2019年07月15日

ジョージア問題でも反露報道?

【露 ジョージア直行便運航停止 抗議運動に対抗】
 ロシアは8日、自国に対する抗議運動が続くジョージア(旧グルジア)との間で直行便の運航を停止した。更にロシア議会がジョージアへの制裁を検討するなど、両国間で緊張が高まる恐れも出ている。
 ジョージアでは6月中旬、ロシアの下院議員が国会議長席で演説したことがきっかけとなり、現政権がロシアへ融和的だとの批判が広がり、抗議運動も始まった。直後からロシアは自国民の安全確保を理由にして、直行便を停止する方針を警告していた。
 両国は2008年に武力衝突し国交を断絶した。ただし国民の往来は活発で、年間100万人を超すロシア人が主に観光目的でジョージアを訪れている。ロシアはジョージアの観光業を揺さぶり、抗議運動を断ち切りたい狙いとみられる。
 一方でジョージアのテレビ局では7日、司会者がプーチン露大統領を侮蔑する発言をした。ロシア下院は自国がジョージア産ワインの主要輸出先である点を踏まえ、禁輸措置を検討。多くのジョージア人がロシアに出稼ぎに来ていることから、ジョージアへの送金停止も提言した。ただしプーチン氏は9日、侮蔑への報復制裁には反対する考えを示した。
 ロシアは08年にジョージアと武力衝突した後、同国内の南オセチアとアブハジアに軍を駐留させている。一方、ジョージアでは現与党「ジョージアの夢」が12年に実権を握って以来、ロシアへの敵対的な政策は影を潜めた。そのためジョージア国内では現政権とロシアへの不満と反発が募っている。
(7月9日、毎日新聞)

記事の通り、ロシアーグルジア(ジョージア)間の緊張が高まっている。
問題はいつものことながら、マスゴミがポジション・トークを行い、公平性を自ら損ねている点にある。

ジョージアの大衆に反露意識が高まり、政府に対してより強硬な姿勢をとるよう街頭活動が繰り返され、現地のマスコミも煽り気味に報じている。
それだけにロシア人が観光気分でジョージアを訪れるのは危険であることは明白すぎるわけで、政府が直行便の運行停止措置をとるのは、国民の安全を図る上で当然すぎる話だ。にもかかわらず、「ロシアは自国民の安全確保を理由にして」という表現を使うことは、あたかもロシア政府が他に意図を秘めて、敢えて「自国民の安全確保」を表面的理由に据えているかの印象を植え付ける意図があるとみるべきだろう。ここは、平板に「ロシアは自国民の安全を確保するため」と書けば十分なはずだ。仮に他の意図があるにせよ、それは読者が判断すべきものであって、勝手に報道側が十分な根拠も無く書くべきことでは無い。

また、ネット報道では「プーチン氏は9日、侮蔑への報復制裁には反対する考えを示した」とサラッとではあるが、大統領が経済制裁に反対の意思を示したことが書かれているが、7月10日の本紙朝刊にはこの部分が削除されているという。
現実には、ロシア下院でジョージア批判が高まり、全会派が対ジョージア経済制裁の導入を支持。これに対して、プーチン大統領は、「ジョージア国民に対する敬意」を理由に挙げつつ、ジョージアに対する経済制裁に反対を表明している。
Я бы не стал этого делать именно из уважения к грузинскому народу", − сказал глава государства журналистам.
(7月9日、ノーヴォスチ通信)

プーチン氏が反対したことを書かなければ、ロシアージョージア関係が「行き着くところまで行く」と読者に判断させることになるだろう。

日本のロシア報道は意図的に虚偽報道あるいは事実の隠蔽が行われているが、外務省の指示なのか、あるいはマスゴミ側の忖度なのか。いずれにしても、日本の報道は全く信用ならない。
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2019年07月14日

騰越戦75周年で慰霊

今回の慰霊旅行の第二の目的地は騰越、現在の騰衝市である。
ミャンマー国境に近い町で、17世紀につくられ、早々に清王朝に追われた明の王族が最後に逃げ込んだ街としても知られる。日本で言えば、吉野や十津川のようなイメージかもしれない。基本的には華僑がミャンマーを通じた交易を行うために集まってできたため、漢民族の割合が高いが、周辺の少数民族も居住している。
位置的には、ミートキーナに通じる道の途上にあるため、重要拠点となる。

しかし、街は高地に囲まれた盆地にあり、周辺高地と飛行場を守らなければならず、およそ防衛には適さない地形である。
もともと歩兵148連隊を基幹に約3千人の混成部隊が守備についていたが、インパール方面の後方に降りた英チンディット部隊掃討のために約千人が抽出され、2千人で中国軍の到来を待つところとなった。来襲した中国軍は五個師団、五万人を数え、兵力差は25倍に達した。
6月末に周辺高地に対する攻撃が始まり、遅滞戦術を講じるも、7月末には要塞化した騰越城に籠城、さらに一ヶ月半戦い続け、9月13日、最後の70名が万歳突撃を敢行、玉砕した。
この騰越の場合も、8月21日にはまだ600名超が存命で、食料も弾薬もほぼ尽きており、戦闘機によるわずかな空中投下で凌いでいた有様だった。少なくとも、この600人は日本独特の軍事思想によって死ぬことが強要されたと言えよう。
もっとも、中国側の損害は戦死9千人超、負傷1万人で、日本側の10倍近い損害を出している。
また、中国軍とインド方面連合軍が手を結ぶのは、翌1945年1月21日のことだったという。

騰衝市では、市内にある戦没者墓苑と抗日戦争記念館を訪問。
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小高い丘の上にある中国軍の戦没者慰霊塔、白酒を供え、黙祷

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丘の周囲には9千柱からの慰霊碑が並ぶ

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「飛虎」こと、フライング・タイガースの米軍属戦死者の慰霊碑

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国民党軍の李根将軍が建立した日本兵の慰霊碑だが、このネーミングはいささか「平将門の首塚」みたいな感じで、どうにも・・・・・・
日本酒を供えて黙祷を捧げ、振り向いてみると、中国人の集団に囲まれそうになっていた!
中国人の同行者がいたからセーフだったかもしれないが、まだまだ危険かもしれない。
やはり行き過ぎた愛国教育は危険極まりない。

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抗日戦争記念館だが、日中戦争全体を扱っており、巨大な割に騰越戦、雲南戦役のエリアは一部に留まる。
日本陸軍が保山や騰越に対して空襲した際、炭疽菌やペスト菌を入れた弾頭を投下した、とのこと。
フライング・タイガースの展示がやけに充実していた。

同行した二人の30代の中国人は、それぞれ上海と福建の出身だが、二人とも「雲南でこんな戦争が行われていたとは知らなかった」とのこと。
それは日本人も同じことではあるが、日中戦争全体を見た場合、「ビルマ公路=援蒋ルートの遮断」は非常に大きな意味を持つ。
中国人的には、いかに先に近代化した国とは言え、自国の4割程度のGDPしかない日本が7年にわたって海上封鎖し、雲南からまで攻め込まれ、対外ルートの大半を遮断されてしまったショックは凄まじく大きいものと思われる。

騰越戦では、数万人からの一般市民が犠牲になったとも言われ、日中両軍の戦没者とともに哀悼の意を表したい。
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2019年07月13日

拉孟〜大陸における数少ない玉砕地

拉孟(中国では「松山」として知られる)は、よほどの陸軍通でなければ知らない地名だろうが、実は日本軍部隊が大陸で玉砕した数少ない地点の一つであり、インパール作戦に関連して生起した戦闘の一つでもある。

まず歴史から見ていこう。
1942年1月、日本軍はビルマに侵攻、この際、中国政府もビルマに派兵を決定し、4月には新編38師などがビルマ公路を通じて雲南から派遣され、日本軍と交戦するも敗退した。日本軍はそのまま追撃して、中国雲南に進入するも、国民党軍は怒江にかかる恵通橋を爆破して退却した。
日本軍はこの線で停止、以後二年間にわたって怒江沿いに両軍が対峙する。

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右中央の地名の無い丸が拉孟

この恵通橋のすぐ西側にある高地が拉孟である。
恵通橋は当時最重要だった援蒋ルートであるビルマ公路の要衝であり、日本軍は二年間にわたって援蒋ルートを遮断、連合国側はインドのチンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈を越えて昆明へ至る空輸を行うこととなった。これに対し、日本軍はビルマのミートキーナから陸軍の迎撃部隊(いわゆる加藤隼戦闘隊)が飛び立ち、激しい空戦を繰り広げている。

1944年3月、日本軍がインパール作戦を発動、同時期にアメリカ政府が中国政府に対して雲南方面での攻勢を要請した。蒋介石はインパール作戦の始動を見て、4月に攻勢を決断、5月に「雲南遠征軍」の反攻が始まった。
拉孟を守るのは、第113連隊(熊本/福岡)の2800名だったが、中国側の攻勢に備えて分散配置した結果、残っていたのは混成の1280名という有様で、うち300人は傷病療養中だった。
これを指揮するのは、金光恵次郎砲兵少佐だが、当時49歳というロートル中のロートルだった。しかし、現役徴集の一兵卒から特士を経て少尉に任官した後、満州事変から日華事変を戦い続けたという、軍歴30年近い「ヤバいジジイ」である。とはいえ、150cmそこそこしかない上、全く偉ぶるところがなく、部下に対しても「よし、入れ!」などと言うことは無く、「お入りなさい」「どうぞお入り下さい」と言う人格者だったらしい。
これに対し、中国軍は米式装備を持った最精鋭の第1師団を基幹とし、最大時には五個師団5万人近い部隊(国民党軍の一個師団は約7〜8千人、しかも未充足の場合が多い)が動員され、拉孟攻囲戦に当たった。

拉孟は最高地点が2019メートルの超高地にあり(普通は203高地とか112高地が有名)、その最高地点を主陣地として、11000メートル分もの塹壕・地下通路を掘って何重もの堅陣を敷き、100日分の補給物資を集積していた。

中国軍は5月末から攻撃を開始するも、地形上の困難から火力の集中が上手くゆかず、損害を重ねてしまう。
さらに雨季のため攻撃側も補給物資の蓄積が進まず、陣地を一つずつ潰してゆく形でしか進展しない。
一方、日本側はインパール作戦が発動中であったため、援軍を送ることができず、実質見捨てる形になった。
最終的には9月7日に全滅、万歳突撃による玉砕では無く、文字通り死守した後の全滅となった。生還したのは、捕虜になった傷病兵数人(中国側の坑道爆破による気絶の模様)と慰安婦数名、本隊への連絡のために軍命によって脱出した三名のみだったという。
だが、中国側の犠牲は日本軍をはるかに上回る、戦死4000、負傷3774名を数えており、いかに凄まじい戦闘であったかが想像される。
なお、蒋介石は自軍の不甲斐なさに嘆息し、雲南遠征軍に対して、
わが将校以下は、日本軍の松山守備隊あるいはミイトキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命を完うしある現状を範とすべし。戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。

なる檄文を発した。これが日本側では「逆感状」として知られることになる。
なお、現地の第33軍(参謀は辻!)が第2師団を転用して反撃に出たのは9月初めのことだった。

以下、慰霊訪問。
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西側にある駐車場から見た「松山」。

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2013年、「山崎」につくられた記念碑

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「山崎」から主陣地「松山」方面を眺む

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松山と山崎の間の窪みにある貴重な水源。手前は日本軍の塹壕跡。

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「侵略軍」などと書いてある割にデータの出所は防研

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日本軍の地下坑道入口

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西山の(最終)主陣地壕入口に日本酒を奉納

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松山の中腹から見た恵通橋とビルマ公路

2013年にかなり整備されたらしく、歩きやすい山道がつくられ、かなり細かく説明が付されている。
記念碑や入口の大きな看板には、政治性が強い「日本侵略軍が云々」という話が掲げられているが、細かい説明書きはかなり客観的で、概ね

「日本兵は少数にもかかわらず、1万メートル以上も塹壕を掘り、綿密に計算した陣地を構築、一人あるいは二人で壕に立てこもり、死ぬまで戦った」
「中国軍は(何万人もいたのに)1500メートルしか塹壕を掘らなかった」

みたいなことが書かれている。
重要なのは「たくさん塹壕を掘った」「一人で立てこもって戦い続けた」である。
一次大戦以降の軍隊の基本は「穴を掘る」にあるわけで、「穴を掘らない自軍(国民党軍)が勝てるわけが無い」ことを暗示しているのだ。
同時に、訓練が不十分だったり、士気の低い軍隊において、兵卒を一人で壕に入れた場合、90%以上が逃亡、降伏、戦わないのどれかになってしまう。ごく稀に英雄的な兵が一人で戦い続けることは、どこの軍隊でもありうるが、だからこそ「英雄」なのだ。逆を言えば、例外なく一人でも死ぬまで戦い続ける日本軍は「鬼のように強い」ということになるのである。もちろん、捕虜になることが禁じられている倫理的な問題は別の話である。
この政治的メッセージと軍事的評価のアンバランスが非常に興味深い。
とはいえ、国民党軍も坑道爆破を試みたり、アメリカ製の火炎放射器やバズーカ砲まで持ち込んでいるのだから、無能一辺倒とも思えないのだが。

とにかく日本軍の陣地遺構が非常に良い状態で残されており、戦記を読んで、見る者が見れば、非常に納得のいく戦跡になっている。さすがに中までは入れないが、そこは仕方あるまい。

五泊六日で計画した旅で、上海から昆明に飛び、一泊。さらに飛行機で騰衝まで飛び(約600km!)、そこから「松山」までレンタカーで2時間ほどである。私は中国人の知り合いと一緒に来たから良いが、普通はハイヤーを丸一日予約する必要があるだろう。
なお、5泊6日のうち、太陽を見たのはちょうど松山に登った時のみで、あとは雨か曇りばかりだった。特に騰衝は霧が深く、この時期はフライトの半分以上が欠航するということで、実際、帰路は芒市から一日遅れとなった。
別の日だが、車で移動中、凄まじい雨と霧で視界が10〜20メートルあるかないかになってしまい、ノロノロ運転せざるを得ないことが何度かあった。あるインパール作戦の回顧録に、「凄まじい雨で前を歩く戦友を見失った」旨の記述があったが、まさにそれであった。

最後に改めて日中両軍の戦没者に哀悼を捧げたい。

【参考】
楳本捨三『壮烈 拉孟守備隊』 光人社NF文庫(2012)

【追記】
拉孟守備隊は七月末の段階で300名余が残るに過ぎず、それも大半が負傷しており、解囲軍が来援する見込みは立っていなかった。通常の軍隊(国民軍)であれば、降伏が許される環境にあったと考えられるが、日本軍においては許されなかった。この当時、降伏が認められない軍隊は日本が最左派にあったが、基本的にはソ連軍やドイツ軍も同じで、ただ後者は個々人の判断で降伏するケースもあった。
中世においては、籠城した軍隊に対して解囲軍を起こせなかった君主は評価が激減したため、君主が解囲不能と判断した場合は降伏許可を出すのが慣例だった。これは洋の東西を問わない。
近代においては、国民国家が成立したことを受けて、主権者が王から市民・国民へと移行、軍隊の保有者も王から国民の手へと移った。その結果、主権者たる国民を無為に殺害するような作戦行動や軍隊規則は禁じられる傾向にあったが、特に日本とソ連は例外的状況にあった。日本においては軍隊は天皇の私物であり、基本的人権も大きく制限されていたため、兵卒の生命や軍隊の損害を考慮する倫理的根拠が無く、それが酷薄、残虐非道な軍隊を作り上げ、兵員の6割を飢餓と傷病で失ったり、玉砕や自殺攻撃を行わせる背景となった。
だが戦後、それらを犯罪として問う気運は高まらず、戦争犯罪人の追及もまた非常に不徹底に終わったまま、今日に至っている。その弊害は、自衛隊において捕虜になった場合の規定がいまだ作られていないことに象徴される。天皇制と明治帝政が存続する限り、再び同じことが起きる蓋然性は極めて高いだろう。
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2019年07月12日

一年目の後期課程を終えて

成績を提出、一年目の後期課程が終了した。
正確には落第必至の四年生の追試が残っているのだが、見ないことにする。

後期は授業数が一コマ少ない上、出勤数も1日分減っていたため、前期に比べて楽だった。
色々慣れてきたこともあるだろう。とはいえ、授業準備はやはり大変だった。
楽になった部分は、執筆や研究の仕事が入り、結局のところそれなりに多忙ではあった。
前期に比べると、かなり授業にも慣れ、学生の方も慣れてきた感じで、改善点はあるにせよ、大きな不満は無い。
学生からの反応を少し紹介すると、こんな感じ。ネット上でアンケートを作り、SNSを通じて匿名で回答してもらう。日本にいるよりも便利な感じがする。
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「日本事情」も「視聴覚」も十分な成果だろう。
あと作文もあるのだが、こちらは1クラス分だけの担当になるので、少しデータが異なるが、これも問題は無い。

細かいところで指摘も受けたが、おおむね満足してもらえたようで、一年目としては十分すぎる結果だったと考えたい。休暇を通じて、改善点を探っていきたいところだ。

研究分野では、レポートを二本執筆、一本は年末か来年初頭に共著として出版されるということで、中国における私の初業績となる。やはりアカデミズムの世界でも、良い親分に付けるかどうかが大きなカギとなる。
もう一本は、新聞に載せるはずだったが、政治コードに引っかかった模様で(なぜ引っかかるのかよく分からないが)、いまだ難渋している。この辺はやはり中国である。
研究分野は「まだまだこれから」ではあるが、十月には若手研究者の学会で日露関係について報告する機会を頂いているし、一年目として「畑を耕し、種をまく」ことにはまずまず成功したと総括したい。
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2019年07月11日

カネフ(PWG)を初プレイ

今はなき、カナダのPeople's War Games社の「カネフ」を初プレイ。
S&Tでリファインされたものではなく、初版の箱物、1981年製である。
Xさんが日本のイエサブで見つけて買ってきたという。「安かった」というから、やはり中国人の金銭感覚はかなり肥大化しつつある。
私も一時期持っていた気がするのだが、プレイすること無く売ってしまった記憶がある。

1943年9月後半のソ連軍によるドニエプル渡河に際して行われた、赤軍にとって二度目にして最後の降下作戦である。
カネフ橋梁の奪取を目的とし、空挺部隊はドイツ軍による反撃を遅延させるために後方に降下するが、降下のタイミングが遅く、すでにドイツ軍が予備部隊を投入した後になってしまったため、実質的な効果は得られず、カネフ橋梁の奪取にも失敗してしまった。だが、全体としてはドニエプル渡河に成功していたため、部分的な失敗に止まった。

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基本的にはシンプルなルールなのだが(その場でルールを読んでプレイ)、予備の使い勝手が悪かったり、航空優勢がダイス頼みで偏りが大きかったり、そもそもユニットとヘクスが小さかったり、初期配置が凄い分かりづらかったりと、制作年代相応の「古さ」を感じさせる。

私がソ連軍、Xさんがドイツ軍を担当。色々分かりづらい部分を抱えながらのプレイとなった。
ソ連軍はカネフ橋より上流の浅瀬からドニエプル川を渡河するが、一面荒地でちっとも進まない。
ドイツ軍は橋頭堡に対して反撃を試みるが、すぐに無理と判断して、遅滞防御しつつ、カネフ橋から後退を図る。

ソ連軍の空挺降下は夜間か自軍が航空優勢を持っているターンのみにしかできない。
航空優勢は両軍がダイスを振って勝った方が持つため、基本的には半々の確率となる。
だが、空挺降下はまず補給站の降下に成功しないと部隊が降下できない仕組みになっており、最寄りのドイツ軍ユニットから3ヘクス離れているヘクスで、かつ平地で2D6で「6以下」という成功率。
しかも、ドイツ軍が移動する前に降下地点をプロットするため、非常に難しい。
プレイでは、結局3カ所可能なうちの1箇所でしか成功せず、戦力的には一個旅団分の降下に止まり、VPヘクスを何カ所か占領したものの、ドイツ軍に反撃されて奪回されるだけに終わった。まぁ史実と同じと言えるが。

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主攻勢も荒地と平地の境あたりでドイツ軍に戦線を敷かれ、それなりには前進したものの、決定的な戦果は上げられず、全10ターンのうち9ターンまでプレイして時間切れとなった。恐らく点数的には「ドイツ軍の戦術的勝利」だっただろう。これもほぼ史実通りだ。

色々「古さ=粗さ」の目立つ作品ではあるが、テーマやゲーム性としては非常に優れており、現代風に作り直しても良いのでは無いかと思われる作品と言える。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月06日

ブログ休止のお知らせー慰霊の旅につき

本日より一週間ほど更新を休止します。
インパール作戦75周年に関連して「菊と龍」の皆さんの慰霊に向かうためです。
詳しくは戻ってきてから報告します。

ゲームの地図で言うと、こんなルート。
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ISに行こうとしたら私戦予備・陰謀罪?

【私戦予備・陰謀容疑5人書類送検】
 2014年に過激派組織「イスラム国」(IS)に参加するためシリアへの渡航準備をしたとして、警視庁公安部は3日、私戦予備・陰謀容疑で、当時北海道大生だった男性(31)ら5人を書類送検した。公安部は起訴を求める厳重処分の意見を付けた。刑法の施行以降、同容疑の適用は初めて。
 他の4人は、イスラム学者の中田考・元同志社大教授(58)やフリージャーナリストの常岡浩介氏(50)、元北大生と渡航しようとした千葉県の男性、渡航を呼び掛ける張り紙をした古書店関係者の男性。
 容疑は14年8月、共謀して元北大生らがISに戦闘員として参加する目的でシリアへの渡航準備をした疑い。
(7月3日、共同通信)

来月時効を迎えるため、「何もせずに終わらせてやらない」みたいな嫌がらせの送検。だから書類送検になっている。

私戦予備・陰謀容疑は、本来であれば、傭兵や民間軍事会社社員にも適用されてしかるべきものだ。
そもそも犯罪の立証が難しく、「外国に対して私的に戦闘行為をする目的で、武器や資金を準備、陰謀した者」という定義に対し、「ISに参加しようとした」「それを手助けしようとした」という「容疑」を固めるのは無理筋もいいところだろう。

こんなものが立件されるのであれば、私など二度と帰国できなくなるであろう。
法治国家の黄昏というところか。

もともと刑法93条は、征韓論や台湾出兵などの背景がある中で、失業士族が勝手に朝鮮や中国に対して戦闘行為を始めることを戒めるために制定されたもので、だからこそ「自首すれば(減刑ではなく)無罪」となっている。
今日で言えば、勝手に尖閣や北方領土に上陸して、日本の旗を立てたり、戦闘準備を始める連中に対してこそ適用すべきものである。
むしろ「北方領土奪還」を企図して「武力行使」を明言したものこそ、疑わしいのである。
posted by ケン at 00:00| Comment(4) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする