2019年01月20日

「ダレスの恫喝」が偶然「発見」された?!

【60年前の北方領土交渉、手紙が明かす“米の恫喝”】
 安倍総理とプーチン大統領が平和条約交渉の基礎と位置づけているのが、1956年の日ソ共同宣言です。このときの北方領土をめぐる交渉の生々しい舞台裏をつづった外交官の手紙を、JNNは入手しました。手紙は、当時アメリカが日本に突きつけた恫喝的な要求にも言及。現在にもつながる外交交渉の複雑さを物語っています。現在は空き家となっている都内の住宅。古びた箱からは何通もの国際郵便が出てきました。

 「米国のダレスはソ連が千島列島をとるなら、琉球は米国がとると乱暴なことを言い始めました」(松本俊一全権大使が妻に宛てた手紙)

 一目見たロシア政治史の専門家は・・・

 「すごいもんですね。手が震えるような資料ですね」(ロシア政治に詳しい 法政大学 下斗米伸夫 教授)

 国際郵便の送り主は60年前の外交官。当時、ソビエト連邦との北方領土交渉に当たった松本俊一全権大使です。

 「全国民のご要望に添うよう、最善の努力を続けたいと考えます」(松本俊一 全権大使、1956年)

 松本氏は、1年がかりとなったソビエトとの交渉の現場から日本で待つ妻へ手紙を送り続けていました。そこにつづられていたのは、当事者だけが知る北方領土交渉の舞台裏です。

 「2人は熱意を込めた握手を交わし、和やかに日ソ国交回復への第一歩を踏み出しました」(1955年6月)

 ロンドンで始まった日ソ交渉。動きがあったのは2か月が過ぎたころでした。当初、北方領土4島のうち1島も譲る姿勢を見せなかったソビエト側が、2島を引き渡す意向を示したのです。松本氏は早速、東京へ報告しました。しかし・・・

 「だんだん日本の方で“欲”を出してきて、千島も欲しいと言っている」(松本俊一全権大使が妻に宛てた手紙、1955年8月20日)

 日本政府は、あくまで4島を求め、ソビエト側の2島案を受け入れるなと指示してきたのです。ちょうどこの時期、日本国内では保守合同によって自民党が結党。4島を求める声が高まっていくという政治状況が交渉の背景にできつつありました。一方のソビエト側も2島から譲りません。日本政府から松本氏への指示は、交渉を引き延ばせというものでした。

 「東京は内政上の理由で“譲歩するな。しかし決裂するな”と言うのですから、仲良くけんかせよというのと同じで、バカバカしいような気もします」(松本俊一全権大使が妻に宛てた手紙、1956年3月10日)

 「まさに彼の苦衷がしのばれる文章。自民党の結党決議の中で4島という話が出てくるから、とても交渉の余地がないというのが松本氏の実感だったと思う」(ロシア政治に詳しい 法政大学 下斗米伸夫 教授)

 外交の最前線に立つ松本氏を翻弄したのは、日本政府からの指示だけではありませんでした。時代は米ソ冷戦のさなか。アメリカからも思わぬ横やりが入ったのです。

 「米国のダレスはソ連が千島列島を取るなら、琉球は米国が取ると乱暴なことを言い始めました。全く、泥仕合になってしまいました」(松本俊一全権大使が妻に宛てた手紙、1956年8月20日)

 ダレスとは、当時のアメリカの国務長官。日本の重光外務大臣から日ソ交渉の説明を受けた際、日本が2島で妥協するならば、アメリカは沖縄を返還しないと伝えたのです。これは「ダレスの恫喝」と一部で報じられ、国会でも議論となりました。しかし、日本側の公式な資料は、これまで公開されていません。

 「すごいもんですね。手が震えるような資料ですね。(ダレスが)『言い始めました』というところに驚きが感じられる。泥仕合とか第一級の交渉者にして驚きを感じざるを得ないと、米ソ間の緊張を物語る資料」(ロシア政治に詳しい 法政大学 下斗米伸夫 教授)

 この出来事を、松本氏は直後に妻への手紙で記していたのです。

 「“ダレスの恫喝”がこの時点で出ていることを証明しているような文章」(ロシア政治に詳しい 法政大学 下斗米伸夫 教授)

 国内政治、そしてアメリカの恫喝に翻弄されながら進められた日ソ交渉。結局、2島で領土問題を決着させる平和条約は回避されました。代わりに署名されたのが、まずは戦争状態を終わらせるという日ソ共同宣言。そこには、平和条約締結後に2島を引き渡すという趣旨が書き込まれる一方、同時に、交渉の全権大使として松本氏は、ソビエト側とある重要な書簡を交わしていました。相手は、後にソビエトの外務大臣となるグロムイコ氏。書簡によって互いに確認したのは、領土交渉は継続されるということ。4島返還に向け、交渉を続けるという日本側の思いが盛り込まれたものでした。

 2島で妥協することなく、北方領土交渉を継続するという成果を得た達成感からでしょうか、署名翌日の妻に宛てた手紙には、こう記されていました。

 「やっとホッとしたせいか、疲れが出ましたが、元気ですからご安心ください。あなたにもいろいろ心配させたのでしたが、とにかく初志を貫徹したので、心中愉快です」(松本俊一全権大使が妻に宛てた手紙、1956年10月20日)
(1月18日、TBS系)

本ブログで「ダレスの呪縛」を書いたのは、2008年5月23日のことで、ロシア・ソ連学徒でも政治外交を専門としたものくらいしか知らなかった。下手すると、国際関係論や近現代史を専門とする学者すら知らないレベルだった。
もちろん外務省は存在そのものを否定し、民主党が政権党にあった時でも資料開示を拒んできた。あの時のことは、今でも思い出すたびに腸が煮えくり返る。この一点だけでも、外務官僚はことごとく反市民的存在であると断言できる。

御用学者の御託はどうでもいいとしても、貴重な資料であることに変わりはない。だが、内容的には松本氏が全て著書の中で書いていることであり、珍しくはない。但し裏付けとしての価値はあるので、外務省が「証拠隠滅」「抹消」にかかる恐れは十二分にある。

ただ、今この時期に「発見」、公表されたことは、どう見ても偶然には思えないが、海外にいては細かい事情まではわからないところが辛い。
posted by ケン at 10:27| Comment(2) | 外交、安全保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする