2019年07月14日

騰越戦75周年で慰霊

今回の慰霊旅行の第二の目的地は騰越、現在の騰衝市である。
ミャンマー国境に近い町で、17世紀につくられ、早々に清王朝に追われた明の王族が最後に逃げ込んだ街としても知られる。日本で言えば、吉野や十津川のようなイメージかもしれない。基本的には華僑がミャンマーを通じた交易を行うために集まってできたため、漢民族の割合が高いが、周辺の少数民族も居住している。
位置的には、ミートキーナに通じる道の途上にあるため、重要拠点となる。

しかし、街は高地に囲まれた盆地にあり、周辺高地と飛行場を守らなければならず、およそ防衛には適さない地形である。
もともと歩兵148連隊を基幹に約3千人の混成部隊が守備についていたが、インパール方面の後方に降りた英チンディット部隊掃討のために約千人が抽出され、2千人で中国軍の到来を待つところとなった。来襲した中国軍は五個師団、五万人を数え、兵力差は25倍に達した。
6月末に周辺高地に対する攻撃が始まり、遅滞戦術を講じるも、7月末には要塞化した騰越城に籠城、さらに一ヶ月半戦い続け、9月13日、最後の70名が万歳突撃を敢行、玉砕した。
この騰越の場合も、8月21日にはまだ600名超が存命で、食料も弾薬もほぼ尽きており、戦闘機によるわずかな空中投下で凌いでいた有様だった。少なくとも、この600人は日本独特の軍事思想によって死ぬことが強要されたと言えよう。
もっとも、中国側の損害は戦死9千人超、負傷1万人で、日本側の10倍近い損害を出している。
また、中国軍とインド方面連合軍が手を結ぶのは、翌1945年1月21日のことだったという。

騰衝市では、市内にある戦没者墓苑と抗日戦争記念館を訪問。
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小高い丘の上にある中国軍の戦没者慰霊塔、白酒を供え、黙祷

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丘の周囲には9千柱からの慰霊碑が並ぶ

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「飛虎」こと、フライング・タイガースの米軍属戦死者の慰霊碑

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国民党軍の李根将軍が建立した日本兵の慰霊碑だが、このネーミングはいささか「平将門の首塚」みたいな感じで、どうにも・・・・・・
日本酒を供えて黙祷を捧げ、振り向いてみると、中国人の集団に囲まれそうになっていた!
中国人の同行者がいたからセーフだったかもしれないが、まだまだ危険かもしれない。
やはり行き過ぎた愛国教育は危険極まりない。

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抗日戦争記念館だが、日中戦争全体を扱っており、巨大な割に騰越戦、雲南戦役のエリアは一部に留まる。
日本陸軍が保山や騰越に対して空襲した際、炭疽菌やペスト菌を入れた弾頭を投下した、とのこと。
フライング・タイガースの展示がやけに充実していた。

同行した二人の30代の中国人は、それぞれ上海と福建の出身だが、二人とも「雲南でこんな戦争が行われていたとは知らなかった」とのこと。
それは日本人も同じことではあるが、日中戦争全体を見た場合、「ビルマ公路=援蒋ルートの遮断」は非常に大きな意味を持つ。
中国人的には、いかに先に近代化した国とは言え、自国の4割程度のGDPしかない日本が7年にわたって海上封鎖し、雲南からまで攻め込まれ、対外ルートの大半を遮断されてしまったショックは凄まじく大きいものと思われる。

騰越戦では、数万人からの一般市民が犠牲になったとも言われ、日中両軍の戦没者とともに哀悼の意を表したい。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする