2019年04月09日

(EP)日露戦争の「古さ」について

今はなきエポック社の「日露戦争」が発売されたのは1981年で、私がまだ小学生の時だった。そして、初めてプレイしたのは中学生か高校生の頃だったと思う。つまり、1970年代の日露戦争観に基づいて設計されたので、要は『坂の上の雲』のイメージなのだ。もちろん、責めるわけではなく、本作をけなすわけでもなく、それを前提に論を進めたいという話である。
あれから40年近く経て私も早や初老となったわけだが、日露戦争の研究も相当に進んで、当時のイメージとはかなりかけ離れたものになっている。

今回(EP)日露戦争をプレイして、私が「古い」と思ったのは、「日本側の心理的負担が軽すぎる」だった。
確かに戦闘結果「EX」で日本軍も何度か損害を受けたが、すぐに回復可能なレベルで、日本軍は常に全力で攻撃し続けていた。また、最終的に国内にある全戦力を投入したわけだが、ゲーム終了時、満州平野には「全戦力」が存在した。逆にロシア側は欧州師団をいくつか残していたが、満州に登場したユニットの半分近くが除去されて、スカスカの状態にあった。

実際はどうだっただろうか。
日露戦争を通じて、日本側の病死を含む戦没者数は約9万人、それに対してロシア側は約8万人だった。負傷者数は日本が15万4千、ロシアが14万6千である。終戦時の兵数は日本が40万に対してロシアは50万人ほど。
巨細に見てみると、遼陽会戦で奮戦し、首山堡において関谷銘次郎連隊長が戦死した静岡の第34連隊(第三師団)の場合、動員数5千人に対して、戦死者は1200人近くに上ったという。負傷者数を2倍で考えれば、五体満足に帰国できたものの方が少なかったことが分かる。

遼陽会戦を見た場合、日本軍は12万5千人をもってロシア軍の15万8千人に対して攻撃を仕掛け、損害は日本側の2万4千に対して、ロシア側は1万8千に終わった。
ロシア側は「敵に出血を強いながら、自国領土奥深くに引き込んで、補給線が伸びきったところで決戦に挑む」という伝統的な防御戦略を採って、無理せず予定通りに撤退しただけだった。

ここで私が考えたのは、「戦闘比が3:1以上なら攻撃する」などという戦力比システムは日露戦争の実相に全く即していないのではないか、ということである。現実の日露戦争における日本軍の発想は、どちらかといえば、「いいからつべこべ言わずに攻撃できる内にサッサと攻撃しろ。さもないとロシア軍は膨れ上がる一方だ」というものだったように思われる。
後者の考え方は戦力比システムでは成立しがたく、Fire-Powerシステムのそれであろう。つまり、「敵は12火力あるけど、こちらは15火力あるから先に攻撃しないと!」というものである。そして、ロシア側は野戦築城による陣地効果のダイス修正がついて、最終的に日本側の損害が大きくなるのだ。だが、ロシア側は日本側の攻勢限界を見通して、戦略的に後退してゆくことになる。ルール的には「同損害の場合は、ロシア軍は基本的に退却する」とすれば良いだろう。

奉天会戦後に山縣参謀総長が桂内閣に提出した報告書には、「兵員の質的劣化」「将校の圧倒的不足」「弾薬不足・補給限界」の3つの理由からさらなる長期交戦は無理である旨が書かれている。
先に挙げた34連隊同様、すでに奉天会戦前から補充兵として送られてくるのは30歳以上の高齢者や体格貧弱なものばかりで、およそ戦争に使えるものではなかったという。
中でも小隊長、中隊長クラスの将校不足はいかんともしがたく、「ロシア軍が本気で攻めてきたら、今度こそひとたまりも無い」というのが、参謀本部の本音だった。

ちなみに、日中戦争においてすら、支那派遣軍は「兵員の平均体重を60kgにする」という目標を立てながらも、最後まで実現できなかったという。また、日米開戦後に送られてきた補充兵には、身長が150cmに満たないものや体重が50kgに満たないものが普通にいたというから、現代人には想像が難しい状況にあったことが分かる。

日露戦争の従軍記者だった田山花袋の『一兵卒』は、老兵が過重な装備と糧食不足にあえぎながら行軍を続け、ついには倒れてゆく様が淡々と描いているが、およそ『坂の上の雲』の真逆をゆくものと言える。現実には、日露戦争の帰還兵は冷淡な目で見られ、PTSDなどから仕事も続かず身を持ち崩したものがむしろ多かったらしく、どちらかといえば、『ゴールデンカムイ』の方が史実に近いものと思われる。

この辺をシミュレートするのに参考になるとはGMT「Stalin's War」である。本作におけるドイツ歩兵軍は開戦当初「5」戦力(5ステップ)を持つが、補充によって回復できるのは「4」までになっている。つまり、1度ダメージを受けると、最大戦力は「4」になってしまうのだ。
日露戦争にあてはめるなら、奉天会戦後の日本軍師団は皆「3か4」になってしまい、それ以上になる見込みもないという状況で、他方のロシア軍はいまだに戦力「5」の欧州師団が新配備されていた。結果、「何でもいいから、サッサと戦争を終わらせてくれ」というのが、日本陸軍の本音だった。
また、イベントカードの作戦ポイントを攻撃に割り振るか、カードを補充に回すかがトレードオフになっているところも、日露戦争の実相に近いと思われる。

改めて世界地図で確認してもらいたいが、「大勝」した日本軍は奉天の少し先にある鉄嶺までしか進めず、ハルピンどころか現在の長春ですら遙か彼方であることが分かるだろう。
ロシア側の高級軍人としては、「何故これで負けたとか言われるのか分からない」という気分だったに違いない。

こうした日本側の「いっぱいいっぱい感」や、逆にロシア側の「まだまだこれから感」がシミュレートされないと、どうも日露戦争の本質には近づけないように思われる。
デザイナーの皆さんに期待するところ大である!!

【追記】
今日となっては信じがたい話になったしまったが、日露戦争に従軍した日本軍兵士にとって最も恐ろしかったのは「ロシア兵による銃剣突撃」だったという。この当時、日本歩兵が持つ有坂銃は銃剣を装備しておらず、逆にロシア歩兵はモシン・ナガンに銃剣を付けていた。想像してみれば容易なのだが、この当時の日本人の身長は160cmあるかないかで、体重も50kg台が普通、下手すれば150cm、50kg以下のものもいた。他方、ロシア人はすでに170cmから180cmもあり、体重も70kg以上と、そもそも骨格が違った。その巨漢の白人兵が銃剣突撃してくるのだから、ファンタジー風に言えば、ゴブリン兵がオーガの突撃を食らうようなものだった。そして、ロシア兵の銃剣突撃を受けた日本兵は大半が離散、武家出身の将校がいる場合のみだけ、どうにか踏ん張れたという。だが、それは逆に下級将校の損害を増やす結果にもなった。十五年戦争期における日本軍の銃剣突撃至上主義は、旅順戦の名残ではなく、むしろ「ロシア兵の銃剣突撃にボコボコにされた(実例は必ずしも多くないのだが)」トラウマから来ているのかもしれない。現実には、兵器の近代化や大量生産を行うだけの工業力がなかったことを精神主義で補った、というところが真相なのだろう。

【追記2】
日露戦争では、砲弾による死者は意外と少なく、ロシア軍の調査では15%程度だったという。最も多かったのが小銃弾であったことは、現代人として踏まえておく必要がある。もっとも、日本側の死者は機関銃弾によるものも多かったと思われるが。これには理由があって、当時の砲弾は殆どが榴弾ではなく、榴散弾であったことに起因しているらしい。だから、まだ誰も鉄兜を被っていないのだ。以上のことを踏まえても、日露戦争を描く映画、ドラマなどの映像作品は、一度根本から見直して、(NHK「坂の上の雲」ではなく)『ジェネレーション・ウォー』に匹敵するMPがゴリゴリ削られていくようなドラマを撮る必要があるのではなかろうか。
posted by ケン at 00:00| Comment(4) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする