2018年11月04日

石高制になったワケ

銀決済の革命性についての続き。

戦国時代、織豊期を経て江戸時代になり、日本の統治は石高制を基礎として統一が完成した。
室町期には一度成立したはずの貨幣経済がなぜ先祖返りして、税を米を納めて、給料を米で受け取るような原始的な現物主義に回帰してしまったのか。これは私にとって小さな疑問だったが、優先度が低かったため、自分で調べては来なかった。

その原因は戦争と混乱にあった。
15世紀後半に応仁の乱などによって室町幕府の統治力が低下、同時に倭寇が跋扈するようになり、明朝が支配する中国大陸は「北虜南倭」と呼ばれる内憂外患の時代を迎えていた。
結果、日明貿易が中断され、明銭の輸入が途絶え、日本国内は次第に貨幣不足に陥っていった。
そして、欠けるなど劣化した悪弊の受け取りを拒否する「撰銭」が横行、室町幕府は撰銭を禁止する撰銭令をたびたび発するが効果はなく、借金を棒引きする債務放棄の徳政令を連発したこともあって、社会的信用を基にした流通経済が瓦解していった。

16世紀に入ると、国内の貨幣不足はますます深刻化し、米による現物給付に依拠する他なくなっていった。
金山を開発した武田信玄ですら、部下に対する恩賞は金粒で渡していたことからも、貨幣を鋳造して流通させるには、強力かつ統一した政権の誕生が不可欠だったのだ。

江戸幕府ですら、寛永通宝をつくったのは1636年のことであり、流通するのは足尾銅山や別子銅山の採掘が本格化するのを待たなければならなかった。その頃には、石高制は完全に封建支配の基礎をなしてしまい、改革することもできなくなっていた。結果、江戸時代を通じて、幕府も各大名家も含め、米で禄をもらう全武士に至るまで、米価の低迷による困窮に苦しめられるところとなった。

日本で貨幣が鋳造されたのは、963年の乾元大宝以降、1606年の慶長通宝(流通には乗らなかった模様)を待たなければならなかったことを考えると、誠に貨幣鋳造は国家の一大事業であることが分かる。

【参考】
江戸武士の収入を考える
posted by ケン at 15:30| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする