2018年07月17日

被告を殺す原理あるいは社会を生かす原理・続

7人の死刑囚が同時に執行された。これは共同犯行の場合は刑執行も同時に行う慣例に基づいているが、共犯者の全てでは無く約半分だけ先行という点で、慣例から外れているとも言える。
本ブログは、まもなく「激闘永田町編」を終えるので、この機会にもう一度死刑に対するスタンスを明確にしておきたい。ただ、基本的なスタンスに変化は無いので、主に過去ログから引用する。

死刑制度は、本質的に統治原理と司法制度の不公正の上に成り立っている。例えば、日本における殺人犯に対する死刑宣告率は、概ね1%強で推移しているが、殺人犯のうち1%の死刑囚と99%の無期あるいは有期囚の違いについて、合理的説明ができるのかと聞けば、非常に苦しい答えしか返ってこないはずだ。具体例を挙げれば、「殺したのが一人なら懲役だが、二人なら死刑」という原則は、統治上の便宜性(どこかで線引きする必要がある)に基づく判断でしか無いからだ。
この延長線で、殺人犯に対する死刑宣告率が1%強でしかないのに、「人を殺したら死刑」といった犯罪抑止力が働くと考えるのは、かなり無理がある。
また、恐らく多くの人は「日本は死刑の比率が非常に少ない」と漠然と思っているだろうが、完全な誤りで、死刑宣告率は米国のカリフォルニア州やヴァージニア州とほぼ同じだという。

日本の死刑制度は非常に特殊である。それは、いわゆる先進国の中で米国の一部と日本だけが死刑を残しているという点だけでなく、その米国に比しても特殊と言える。いくつか挙げると、

【普通の量刑の延長上に存在】 「無期じゃ軽いから死刑」=死刑判決を出すことに法的な過重コストが存在しない。米国では二段階審理(有罪認定と量刑判断)、事前予告(米国では死刑を求める場合は検察が事前通告する)、陪審員の全員一致などの担保がある。特に「陪審員の全員一致」は非常に重い。日本では単純化すれば、裁判官の一人と裁判員の多数が死刑を支持すれば、死刑が確定してしまう。結果、米国では弁護側は陪審員の一人を味方につければ死刑を回避できるが、日本の検察は裁判員の多数派を確保すれば死刑に出来る。

【極めて性急な審理】 裁判員制度の導入により、公判日程の進度向上と厳格化が図られ、最高裁は「90%の裁判員裁判を5日以内に終わらせる」という目標を掲げている。しかも、日本は米国と違って全ての証拠が検察から提示されるわけではないので、きわめて弁護側に不利な初期設定となっている。一般論としては「死刑は慎重に判断されるべき」と考えられているが、現実は死刑裁判のスピードは速められる一方にある。

【被害者の意見陳述】 一段階審理の日本においては、証拠認定をしている最中あるいはその前にすら、被害者が犯罪の過酷さを訴え、あるいは死刑を求めるシステムになっており、事実認定審理の中立性を大きく阻害している。しかも、被害者の意見陳述の裁量は裁判官に帰しており、これは日本では検察有利を意味する。例えば、2011年6月に千葉地裁で行われたある裁判では、被害者、被害者の両親、委託を受けた弁護士、検察官などが死刑を求める陳述に3時間15分も費やしたのに、弁護側に認められた時間はわずか60分に過ぎなかった。実質的には被告を死刑にするためのセレモニーと化してしまっている観がある。

【上訴権】 米国では死刑判決に際しては被告に対して自動的に上訴権が付与されるが、日本では普通の裁判と同じであり、近年の死刑判決のうち約15%が控訴せずに確定しているという。逆に検察は死刑判決が出なかった場合、2度まで「再戦」のチャンスが与えられる。ただでさえ検察有利な司法システムをさらに助長、まるで死刑判決を増やすことを目的としたような制度になっている。

死刑は万が一、誤審・誤判だった場合、取り返しがつかないことになる訳だが、日本では死刑判決を出すことに対して、慎重さを担保する法的あるいは制度的な担保が何もないことを意味している。そして、冤罪や警察・検察による証拠捏造が日常茶飯事であることは、足利事件や布川事件を始めとする再審や無罪判決によって明らかにされている。
和歌山の毒物カレー事件などに至っては、物的証拠も自白もないにもかかわらず、死刑を確定させている。これは、国民の誰もが死刑にされてしまうことを示しているにもかかわらず、日本人の8割以上が死刑制度を支持しているのは、異常としか言いようがない。

そもそも原理的に、近代刑法は応報刑や復讐を否定するところから始まっているはずだが、「あれだけの重大犯罪をなしたのだから、死刑になって当然」という声が非常に多く聞かれることは、近代刑法の原理が殆ど大衆に浸透していないことを意味する。

例えば、死刑の違憲性と残虐性が問われた、大阪で起きたパチンコ店放火殺人事件の地裁結審(2011年10月31日)に際して裁判長は、「死刑制度が存在する以上、精神的・肉体的苦痛を与え、ある程度のむごさを伴うことは避けられない」「死刑に処せられる者は多少の苦痛は甘受すべきだ」「残虐と評価されるのは非人間的な場合に限られ、そうでなければどのような執行方法を選択するかは立法の裁量の問題」などと述べている。
つまり、死刑が残虐な応報刑であることを認めつつ、政府の定めた方法による執行方法は必ず非人道的であるという話になっている。これは、死刑が懲役刑など他の量刑とは異なる次元の刑罰であることを示しており、そこに合理性を見つけるのは難しい。

もう一つ、死刑賛成論者から良く聞かれることに「死刑は国家による殺人ではない、殺人と一緒にするな」というのがあるが、これは処刑現場を知らないから言える話である。
日本の絞首刑の場合、拘置所の刑務官が死刑囚を連行、抵抗した場合は抑えつけたり、殴りつけたり、あるいはそのまま首に縄を掛けて強制執行することもあるという。刑場に入ると、刑務官が死刑囚の首に縄を掛け、足を縛り(手には手錠)、別部屋に待機している三人の刑務官が、各々執行ボタンを押し、そのうちの一つが有効で、床が外れて死刑囚が落ちて行く。

上記のパチンコ店放火殺人事件の裁判では、元最高検検事の土本武司氏が弁護側証人として出廷、死刑執行に立ち会った経験を振り返って、
「絞首刑はむごたらしく、正視に堪えない。限りなく残虐に近い」

「(絞首台の)踏み板が外れる音がした後、死刑囚の首にロープが食い込み、宙づりになっていた。医務官らが死刑囚の脈などを確かめ、『絶息しました』と告げていた」

「少し前まで呼吸し、体温があった人間が、手足を縛られ抵抗できない状態で(ロープにつられて)揺れているのを見てむごいと思った」

などと証言している。これでは、いかに取り繕ってみたところで、刑務官が「国家による殺人」を代行している現実を覆すことはできないだろう。

死刑制度とは「明日の安寧を担保するために今日の殺人を容認する」制度であり、それを国民・社会に代わって国家が代行しているに過ぎない。日本の場合、憲法が国民主権を規定している以上、国家と国民は同一の存在であるというのが建前になっている。しかるに、日本国民は「国家」が「死刑=死刑犯の殺害」を代行するに任せ、己は安寧のみを満喫している。国家が死刑を代行し、国民は己の手を汚す必要がないからこそ、死刑を支持するという構図がある。その死刑執行は、全て拘置所の刑務官が代行しているが、合法的殺人を許容する民主的正統性や人道性が問われることは殆ど無い。
故にケン先生は、裁判員制度によって国民が司法への参画を実現した以上、国民は自らの手によって、その最高刑を執り行うべきであり、それは無作為に選ばれた市民を任に充てる「国民死刑執行員制度」の創設を提起している。

ジャコバン派のサン=ジュストは「被告を殺すかもしれない原理を決めることは、彼を裁く社会を生かしめる原理を決めることである」という言葉を残して死刑に処せられたが、死刑の存在が、遠くない将来、狂乱する日本に大きな陰を落とす可能性は否定できないだろう。

【7月18日、追記】
「罪を犯した者のいのちを奪う死刑の執行は、根源的に罪悪を抱えた人間の闇を自己に問うことなく、他者を排除することで解決とみなす行為にほかなりません。そのことは決して真の解決とはならないでしょう。死刑制度は、罪を犯した人がその罪に向き合い償う機会そのものを奪います。また、私たちの社会が罪を犯した人の立ち直りを助けていく責任を放棄し、共に生きる世界をそこなうものであります」
(浄土真宗大谷派・東本願寺派の7/9声明より)

「死刑という究極的な暴力と排除によっては、被害者・遺族の悲しみと社会の傷は真に癒されず、事件の本質的解決にはつながりません。むしろ国家による新たな殺人を重ねることで、社会に対して残虐な暴力のメッセージを発することになります。私たちは「正義」の名によって行われるこうした殺人を断じて許すことはできません。実際、「不要な命は抹殺すべし」という誤ったメッセージを国家が率先して発し続けた結果、2016年7月26日未明、相模原の知的障害者施設で大量殺傷事件が起きてしまいました。この痛ましい事件からまもなく2年を迎えようという今、私たちは「必要のない命」などないのだということを改めて強く主張するとともに、そのことを日本政府にも、言葉と行いをもって明示するように求めます。」
(日本カトリック正義と平和協議会の7/6声明より)
posted by ケン at 12:44| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする