2018年07月20日

国際情勢を見る視点

第一流の知性とは、二つの相反する考え方を同時に抱きながら、なおかつ思考を機能させる能力を持つことである。(スコット・フィッツジェラルド)

原文:The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in mind at the same time and still retain the ability to function.

冷戦研究の泰斗であるジョン・ギャディス先生が紹介されていたのを読み、「我が意を得たり」と思った次第。

つい先日、大手紙でデスクを務める後輩が「ロシアに自由はあるか」という上から目線の記事を書いているのを見て、「やっちまったな」「よい子ちゃんにも困ったものだ」と思っていたところだっただけに、改めて自らの中に知性を構築すること、政治や歴史を公正な視点から分析することの重要性を確認させられた。
その記事は、はなから自由を人類固有の権利である善として扱い、現代ロシアにどこまでの自由が存在するのか、あるいは認められているのかを問うコンセプトの上に成り立っていた。しかし、このスタンスに立った場合、「ロシアには自由が無い」「プーチン政権が市民を弾圧」という記事にしかならず、大半のロシア人からすると、「それが何か?」という反応になってしまい、どこまでも西側知識人の自己満足に終わりかねない。
この視点は、ちょうどソ連期における「ハンガリー動乱」「プラハの春」「アフガニスタン介入」などに対する西側知識人の感情的(脊髄反射的)反応に見られた、「悪の帝国であるソ連が、小国の民族自決を踏みにじって弾圧した」に酷似している。
これに対し、本ブログでは、全体主義研究の最前線から現実に起きた事象を再構築して記事にする試みを続けているが、いまだに一つの反論も無い。

・「プラハの春」とカーダールの苦悩
 
・ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程 
・ポーランド危機をめぐる経済情勢 

これらに共通するのは、全体主義を悪とせず、同時に自由主義を善とせず、二つのイデオロギーを並立させつつ、価値判断を挟むことなく、事象を分析するスタンスである。仮に、ケン先生がチェコスロヴァキアの改革派やポーランドの連帯に強いシンパシーを抱き、共産党を敵視するスタンスを採っていたら、既存の読み物と何ら変わらない記事になっていただろう。

自国・日本の安全保障問題についても、ケン先生自身は左派・リベラル派に身を置きつつも、記事を書くにあたっては、可能な限り、タカ派・介入主義・改憲派とハト派・宥和主義・護憲派の二つの論理や価値観を並立させつつ、「何故これが議論になっているのか」を問うスタンスを堅持するよう努めてきた。

・集団的自衛権容認の閣議決定を受けて 
・同盟のジレンマと非対称性 
・自民党は本音で安保を語るべき 

歴史検証に際しても、例えば私は幕臣の末裔にして佐幕派ではあるが、近代と前近代の価値観を並立させつつ論じるよう心がけている。幕末や明治維新を論じる場合も、近代原理や統一国家(明治帝政)を絶対善とするスタンスからは本質を見落としてしまうだろう。

・西南戦争の原因を考える 
・長州人から見た明治維新150周年 
・幕末のインフレーション 

現代の北朝鮮や中国を論じるにしても、「大量殺戮と飢餓輸出によって核開発を進める悪の帝国」とか「言論を弾圧し、表現の自由を認めない独裁国家」といった視点だけで見ると、見えない部分ばかりが増えてしまう。

例えば、中国の場合、卑近な例を挙げるなら、今回の私の就職は一教授の推挙で決まり、旅券の更新に必要な書類を事務方に求めたところ、その日のうちにPDFで送られてきた。これは、中国の大学組織において教授の権限が大きい一方、事務レベルの内容のものは事務レベルで決済できることを示している。これが日本の大学であれば、採用選考には数ヶ月を擁し、私が求めた書類の用意には1〜2週間はかかったはずだ。このことは、日本の組織が中央集権化しすぎて、末端の自由裁量が失われ、組織が重くなりすぎている一方、中国の組織は末端の自由裁量が大きく、迅速な意思決定を下せるシステムになっていることを示している。少なくとも、中国における経済的自由は、日本よりもはるか前に行ってしまっていると言えるくらいなのだ。これは、自由の定義を「政治的自由」に限定してしまう西側知識人の視野狭窄を示している。

ジェンダーの自由を見た場合、確かに中国ではLGBT運動は弾圧されているが、民間企業における女性管理職の比率は35%にも達しており、日本の7%(別の統計では12%)を大きく上回っている。幹部職員の93%が男性という日本企業に、自由があるとは言えないだろう。

あらゆる組織における上下関係でも同じことが言える。中国には共産党という絶対的な権威がある一方で、その他の組織内における上下関係は非常に緩く、部下の上司に対する物言いなども容赦が無いケースが多く、日本人的には「儒教国だよね」と言いたくなってしまう。しかし、そこは逆で、もともと公の概念が弱く、同時に上下関係が希薄だからこそ、「礼」の価値が称揚されたと見るべきなのだ。
他方、日本では現代に至るまで、部活動で「相手をぶっ壊してこい」と監督に命令されて、その指示に唯々諾々と従ってしまった挙げ句、監督は「指示が正しく認識されていなかった」と弁解して許されてしまう社会になっている。頂点に立つ支配者のみがあらゆるルールや罰則から「自由」で、被支配者は絶対的な従属下に置かれてあらゆる自由が奪われている。

国際情勢を見極めるためには、一つの価値観を絶対視すること無く、複数の異なる価値観を併走させて考える必要がある。同時に、ある事象はそれが発生するに至る原因と経緯があることを踏まえ、日頃から歴史研究の基礎を抑えておく必要がある。
posted by ケン at 12:51| Comment(3) | ロシア、中国、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする