2019年07月13日

拉孟〜大陸における数少ない玉砕地

拉孟(中国では「松山」として知られる)は、よほどの陸軍通でなければ知らない地名だろうが、実は日本軍部隊が大陸で玉砕した数少ない地点の一つであり、インパール作戦に関連して生起した戦闘の一つでもある。

まず歴史から見ていこう。
1942年1月、日本軍はビルマに侵攻、この際、中国政府もビルマに派兵を決定し、4月には新編38師などがビルマ公路を通じて雲南から派遣され、日本軍と交戦するも敗退した。日本軍はそのまま追撃して、中国雲南に進入するも、国民党軍は怒江にかかる恵通橋を爆破して退却した。
日本軍はこの線で停止、以後二年間にわたって怒江沿いに両軍が対峙する。

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右中央の地名の無い丸が拉孟

この恵通橋のすぐ西側にある高地が拉孟である。
恵通橋は当時最重要だった援蒋ルートであるビルマ公路の要衝であり、日本軍は二年間にわたって援蒋ルートを遮断、連合国側はインドのチンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈を越えて昆明へ至る空輸を行うこととなった。これに対し、日本軍はビルマのミートキーナから陸軍の迎撃部隊(いわゆる加藤隼戦闘隊)が飛び立ち、激しい空戦を繰り広げている。

1944年3月、日本軍がインパール作戦を発動、同時期にアメリカ政府が中国政府に対して雲南方面での攻勢を要請した。蒋介石はインパール作戦の始動を見て、4月に攻勢を決断、5月に「雲南遠征軍」の反攻が始まった。
拉孟を守るのは、第113連隊(熊本/福岡)の2800名だったが、中国側の攻勢に備えて分散配置した結果、残っていたのは混成の1280名という有様で、うち300人は傷病療養中だった。
これを指揮するのは、金光恵次郎砲兵少佐だが、当時49歳というロートル中のロートルだった。しかし、現役徴集の一兵卒から特士を経て少尉に任官した後、満州事変から日華事変を戦い続けたという、軍歴30年近い「ヤバいジジイ」である。とはいえ、150cmそこそこしかない上、全く偉ぶるところがなく、部下に対しても「よし、入れ!」などと言うことは無く、「お入りなさい」「どうぞお入り下さい」と言う人格者だったらしい。
これに対し、中国軍は米式装備を持った最精鋭の第1師団を基幹とし、最大時には五個師団5万人近い部隊(国民党軍の一個師団は約7〜8千人、しかも未充足の場合が多い)が動員され、拉孟攻囲戦に当たった。

拉孟は最高地点が2019メートルの超高地にあり(普通は203高地とか112高地が有名)、その最高地点を主陣地として、11000メートル分もの塹壕・地下通路を掘って何重もの堅陣を敷き、100日分の補給物資を集積していた。

中国軍は5月末から攻撃を開始するも、地形上の困難から火力の集中が上手くゆかず、損害を重ねてしまう。
さらに雨季のため攻撃側も補給物資の蓄積が進まず、陣地を一つずつ潰してゆく形でしか進展しない。
一方、日本側はインパール作戦が発動中であったため、援軍を送ることができず、実質見捨てる形になった。
最終的には9月7日に全滅、万歳突撃による玉砕では無く、文字通り死守した後の全滅となった。生還したのは、捕虜になった傷病兵数人(中国側の坑道爆破による気絶の模様)と慰安婦数名、本隊への連絡のために軍命によって脱出した三名のみだったという。
だが、中国側の犠牲は日本軍をはるかに上回る、戦死4000、負傷3774名を数えており、いかに凄まじい戦闘であったかが想像される。
なお、蒋介石は自軍の不甲斐なさに嘆息し、雲南遠征軍に対して、
わが将校以下は、日本軍の松山守備隊あるいはミイトキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命を完うしある現状を範とすべし。戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。

なる檄文を発した。これが日本側では「逆感状」として知られることになる。
なお、現地の第33軍(参謀は辻!)が第2師団を転用して反撃に出たのは9月初めのことだった。

以下、慰霊訪問。
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西側にある駐車場から見た「松山」。

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2013年、「山崎」につくられた記念碑

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「山崎」から主陣地「松山」方面を眺む

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松山と山崎の間の窪みにある貴重な水源。手前は日本軍の塹壕跡。

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「侵略軍」などと書いてある割にデータの出所は防研

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日本軍の地下坑道入口

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西山の(最終)主陣地壕入口に日本酒を奉納

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松山の中腹から見た恵通橋とビルマ公路

2013年にかなり整備されたらしく、歩きやすい山道がつくられ、かなり細かく説明が付されている。
記念碑や入口の大きな看板には、政治性が強い「日本侵略軍が云々」という話が掲げられているが、細かい説明書きはかなり客観的で、概ね

「日本兵は少数にもかかわらず、1万メートル以上も塹壕を掘り、綿密に計算した陣地を構築、一人あるいは二人で壕に立てこもり、死ぬまで戦った」
「中国軍は(何万人もいたのに)1500メートルしか塹壕を掘らなかった」

みたいなことが書かれている。
重要なのは「たくさん塹壕を掘った」「一人で立てこもって戦い続けた」である。
一次大戦以降の軍隊の基本は「穴を掘る」にあるわけで、「穴を掘らない自軍(国民党軍)が勝てるわけが無い」ことを暗示しているのだ。
同時に、訓練が不十分だったり、士気の低い軍隊において、兵卒を一人で壕に入れた場合、90%以上が逃亡、降伏、戦わないのどれかになってしまう。ごく稀に英雄的な兵が一人で戦い続けることは、どこの軍隊でもありうるが、だからこそ「英雄」なのだ。逆を言えば、例外なく一人でも死ぬまで戦い続ける日本軍は「鬼のように強い」ということになるのである。もちろん、捕虜になることが禁じられている倫理的な問題は別の話である。
この政治的メッセージと軍事的評価のアンバランスが非常に興味深い。
とはいえ、国民党軍も坑道爆破を試みたり、アメリカ製の火炎放射器やバズーカ砲まで持ち込んでいるのだから、無能一辺倒とも思えないのだが。

とにかく日本軍の陣地遺構が非常に良い状態で残されており、戦記を読んで、見る者が見れば、非常に納得のいく戦跡になっている。さすがに中までは入れないが、そこは仕方あるまい。

五泊六日で計画した旅で、上海から昆明に飛び、一泊。さらに飛行機で騰衝まで飛び(約600km!)、そこから「松山」までレンタカーで2時間ほどである。私は中国人の知り合いと一緒に来たから良いが、普通はハイヤーを丸一日予約する必要があるだろう。
なお、5泊6日のうち、太陽を見たのはちょうど松山に登った時のみで、あとは雨か曇りばかりだった。特に騰衝は霧が深く、この時期はフライトの半分以上が欠航するということで、実際、帰路は芒市から一日遅れとなった。
別の日だが、車で移動中、凄まじい雨と霧で視界が10〜20メートルあるかないかになってしまい、ノロノロ運転せざるを得ないことが何度かあった。あるインパール作戦の回顧録に、「凄まじい雨で前を歩く戦友を見失った」旨の記述があったが、まさにそれであった。

最後に改めて日中両軍の戦没者に哀悼を捧げたい。

【参考】
楳本捨三『壮烈 拉孟守備隊』 光人社NF文庫(2012)

【追記】
拉孟守備隊は七月末の段階で300名余が残るに過ぎず、それも大半が負傷しており、解囲軍が来援する見込みは立っていなかった。通常の軍隊(国民軍)であれば、降伏が許される環境にあったと考えられるが、日本軍においては許されなかった。この当時、降伏が認められない軍隊は日本が最左派にあったが、基本的にはソ連軍やドイツ軍も同じで、ただ後者は個々人の判断で降伏するケースもあった。
中世においては、籠城した軍隊に対して解囲軍を起こせなかった君主は評価が激減したため、君主が解囲不能と判断した場合は降伏許可を出すのが慣例だった。これは洋の東西を問わない。
近代においては、国民国家が成立したことを受けて、主権者が王から市民・国民へと移行、軍隊の保有者も王から国民の手へと移った。その結果、主権者たる国民を無為に殺害するような作戦行動や軍隊規則は禁じられる傾向にあったが、特に日本とソ連は例外的状況にあった。日本においては軍隊は天皇の私物であり、基本的人権も大きく制限されていたため、兵卒の生命や軍隊の損害を考慮する倫理的根拠が無く、それが酷薄、残虐非道な軍隊を作り上げ、兵員の6割を飢餓と傷病で失ったり、玉砕や自殺攻撃を行わせる背景となった。
だが戦後、それらを犯罪として問う気運は高まらず、戦争犯罪人の追及もまた非常に不徹底に終わったまま、今日に至っている。その弊害は、自衛隊において捕虜になった場合の規定がいまだ作られていないことに象徴される。天皇制と明治帝政が存続する限り、再び同じことが起きる蓋然性は極めて高いだろう。
posted by ケン at 12:00| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする