研究の基礎を抑えておく必要がある。
posted by ケン at 12:51| Comment(3) | ロシア、中国、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月19日

自由貿易体制を盲信する日本政府

【自由貿易体制への挑戦=米保護主義を懸念―通商白書】
 世耕弘成経済産業相は10日の閣議に、2018年版の通商白書を報告した。「グローバル経済は、世界貿易機関(WTO)に基づく自由貿易体制に対する挑戦など(を受け)、大きな転換点にある」として、名指しを避けつつも保護主義的なトランプ米政権の貿易政策に懸念を表明。中国とのハイテク摩擦にも触れ、「自由で公正な高いレベルの通商ルールの構築の重要性が高まっている」と訴えた。白書は、安全保障上の脅威を理由に米国が発動した鉄鋼・アルミニウムの輸入制限措置について「日本製品は米国の安全保障に悪影響を与えず、米国の産業や雇用に貢献している」と反論、全面的な適用除外を求めていると説明した。 
(7月10日、時事通信)

政府の説明では、「安倍総理がトランプ大統領に対して懇切丁寧に自由貿易の重要性を説いてご理解いただく」とのことだったが、アメリカはますます保護貿易に突き進んでいる。そもそもトランプ大統領は、オバマ・クリントンのグローバリズム・覇権派に対するアンチテーゼを掲げて当選した経緯があるだけに、自由貿易支持に転じた場合、自らの正統性を失うことになる。国内の反グローバリズム勢力から支持を得ているからこそ、トランプ氏は大統領の権威を保持できるのであって、彼らからの支持を失えば、レームダックと化すだろう。事実、トランプ氏の保護貿易政策は国内から一定の支持を得ているが、ウォールストリートの支配下にあるアメリカの報道陣は批判的な視点からの記事しか書かないため、なかなか実像が伝わらない。

これまでリベラル・デモクラシーによる国際秩序が保たれていたのは、そのイデオロギーが優越していたからでは無く、西側陣営の軍事力が世界を圧倒していたからであり、その中心にいたのがアメリカだった。自由貿易体制を護持するためには、アメリカ(米帝)による覇権が不可欠なのだが、アメリカはその覇権が維持できなくなりつつある。覇権を維持するためには、他を圧倒する経済力と軍事力が必要だが、米中の経済力は拮抗しつつある一方、アメリカはその軍事力が維持できなくなっている。

同時に、自由貿易は、その交渉力の差から経済力の大きい国あるいは人が一方的に有利になるシステムであるため、貧困と経済格差を拡大させる効果があり、その矛盾は大国ほど深刻になる。
例えば、日本でも農業や漁業が産業として成立しがたいのは、価格の交渉単位が農漁業者が個人あるいは組合であるのに対して、食糧メジャーは国内に数社しかない大企業であり、自由交渉では圧倒的な不平等が生じているためだ。これは、世界レベルでも言えることで、西側自由貿易体制は、圧倒的な資金力を持ち、アメリカの軍事力を担保にしている資源メジャーが、旧植民地・第三世界から資源や労働力を不当に安く買い叩き、高い付加価値を付けて売りつけることで膨大な利潤を得ることによって成立していた。だが、中間国が工業化を遂げ、経済発展したことで、労働賃金や資源価格が相対的に上昇していった。同時に資金供給が常に過剰となり、利息が低下を続け、いまやマイナス金利すら当たり前となっている。そのため、先進国では利潤を上げ続けるためには、国内で労働力や資本を収奪するほかなくなっている。

アメリカの場合、資源価格の高騰を受けて、労働コストを削減するために工場を海外に移転させたことによって国内の疲弊が始まり、利潤低下を受けて国民を借金漬けにする政策が採られ、金融バブルと低所得層に対する住宅販売を組み合わせたサブプライム・ローン問題を引き起こした。結果、アメリカのある経済サイトの調査では市民8人のうち3人が破産寸前まで借金しているという。
資本主義と自由貿易は、必ず内部矛盾を抱え、その矛盾は解決する術が無く肥大化、崩壊して行くというマルクスの予言は150年以上の時を経て的中しつつある。

2017年の米中貿易におけるアメリカ側の赤字額は7962億ドル(約86兆8千億円)に上り、過去最高を更新している。「もはや自由貿易はアメリカにとって不利なシステムである」というのが、トランプ氏と支持者の認識であり、アメリカの多数派を占めている。だが、日中貿易もまた、2012年から16年まで5年連続で赤字が続いており、2017年には均衡を取り戻したものの、先行きは暗いだろう。少なくとも、日本にとって「日中間の自由貿易は絶対的に日本に有利である」とは言えなくなりつつある。
技術的優位を失いつつあると同時に、資源調達でも割高になっている日本は、輸出上の優位を失いつつある。その日本がこの期に及んで自由貿易を主張し続ければ、いざ不利になった時に看板を下ろしづらくなるだろう。
同時に、自由貿易と自由市場が国内の貧困や経済格差を助長している。政府呼称「働き方改革」は、労働規制の大幅緩和=自由化を意味するが、これも貧困と格差を助長するものでしかない。これが放置された場合、マルクスの予言が、日本でも実現する日は遠くなさそうだ。

自由が人を幸福にする時代は終わったのである。
posted by ケン at 14:35| Comment(2) | 労働、経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月18日

嫌がらせで内閣不信任案?

【<衆院議運委>首相海外出張了承せず 野党が反対】
 衆院議院運営委員会は6日の理事会で、政府が求めた安倍晋三首相の欧州などへの出張を了承しなかった。主要野党が、首相が出席する予算委員会集中審議を開催すべきだなどとして反対した。国会開会中の首相や閣僚の海外出張は議運委の許可を得るのが慣例だが、拘束力はない。首相の出張が了承されなかったのは5年ぶり。
 首相は11〜18日にベルギー、フランスなど4カ国を訪問する予定。ブリュッセルでは日本と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)に署名し、フランスではマクロン大統領と会談する予定だ。
 これに対し、立憲民主党の福山哲郎幹事長は6日の党会合で「これほど目的のはっきりしない(首相の)外遊を認めるわけにはいかない」と批判した。同党は首相出発前日の10日の内閣不信任決議案提出を検討している。
 一方、公明党の井上義久幹事長は記者会見で「首相を海外に行かせないため、国会審議を延ばすための不信任案が出されれば粛々と処理する」と述べ、けん制した。
(7月6日、毎日新聞)

【批判を懸念、異例の外遊中止 官邸は最後まで実現模索】
 西日本を中心とする豪雨被害を受け、安倍晋三首相の欧州・中東訪問が中止になった。首相官邸は最後まで実現を模索したが、大きな被害が出るなか初日の対応を疑問視する声も出た。「(外遊に)大きな案件はない。災害対応に万全を期すべきだ」(野党幹部)と高まる批判を懸念した。
 首相は11日に日本を出発し、ベルギーで欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)の署名式、フランスで日本文化を紹介するイベントの開会式などに出席する予定だった。その後、サウジアラビア、エジプトを18日まで歴訪。サウジでは、将来のエネルギーの安定確保を目的に関係強化を進めるはずだった。
 菅義偉官房長官は9日午後の記者会見で「災害対応に万全を期すため」と述べ、首相の外遊の取りやめを発表した。EPA署名式については、安倍首相が9日夕にユンケル欧州委員長と電話で協議し、17日に東京で開催する方向になった。
 計画された首相の外遊が全面的に中止になるのは異例だ。安倍首相は、昨年7月の九州北部の豪雨災害や13年1月のアルジェリア人質事件の発生で、外遊を途中で切り上げたことがある。自民党幹部によれば今回も欧州のみに短縮する案などが検討されたが、最終的に中止に踏み切った。
(7月9日、朝日新聞)

最終的に官邸側が先手を打って外遊中止を決断、野党の陰謀は不発に終わったが、改めて評価してみたい。

戦術的には有効でも戦略的には最低な結果をもたらしかねないパターン。最も典型的なところでは、軍事的成果は挙げたものの、米国民を戦争支持で団結させ、国際的非難を浴びることになった真珠湾強襲が挙げられる。

仮に野党が総理の訪欧を阻止できたとしても、それは野党が「オレはやったぜ!」と快哉を上げるだけの話に過ぎず、外遊を準備してきた国家的コストや急遽中止になってしまった訪問先の損失、訪問先の国の評価減など失うものが非常に大きく、当然ながら政権党側は野党の責任を追及、マスゴミも追随するだろう。
安倍外交が「外国を回ってカネを配るだけ」という側面が強いのは確かだが、例えば中国などはその点だけでも高く評価して脅威を覚えているのだから、全く評価できないわけでもない。

真珠湾攻撃もそうだが、行動経済学的には、目に見える効果は現実に得られる利益よりも高く評価される傾向があり、逆に目に見えないリスクやデメリットは現実に被る損失よりも低く評価されることが分かっている。
地方で財政事情を鑑みずに大型の箱物が続々と立てられるのも同じ論理で説明できる。

今回の立憲の対応は「首相の外遊を阻止する」という目に見える効果を過剰に高く評価する一方、「首相外交を妨害した」と非難されるリスクを非常に低く見たことに端を発していると推測される。
最終的には、「彼らに政権運営は任せられない」という評価に落ち着くだろう。
posted by ケン at 12:50| Comment(0) | 政局ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月17日

被告を殺す原理あるいは社会を生かす原理・続

7人の死刑囚が同時に執行された。これは共同犯行の場合は刑執行も同時に行う慣例に基づいているが、共犯者の全てでは無く約半分だけ先行という点で、慣例から外れているとも言える。
本ブログは、まもなく「激闘永田町編」を終えるので、この機会にもう一度死刑に対するスタンスを明確にしておきたい。ただ、基本的なスタンスに変化は無いので、主に過去ログから引用する。

死刑制度は、本質的に統治原理と司法制度の不公正の上に成り立っている。例えば、日本における殺人犯に対する死刑宣告率は、概ね1%強で推移しているが、殺人犯のうち1%の死刑囚と99%の無期あるいは有期囚の違いについて、合理的説明ができるのかと聞けば、非常に苦しい答えしか返ってこないはずだ。具体例を挙げれば、「殺したのが一人なら懲役だが、二人なら死刑」という原則は、統治上の便宜性(どこかで線引きする必要がある)に基づく判断でしか無いからだ。
この延長線で、殺人犯に対する死刑宣告率が1%強でしかないのに、「人を殺したら死刑」といった犯罪抑止力が働くと考えるのは、かなり無理がある。
また、恐らく多くの人は「日本は死刑の比率が非常に少ない」と漠然と思っているだろうが、完全な誤りで、死刑宣告率は米国のカリフォルニア州やヴァージニア州とほぼ同じだという。

日本の死刑制度は非常に特殊である。それは、いわゆる先進国の中で米国の一部と日本だけが死刑を残しているという点だけでなく、その米国に比しても特殊と言える。いくつか挙げると、

【普通の量刑の延長上に存在】 「無期じゃ軽いから死刑」=死刑判決を出すことに法的な過重コストが存在しない。米国では二段階審理(有罪認定と量刑判断)、事前予告(米国では死刑を求める場合は検察が事前通告する)、陪審員の全員一致などの担保がある。特に「陪審員の全員一致」は非常に重い。日本では単純化すれば、裁判官の一人と裁判員の多数が死刑を支持すれば、死刑が確定してしまう。結果、米国では弁護側は陪審員の一人を味方につければ死刑を回避できるが、日本の検察は裁判員の多数派を確保すれば死刑に出来る。

【極めて性急な審理】 裁判員制度の導入により、公判日程の進度向上と厳格化が図られ、最高裁は「90%の裁判員裁判を5日以内に終わらせる」という目標を掲げている。しかも、日本は米国と違って全ての証拠が検察から提示されるわけではないので、きわめて弁護側に不利な初期設定となっている。一般論としては「死刑は慎重に判断されるべき」と考えられているが、現実は死刑裁判のスピードは速められる一方にある。

【被害者の意見陳述】 一段階審理の日本においては、証拠認定をしている最中あるいはその前にすら、被害者が犯罪の過酷さを訴え、あるいは死刑を求めるシステムになっており、事実認定審理の中立性を大きく阻害している。しかも、被害者の意見陳述の裁量は裁判官に帰しており、これは日本では検察有利を意味する。例えば、2011年6月に千葉地裁で行われたある裁判では、被害者、被害者の両親、委託を受けた弁護士、検察官などが死刑を求める陳述に3時間15分も費やしたのに、弁護側に認められた時間はわずか60分に過ぎなかった。実質的には被告を死刑にするためのセレモニーと化してしまっている観がある。

【上訴権】 米国では死刑判決に際しては被告に対して自動的に上訴権が付与されるが、日本では普通の裁判と同じであり、近年の死刑判決のうち約15%が控訴せずに確定しているという。逆に検察は死刑判決が出なかった場合、2度まで「再戦」のチャンスが与えられる。ただでさえ検察有利な司法システムをさらに助長、まるで死刑判決を増やすことを目的としたような制度になっている。

死刑は万が一、誤審・誤判だった場合、取り返しがつかないことになる訳だが、日本では死刑判決を出すことに対して、慎重さを担保する法的あるいは制度的な担保が何もないことを意味している。そして、冤罪や警察・検察による証拠捏造が日常茶飯事であることは、足利事件や布川事件を始めとする再審や無罪判決によって明らかにされている。
和歌山の毒物カレー事件などに至っては、物的証拠も自白もないにもかかわらず、死刑を確定させている。これは、国民の誰もが死刑にされてしまうことを示しているにもかかわらず、日本人の8割以上が死刑制度を支持しているのは、異常としか言いようがない。

そもそも原理的に、近代刑法は応報刑や復讐を否定するところから始まっているはずだが、「あれだけの重大犯罪をなしたのだから、死刑になって当然」という声が非常に多く聞かれることは、近代刑法の原理が殆ど大衆に浸透していないことを意味する。

例えば、死刑の違憲性と残虐性が問われた、大阪で起きたパチンコ店放火殺人事件の地裁結審(2011年10月31日)に際して裁判長は、「死刑制度が存在する以上、精神的・肉体的苦痛を与え、ある程度のむごさを伴うことは避けられない」「死刑に処せられる者は多少の苦痛は甘受すべきだ」「残虐と評価されるのは非人間的な場合に限られ、そうでなければどのような執行方法を選択するかは立法の裁量の問題」などと述べている。
つまり、死刑が残虐な応報刑であることを認めつつ、政府の定めた方法による執行方法は必ず非人道的であるという話になっている。これは、死刑が懲役刑など他の量刑とは異なる次元の刑罰であることを示しており、そこに合理性を見つけるのは難しい。

もう一つ、死刑賛成論者から良く聞かれることに「死刑は国家による殺人ではない、殺人と一緒にするな」というのがあるが、これは処刑現場を知らないから言える話である。
日本の絞首刑の場合、拘置所の刑務官が死刑囚を連行、抵抗した場合は抑えつけたり、殴りつけたり、あるいはそのまま首に縄を掛けて強制執行することもあるという。刑場に入ると、刑務官が死刑囚の首に縄を掛け、足を縛り(手には手錠)、別部屋に待機している三人の刑務官が、各々執行ボタンを押し、そのうちの一つが有効で、床が外れて死刑囚が落ちて行く。

上記のパチンコ店放火殺人事件の裁判では、元最高検検事の土本武司氏が弁護側証人として出廷、死刑執行に立ち会った経験を振り返って、
「絞首刑はむごたらしく、正視に堪えない。限りなく残虐に近い」

「(絞首台の)踏み板が外れる音がした後、死刑囚の首にロープが食い込み、宙づりになっていた。医務官らが死刑囚の脈などを確かめ、『絶息しました』と告げていた」

「少し前まで呼吸し、体温があった人間が、手足を縛られ抵抗できない状態で(ロープにつられて)揺れているのを見てむごいと思った」

などと証言している。これでは、いかに取り繕ってみたところで、刑務官が「国家による殺人」を代行している現実を覆すことはできないだろう。

死刑制度とは「明日の安寧を担保するために今日の殺人を容認する」制度であり、それを国民・社会に代わって国家が代行しているに過ぎない。日本の場合、憲法が国民主権を規定している以上、国家と国民は同一の存在であるというのが建前になっている。しかるに、日本国民は「国家」が「死刑=死刑犯の殺害」を代行するに任せ、己は安寧のみを満喫している。国家が死刑を代行し、国民は己の手を汚す必要がないからこそ、死刑を支持するという構図がある。その死刑執行は、全て拘置所の刑務官が代行しているが、合法的殺人を許容する民主的正統性や人道性が問われることは殆ど無い。
故にケン先生は、裁判員制度によって国民が司法への参画を実現した以上、国民は自らの手によって、その最高刑を執り行うべきであり、それは無作為に選ばれた市民を任に充てる「国民死刑執行員制度」の創設を提起している。

ジャコバン派のサン=ジュストは「被告を殺すかもしれない原理を決めることは、彼を裁く社会を生かしめる原理を決めることである」という言葉を残して死刑に処せられたが、死刑の存在が、遠くない将来、狂乱する日本に大きな陰を落とす可能性は否定できないだろう。

【7月18日、追記】
「罪を犯した者のいのちを奪う死刑の執行は、根源的に罪悪を抱えた人間の闇を自己に問うことなく、他者を排除することで解決とみなす行為にほかなりません。そのことは決して真の解決とはならないでしょう。死刑制度は、罪を犯した人がその罪に向き合い償う機会そのものを奪います。また、私たちの社会が罪を犯した人の立ち直りを助けていく責任を放棄し、共に生きる世界をそこなうものであります」
(浄土真宗大谷派・東本願寺派の7/9声明より)

「死刑という究極的な暴力と排除によっては、被害者・遺族の悲しみと社会の傷は真に癒されず、事件の本質的解決にはつながりません。むしろ国家による新たな殺人を重ねることで、社会に対して残虐な暴力のメッセージを発することになります。私たちは「正義」の名によって行われるこうした殺人を断じて許すことはできません。実際、「不要な命は抹殺すべし」という誤ったメッセージを国家が率先して発し続けた結果、2016年7月26日未明、相模原の知的障害者施設で大量殺傷事件が起きてしまいました。この痛ましい事件からまもなく2年を迎えようという今、私たちは「必要のない命」などないのだということを改めて強く主張するとともに、そのことを日本政府にも、言葉と行いをもって明示するように求めます。」
(日本カトリック正義と平和協議会の7/6声明より)
posted by ケン at 12:44| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月15日

Kingdom Come: Deliverance

マウント&ブレードの系譜を引く、中世ヨーロッパを舞台にしたアクションRPG。以前より後継作品が望まれていたが、何度も挫折したようだ。本作は、チェコの会社が40億円近い開発費を投じて制作した新作だが、いかんせん無名の会社で資金を集めるのも、販路を確保するのもクラウディング・ファンドを利用したというから、この点でも新しい時代のゲームと言える。

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15世紀の神聖ローマ帝国下のボヘミアを舞台に、自由度の高いオープンワールドで中世の生活を楽しむ(?)ゲーム。メインとなるクエストはあるのだが、必ずしも本ストーリーにこだわる必要は無く、いろいろな楽しみ方がある。
ストーリー通りに騎士を目指しても良いし、狩人や商人として生きて行くこともできるし、野盗になって暴れ回ることも可能だ。サブクエストも豊富だし、何をやっても経験値がたまるので、まさに自由度全開。



ただ、恐ろしくリアルに作り込んであるので、何をやるのもハードルが高い。主人公は、領主御用達鍛冶屋のボンボン息子という設定の上、何の技能も無い若造で、アクション操作に慣れるまでは、本当に「俺に何をしろと?」というレベル。武器を振るう速度は恐ろしく緩慢で、主人公が一回剣を振るう間に、下手すると三回くらい攻撃されそうな勢いだ。ケン先生は、ヨーロッパでリアルなロングソードを持ったことがあるが、余りの重さに「これはムリ!」と思ったものだ。弓矢なんて、一歩踏み込めば近接武器が届きそうな距離でしか当たらないし、泣けてきそうな距離しか飛ばない(筋力が無いから)。

なので、二人の敵を相手にするなどもっての他であり、徘徊している弱そうな(武装の貧弱な)野盗や山賊を狙って奇襲攻撃してすぐ逃げることで経験値を貯めるような話になっている。一体どっちがバンデットなんだか。クマン兵(モンゴル系?)と出くわしたら、即リセットというのも笑える。
弓矢は狩をやってレベルを上げる必要があるのだが、動いている動物にはラッキーでしか当たらない。こっそり近づくか、待ち伏せして射撃するしかないのだが、飛距離が短いので最初は本当に辛い。ウサギは的が小さすぎて当たらない上に、当たっても目標がどこに倒れているか探すのに一苦労する有様。マジで猟犬が欲しい。

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戦えば、武器も防具もダメージが入って修復代がかかるし、下手すれば自分が怪我をしてしまう。狩でも矢を浪費するので、黒字になるとは限らない。しかも、倒した山賊や動物から取った「獲物」は、下手すると盗品扱いになるので、「捌く」のにも一苦労させられる。
戦闘や狩りから帰ってくると、全身血だらけなので、風呂に入らないと、好感度が下がりまくる問題もある。

これだけ読むと、「何が面白いんだ?」と思われそうだが、中世中欧の再現度が半端なく、まさしくヴァーチャル体験できる醍醐味があり、それは他の何でも味わえない喜びである。
ただ、いかんせん日本語版がなく、英語版だけで、自分は英語が聞き取れないのでロシア語字幕にしたら、ますます分からなくなってしまったので、必死に英語字幕を読んでいる。長年のTRPG歴で単語だけは理解できるからだ。
惜しむらくは、ゲームが余りにも重すぎて、よほど高スペックのPCで無い限り、かなり動作や読み込みに時間がかかってしまう。そのため、自分はPS4でプレイしているのだが、PC版には様々なMODがあるので、羨ましくも思う。

最初のクエストは、「いけ好かないドイツ商人の家にウ○コを投げつける」だし、チュートリアルでは先生に「Money first, Morals later」と教え込まれるなど、邦ゲーではあり得ない要素満載で、はまる人間ははまりまくりだろう。全世界で100万本販売したとも聞くが、日本のゲーム業界は本当にガラパゴス化していると思う。
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

魚は頭から腐る:文科省の場合

【「次官候補」がなぜ 佐野容疑者 政界進出うわさも】
 「信じられない」−。次官候補だった現職局長・佐野太容疑者(58)が逮捕された四日、文部科学省に衝撃が走った。東京医科大(東京都新宿区)に便宜を図り、見返りは自分の息子の不正入学。東京医科大の学生からは「裏切られた」と怒りの声も。昨年の天下り問題に続く不祥事で、教育行政への信頼失墜は必至だ。 
 エリート官僚だった佐野太容疑者は、文部科学省内で「将来の次官候補」と目され、政界進出のうわさも飛び交っていた。かつて一緒に政治家との折衝をしたことがあるという前文科次官の前川喜平氏(63)は、逮捕の一報に「え? 佐野君が?」と目を見開き、「信じられない」と首を振った。
 前川氏が官房長だった二〇一二〜一三年、佐野容疑者は総務課長。当時は「まじめで丁寧。安心して仕事を任せられた」という。「普段は物静かだが、山梨出身ということもあり、ワインにはうるさかった」と振り返る。現役の文科省職員も「間違いなくエリートコースを歩んでいた」「次官になるべき人」と証言するが、佐野容疑者の下で仕事をしたことがある男性職員は「上にはいい顔をするが、面倒な仕事は僕らに押し付けてきた」と不満を漏らす。
 小杉隆元文相の娘婿で、政界進出のうわさも。出身地・山梨の知事候補にも名前が挙がった。同省高等局担当の審議官経験があり、本紙が今年五月、加計学園問題について省内で質問すると、目を合わさずに「その件は取材を受けない」とだけ答えた。
(7月5日、東京新聞)

逮捕された文科省局長は、小杉隆元大臣の女婿とのこと。霞ヶ関の閨閥化と「魚は頭から腐る」を象徴している。学生や教員に対する収奪を強化する一方で、大学行政への中央統制が強化され、エリート官僚の天下りも増える構図。中央権限の強化が、天下りや便宜供与の温床になる好例でもある。

森友・加計など政官業報の癒着構造がおぞましさを増し、表面化しても処罰されなくなっている中で、腐敗が蔓延しつつあることの証左でもある。トップが腐敗を見せ、国会で追及されても最終的に処罰を免れるのであれば、「じゃあ自分も」となるのは自然の話であり、モラル・ハザードそのものであろう。
同時に、大学改革の中で自治が奪われ、文科省の権限が強化されつつあり、大学側としては自らの権益を守るために中央官僚に便宜を図るインセンティブが高まっている。政治家・官僚のモラル・ハザードと大学の従属が、癒着と腐敗を生んでいる。

少し前に始めた"Kingdom Come"という中世欧州を舞台にした洋ゲーで、冒頭のチュートリアルから「Money first, Morals later」と教わり、「やっぱ洋ゲーだよな!」と思っていただけに、笑いが止まらない。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする