2019年08月15日

結局野合、そして「れいわ」へ?

【野田氏ら、会派合流へ立憲と協議=消費増税で溝も】
 野田佳彦前首相が代表を務める衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」は9日、国会内で総会を開き、立憲民主党から提案された会派合流に応じる方向で協議を進める方針を確認した。
 同じく合流を提案された国民民主党の動向を見極めつつ、10月召集が想定される臨時国会までに最終判断する。
 野田氏は総会後、記者団に「会派の合流に向けたプロセスに入ることで意見集約した」と説明。「野党の固まりを大きくしていくことには総論として賛成だが(合流後の会派の)運営、名称など分からない部分もある」と述べ、立憲との協議で詰める意向を示した。
 国民会議幹部は「われわれだけで立憲と組むことはあり得ない」と語っており、国民民主と歩調を合わせる考えだ。
 国民会議は1月、前身の会派「無所属の会」のうち、立憲会派に合流しなかった議員が中心になって結成した。所属議員は8人。野田氏は首相として推進した消費税増税による財政健全化を重視しており、先の参院選で「増税凍結」を掲げた立憲とどう折り合うかが課題となる。
 一方、国民民主は9日の総務会で、衆参両院での統一会派結成を条件に立憲との協議に入る方針を決めた。
 国民民主に所属する小沢一郎元民主党代表らは、2012年に野田政権の増税方針を批判して集団離党した。野田氏は「(小沢氏とは)その後もコミュニケーションを取っている」と関係修復を強調したが、野党内には旧民主党で絶えなかった内部抗争の再燃を懸念する声もある。 
(8月10日、時事通信)

「数合わせはしない」「永田町の論理から脱却する」「政策本位で闘う」などはずっと民主党の頃から立憲民主党に至るまで連中が言ってきたことだが、その全てを反故にしようとしている。

菅・野田と小沢は消費増税をめぐって対立、分裂したはずだが、増税に対するスタンスはどうなったのか。
野田は増税のスタンスを保っているが、菅に至っては増税反対を主張していると言うから、「バルカン政治家」どころか「聖戦貫徹」から「平和主義者」に鞍替えした社会党創世記の連中を思わせる。せめて「なぜスタンスを変えたのか」の説明や反省があればまだ誠意もあるが、それすら無いのだから、政治家として安倍などよりよほど邪悪である。こういう失敗者で誠意の無い連中が個人的名声や地域的人気によって何度も再選されてしまうところに、小選挙区制の弊害が見て取れる。

立民と国民、その他の分裂は基本的には政策に対するスタンスの違いに起因していたはずだ。
特に原子力・核と安全保障、そして憲法がそれだ。
「核推進」「対米軍事協力強化」「独自の軍事力強化」「憲法改正」などを志向した「希望の党」の残党が民進党の基盤を引き継いで後継となったのが国民民主党で、それに対して「核放棄」「対米軍事協力の限定(アジア志向ではない)」「軍事力強化に否定的」「憲法改正に否定的」でかつ「旧民主党のリベラル路線(ネオリベ含む)を引き継ぐ」としたのが立憲民主党だった。
そもそもどう見ても同じ政党であること自体が異常で、分裂して落ち着くところに落ち着いたはずだが、「小会派では何もできない」として議会内会派の統一を試みるのは、「数合わせ」「永田町の論理」そのものでしかない。
同一会派となった場合、同じ会派の委員が「原発ゼロ」を主張したすぐ後に、「核の再開」を要請するといった展開が必ず起こるだろう。それに対して、国民にどう説明し、誰が責任を取るのか。この一点を想像しただけでも、この連中に議席を与え議会活動する機会をくれてやること自体、避けねばならないだろう。

その場合、「どうせ政権交代の可能性の無い批判勢力というだけなら、れいわの方がマシ」ということになり、政権批判票はさらに「れいわ」に向かう可能性が高い。
まぁ20世紀の遺物のような旧民進党系列は一刻も早く消滅した方が良いとは思うが、さりとて現実性と組織を否定する「れいわ」に未来があるわけでもなく、「選択肢が無い」絶望的状況がいましばらく続きそうな気配である。
posted by ケン at 12:00| Comment(7) | 政局ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月14日

CCPでニューギニア、ギルバート、ビルマ

K先輩とGMT「Combat Commander Pacific」をプレイ。
日本語ルールが出ていたCCはともかく、日本語訳の無いCCPはルールが微妙に違うこともあって、さらにプレイされていない模様。
ケン先生的にはモラル回復の方法などはCCPの方が良いと思っており、微妙な改善点があるのだが、拡張シナリオが1セットしか出ていないこともあって(買い損ねたら凄い値段になっていた)、色々惜しい気がする。

この日は三本のシナリオをプレイ。ケン先生が連合軍を持つ。
ニューギニアのオーエン・スタンレー山脈を越えた日本軍が豪州軍と遭遇するもの。
豪州軍はそれなりに反撃し、逆撃・逆突破を行うものの、日本軍の損害を顧みない白兵戦術の前に損害を増やし、点数的には負けていなかったのだが、損害が許容度を超えてしまって退却、敗北した。
日本軍には「損害許容度」の概念が無いところが怖い。

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ギルバート諸島上陸戦はタラワが有名だが、CCPではマキン島の戦いを再現。史実的には2日の戦いで約700人(朝鮮軍属を含む)が玉砕している。
日本軍はただでさえ少ない戦力の半分をジャングルに潜ませ、後は壕に籠もる形。
米軍は身を隠す地形が少ない中で前進を強いられる。
米ドラマ「パシフィック」を思い起こすような日本軍の連続射撃に米海兵隊は何度も前進を止められる。
しかし、「カード切れ」となった頃を見計らって前進を再開、火炎放射器で一つずつ壕を焼いていくことに成功、日本側の投了となった。
日本軍はジャングルに潜む伏兵を活用して、逆突破を試みたり、海兵隊の足止めを行ったりする必要があったのだが、上手くできなかった。貴重な狙撃兵が早々に倒されてしまったことも大きい。
日本軍は面白いのだが、通常ルールとは異なる運用があるので、熟練が必要かもしれない。

ビルマは退却予定の英チンディット部隊が、行軍中の日本軍を発見、奇襲攻撃を仕掛けるというもの。
英軍は多くの負傷兵を抱えたまま戦闘を開始し、日本軍は長く伸びきった隊列が奇襲される。
英軍は奇襲攻撃を行うも、十分な効果を上げられず、日本軍の再編を許してしまうも、再編が整う前に各個撃破に成功する。
日本軍は部隊の収拾には成功するも、指揮官ごとに三つに分断され、最大戦力がジャングル内の英遊兵を追い回す展開になってしまう。
結局時間切れで英軍の優勢勝利となったが、日本軍が当初の予定通りマップ端から普通に脱出していたら、日本軍が勝っていたと思われる。

CCのような中距離の射撃戦があまり起きないのがCCPの特徴で、それだけに少し特殊な感覚が必要となる(白兵戦のリスクを取る必要など)。
この独自色が評価の分かれるところなのだろうが、私的には十分面白いと思う。

【追記】
全訳する気力は無かったので、とりあえず「CCとCCPの相違点について」なる文書をまとめました。
CCに慣れた人なら、本文でCCPもプレイできると思うので、興味ありましたらご連絡ください。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月13日

『二百三高地 愛は死にますか』

今となっては忘れ去られているようだが、かの名作映画『二百三高地』にはTVドラマ版がある。
映画公開の翌1981年1月〜2月に放送されたものだ。
骨格は映画版を踏襲、脚本も基本的には変更せず、時間的に全8回分に増えた分のエピソードが追加されている。
追加された分の多くは銃後の人間関係に費やされ、第七連隊(金沢)の中隊兵士の家族や恋人などが細かく描かれている。乃木の家族についても同様。
軍関係でも、南山攻略や海軍との関係が追加され、全体像がわかりやすくなっている。

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大きく異なるのは配役で、主人公の小賀少尉役があおい輝彦から永島敏行に、恋人の松尾役が夏目雅子から坂口良子に、乃木希典が仲代達矢から田宮高広に、明治帝が三船敏郎から(現)松本白鴎(当時は市川染五郎)などになっている。
この配役の違いをどう評価するかが、大きなポイントとなるわけだが、どうしても映画版で記憶がプリンティングされているため、マイナス評価になりがちだ。特に夏目雅子が良すぎただけに……
とはいえ、田宮高広の乃木は絶品で、最近再評価されつつあることを含め、「乃木はこれだよ!」と快哉を上げたくなるほど成りきっている。
明治帝も三船がやると三船になってしまう点で染五郎の方が良く、むしろそっくりさんみたいになっている。

また、銃後の描写が増えた分、いささか「お涙ちょうだい」化が見られるものの、ケン先生が「ゴールデンカムイの背景にある日露戦争症候群」で描いた日露戦争症候群の要素が多分に追加され、NHKが制作した「坂の上の雲」のような英雄万歳作品とは一線を画している。
この点は庶民目線の笠原和夫ならではであるが、笠原のドライな視点が薄めなのは残念だ。
しかし、映画を含め本作は当時、「戦争賛美」「右翼映画」と非難されたそうだが、左翼の私が見てもサッパリ理解不能だ。やはりNK党は禁止すべきなのだろうが、それは良い。

乃木や第三軍司令部の描写も、当時は既に司馬史観が蔓延し「無能」の評価が定着していたはずだが、今見てみると意外と中立的に描かれており、「さすが笠原和夫」と言いたくなってしまう。例えば、乃木は必ずしも正面突撃に賛成では無かったが、砲弾不足と周囲(上)からの要請によって、他に選択肢が無くなってしまった点など、良く描かれている。

1960〜70年代の戦争映画のような熱量は無いし、現代の戦争映画のような再現性も無いわけだが、人間ドラマとしてはやはり良くできた作品だと思う。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月12日

日本暗殺秘録

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『日本暗殺秘録』 中島貞夫監督 東映(1969)

今日では半ば忘れ去られているが、「昭和動乱+笠原和夫」というマニアには垂涎ものの一作。
幕末の桜田門外の変(井伊大老)に始まり、明治期の紀尾井坂の変(大久保内務卿)、大隈重信暗殺未遂事件、星亨暗殺事件、大正期の安田善次郎暗殺事件、ギロチン社事件(アナキストによるテロ)を経て、昭和初期の血盟団事件、相沢事件、二・二六事件と繋がる一連のテロリズム史を、オムニバス形式で描いている怪作である。
オムニバス形式なので、言ってしまえば再現ドラマの連続のような感じだが、一応血盟団事件が本筋のような感じで映画の骨格をなしている。
つまり、血盟団事件のみがきちんとしたドラマになっており、後は暗殺シーンだけなので、全体としての作品のバランスは非常に悪い。人によっては「これは何の映画なの?」と思ってしまうかもしれない。が、そんなことはマジでどうでもいい。

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なんと言っても『二百三高地』や『仁義なき戦い』など昭和を代表する脚本家の笠原和夫が脚本を担当。
そして、贅沢すぎる役者群が凄すぎる。
テロリスト役として、若山富三郎(桜田門外の変における有村次左衛門)、安田善次郎を殺害する朝日平吾役は菅原文太、五・一五事件の精神的指導者である藤井斉海軍大尉は田宮次郎、血盟団事件の小沼正は千葉真一、永田鉄山を惨殺する相沢三郎少佐に至っては高倉健である。これらの人々が次から次へと「天誅!」「奸賊!」とやるのだから、(悪い意味での)高揚感が半端ない。菅原文太や高倉健などは、出てきていきなり「天誅〜〜!」して次のシーンに移ってしまうのだが、恐ろしくカッコ良く描かれている。

当時、本作を見た反左翼の若者がこぞって右翼に入ろうとしたらしく、当時まだ存命だった小沼正から感謝され、「テロリズムを助長する」と非難され、公開規制まではされなかったものの、マスメディアからは完全に無視され、口コミでしか広がらなかったという曰くがある。
批判を受けた中島監督は「右翼やテロを美化する意図は無かった」と弁解したそうだが、「いや、それは無理ってもんでしょ」と言いたくなるくらい、真に迫っている。

血盟団事件と昭和動乱がナゾ過ぎるのは、井上準之助を殺害した小沼正や団琢磨を射殺した菱沼五郎が無期懲役となりながら、1940年には恩赦(法律上、殺人・殺人未遂には恩赦は不適用だった)で出獄、戦後もそのまま活動し続けている点にあるが、笠原はきちんと取材しており、テロリストの実像に迫っている。

映画作品としての完成度は低く(バランスが悪すぎる)、テーマ的にも問題ありまくりなのだが、現代作品では再現(演技)不能な熱量を誇っており、少しでも興味を持った者は是非ともGYAOなどで見て欲しい。

【追記】
いわゆる血盟団事件(本人らはそう名乗っておらず、検事がつけた名称)に際してテロに賛同した20〜30人ほどの集団には、東大生が四人、京大生が三人いた。この点、現代では理解しづらいことだが、理解・受容できないと、この時代のことは理解できない。
また、相沢事件(永田鉄山暗殺)に際して、相沢少佐は永田局長を斬殺した後、そのまま任地に赴任するつもりだったが、実行時に興奮していたためか自身もけがをしてしまい、医務室で施療を受けていたところを憲兵に拘束されたという。殺害後、陸軍省内では大騒ぎになったが、根本新聞班長や山下奉文調査部長らが「良くやった!」などと激励、拘束された憲兵詰所においてすら「握手してください!」と人が集まったという。こうした空気感が想像できないと、昭和の時代は理解できない。とはいえ、現代もそれに近い雰囲気が醸成されつつある。
posted by ケン at 10:39| Comment(0) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月10日

「令和維新」フェイズに突入?!

【ガソリン散布し着火…少女像、展示中止後も脅迫】
 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、いわゆる従軍慰安婦を象徴する少女像の展示が中止された問題について、実行委員会会長を務める大村秀章県知事は5日、定例記者会見で、中止以降も「ガソリンを散布して着火する」という脅迫メールなどが届いていることを明らかにした。県によると苦情や意見の電話やメールなどは4日現在で約3300件に上るという。
 県などによると、ガソリンを散布するとしたメールは5日朝、県庁や県内の自治体に届き、京都アニメーションで起きた放火殺人事件に触れながら、芸術祭会場や県内の学校など複数箇所を名指しし、放火するとしていた。少女像展示との関連を明らかに示す内容はないというが、県は県警に通報し、県教育委員会は学校に注意を呼びかけた。県警は威力業務妨害や脅迫の疑いを視野に、県からの相談に対応している。
 また、大村知事は会見で、「展示内容を事務局が知ったのが4月中旬で、私に報告があったのは6月半ばだった」と、経緯を改めて説明した。
 その際、「希望、要望は強く申し上げた」としたが、「作品の内容について許可、不許可を私がすることはできない」と主張。「税金や補助金が入っているから許されないとの論調があるが、行政が作品内容に踏み込めば検閲ととられかねない」と述べるなど、「行政こそが表現の自由を守るべきだ」と持論を展開した。
 展示中止となった「表現の不自由展・その後」の運営メンバーらは、「一方的に中止を決められた」と反発しており、6日に大村知事宛ての公開質問状を提出するほか、法的手段も辞さない姿勢を示している。さらに県によると、芸術祭に出展している韓国人の作家が作品を撤去したいと申し出ているといい、県で理由を確認したうえで、津田大介芸術監督らとも相談しながら対応する。
 トリエンナーレ実行委で会長代行を務める名古屋市の河村たかし市長は5日の定例記者会見で、事前に展示内容を知らなかったとした上で、「どういう過程で少女像を設置することになったのか、きちんと調査するよう担当部局に指示した」と述べた。
 河村市長は2日、自身で少女像を視察し、「国民の心を踏みにじる行為で、展示の中止を含めた適切な対応を求める」とする文書を大村知事宛てに提出していた。
 これに対し、大村知事は「河村市長の発言は憲法違反の疑いが極めて濃厚」と反論した。
(8月6日、読売新聞)

自治体が憲法擁護イベントへの会場提供を拒否し、慰安婦像の展示が暴力的脅迫と自治体首長からの圧力によって中止される時代になった。
直接的な暴力こそ伴っていないものの、滝川事件や美濃部事件(天皇機関説)を彷彿とさせられる。民主党系の首長が歴史修正と排外主義に積極的で、自民党系の首長が憲法と自由を擁護するという構図も非常に象徴的だ。
ガソリン云々の話は、京都アニメーションに対するテロリズムに感化されてのものと思われるが、テロリズムの本質が「恐怖の伝播」にあることを思えば、テロの狙いは達成されつつある。

今回の場合、テロを示唆した脅迫によって平和運動を封じつつ、日韓あるいは日中関係のさらなる悪化を促進することに成功した。
日韓関係については、徴用工問題に端を発する政府の経済制裁モードに対して、国民の7割近くがこれを支持、排外主義への熱狂が加速しつつある。仮に日韓戦争が勃発した場合、国民の大多数が熱狂的に支持して、「現行憲法なんて機能停止で良い」と言い出しそうな勢いにある。
少し過去ログを引用しながら、テロリズムの復習をしておこう。
1935年2月、貴族院で菊池武夫議員が美濃部達吉議員(東京帝大名誉教授)の天皇機関説を攻撃したことに始まり、「国体を否定するもの」「国賊」「学匪」などといった非難、攻撃が激化、美濃部家には続々と脅迫が届き、本人や家の周囲に不審者がつきまとうようになった。甚だしきは、文部省から「右翼テロに注意するよう」旨の警告に続いて「転向」を求める文書までが来たと言われる。
ところが、実際には美濃部説は当時の学界、官界における通説で、官僚採用のための高等試験も全てこれに基づいていた。しかも、当の貴族院では美濃部が自説を説明したところ、大きな拍手が起きて理解を得たはずだった。にもかかわらず、美濃部は不敬罪で告発され、マスゴミの攻撃にさらされ続け、ついには貴族院議員を辞任、その後右翼テロリストに銃撃されて重傷を負った。その間、政府は「国体明徴声明」を出して美濃部説を否定している。恐ろしいことに、美濃部を負傷させた銃撃犯はついに逮捕されず、同じく銃撃し命中しなかった犯人は懲役3年で済んでいる。
これら右翼人士の多くは、「天皇を機関車呼ばわりするとは何事だ」程度の理解だったと言われる。昭和帝が自ら「天皇機関説の何が問題なのか」と言い、取調べに当たった検事はみな美濃部の教科書を読んで受験していたのだから、今日から見ればナゾすぎる事件だったわけだが、当時はそういう世相だったのである。

一般的にテロリズムと言えば、一連の9・11テロや中東における自爆テロ、あるいは日本の地下鉄サリン事件などが思い出され、社会に対して直接的被害を与えることが目的であるかのように考えられており、政府やマスコミもそのように捉えている。だが、本来のテロルの効用は、文字通り社会・大衆に「恐怖」を植え付け、熱狂を促進させ、価値観の変容を強制することにある。

昭和のテロリズムは、個々の政治家や財界人や学者を死傷させたことではなく、明治憲法に明文化されていない多元支配の構造(明治末年から大正期にかけて理論化された)を否定し、天皇による一元支配と擬装された軍部支配を実現した点に真の効果がある。同じ意味で、大正期の国際協調主義を否定し、軍国主義を促進させた点も大きい。テロルの副次的効果として、マスコミが便乗して大衆を扇動、リベラル派の知識人が沈黙し、官僚が自らこぞって国家主義・軍国主義に転向していった。また、(左翼)テロに対する警戒を理由に治安維持法などが制定されて恐怖支配が正当化された。

ここで問題なのは、テロルが大衆の熱狂と暴力の容認を生み出す点である。1932年の血盟団事件では、茨城県の若者らが井上準之助前蔵相と団琢磨三井財閥総帥を暗殺したが、裁判に際しては30万通を超える減刑嘆願書が届き、犯人を英雄視する傾向が広まっていった。続く5・15事件では、首相官邸が襲撃されて総理大臣が暗殺されるが、犯人の裁判には100万通を超える減刑嘆願書が届き、嘆願のための自害まで起きた。その結果、反乱罪は適用されず、共同謀議による禁固刑に終わった。
アメリカにおける9・11事件に際しては、米国内でイスラムに対する憎悪がかき立てられ、アフガニスタン侵攻に対する支持は軽く9割を超え、市民権や人権を制限する愛国法の採決に際して上院で反対したのはわずか1名に止まった。
1930年代のソ連における大粛清も、その発端は大衆的人気のあったキーロフが暗殺されたことで、スターリンが犯人捜しを始めたことにある。

オルテガ・イ・ガセは『大衆の反逆』で大衆社会を、ある価値観が社会を構成して大衆を啓蒙するのではなく、「何となく多数」の価値観が基準として「何となく」共有されている社会であると規定している。そこでは「皆が言っていること」が常識で、「皆が信じていること」が真理で、「皆が望んでいること」が希望、ということになる。
テロリズムは、この「何となく」と「皆」を強制的に変容させる力を持っている。何となく共有されていた天皇機関説は暴力的に否定され、リベラル派の知識人が沈黙することで天皇主権説が「皆」となり、軍拡と侵略が「希望」へと変わっていった。
アメリカでは、国際協調主義と寛容の精神が否定され、対テロ戦争の貫徹が「真理」となり、そのために市民的権利が制限されるのは「常識」となった。
テロルの効用について、2014.10.2)

今回の展示を見た場合、ただの「少女像」が置かれているだけで、慰安婦を想起させることが目的とは言え、その展示が「表現の自由を上回る、排外主義や人種差別扇動あるいはそれに相当する公共の福祉に反する」という問題提起は相当に無理がある。
また、こうしたテロ攻撃の予告に対して警察が機能しなかったことも、「左翼の弾圧には熱心だが、右翼テロには寛容」と言われた戦前期を彷彿とさせる(史実的には微妙なところだが)。

こうなってくると、右翼は平和運動や左翼運動に対する攻撃が「認められた」「公権力の支持がある」としてさらに加速させてゆくだろうし、左翼・リベラルもまた「弾圧と暴力に対しては相応の対応が必要だ」ということになり、運動を過激化させてゆくかもしれない。
そうなると、政府としてはこれを口実に社会統制を強化することになるだろう。226事件が軍部独裁と戦時体制の確立に直結したことを思えば、十分現実的な話だ。

美濃部事件が起きた1935年に10年後の日本を想像できたものは誰もおらず、その美濃部は戦時中は吉祥寺に住んでいたが、近くに中島飛行機の工場があったため(現ICU)、頻繁に爆撃を受け、そのたびに家鳴り震動して窓ガラスが割れたが、頑として座敷から離れようとせず、決して防空壕には入らなかったという。

【参考】
山崎雅弘「天皇機関説」事件

【追記】
1950〜70年代の戦争映画を見ると、慰安婦なんてごく普通に描かれており、それに対して保守派や旧軍関係者が抗議したなどということは無かったように思える。むしろ戦争体験者が急減して、戦争や明治帝政に対する美化と民族差別が進んでしまっているのではなかろうか。
posted by ケン at 12:00| Comment(5) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月09日

工作 黒金星と呼ばれた男

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『工作 黒金星と呼ばれた男』 ユン・ジョンビン監督 韓国(2018)

韓国のスパイ映画だが、従来の作品とはかなり毛色の異なる、現代ならではの作品。
北朝鮮において核開発が疑われた1992年、ある陸軍少佐が国家安全企画部にスカウトされ、北朝鮮への潜入捜査を命じられる。
その任務は「核開発の現状を把握する」「寧辺への潜入を試みる」「できる限り地位のある高官に接触する」で、いずれも尋常ならざる難易度の任務である。



前半はオーソドックスなスパイ映画の展開だが、後半は様相が変わってくる。
主人公は事業家に擬装して北朝鮮の対外経済部と接触を試みるが、利用し利用される関係の中で、擬装だったはずの民間事業が「南北融和の象徴」になっていってしまう。
さらに、対北諜報活動と言いながら、国内政治に関与して保守党を裏から支え、そのために北の軍部などと取引する安企部に対し、主人公は疑問を持つようになる。
そして、金大中が出馬する1997年の大統領選を迎え、クライマックスとなる。

ストーリー展開も描写も大胆かつダイナミックで、非常に見応えがある。
スパイ活動のディテールも緻密に描かれ、、演技も抜群で、グイグイ物語に引き込まれて行く。
音楽や演出で盛り上げるのでは無く、ストレートに演技で勝負しているところは高く評価したい。

本作の最大の特徴は、北を「悪」として描くのでは無く、可能限り中立的に描いている点にある。
善悪の単純な対立構造ではなく、「利害の一致」「交渉による妥協と融和」「善の中の悪、悪の中の善」など南北を巡る複雑な関係性も見事に描かれているのは、2018年という時代を表しているのだろう。」
北側の担当者たちも体制の人間とは言え、みな「一人の人間」として描かれ、みな様々な思いを心に秘め、ふとしたきっかけで露呈される。
その辺の描写がまた絶妙で、「上手すぎる」としか思えない。
同時に平壌などの再現度が半端なく、金正日役も非常に納得度の高い再現度で感動すら覚えるほど。
色々「なるほど、こうなっているのか!」と思わせるところが非常に多く、映画とは思えないくらいだった。

久しぶりに映画館でもう一度見てみたいと思える作品を見た気がする。
超お薦めである。

【追記】
本作を見ると、日本で国政選挙が近くなるたびに「飛翔体」が発射されるのは、官房機密費が北に流れているためであることが容易に想像さよう。
posted by ケン at 10:28| Comment(2) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月08日

再戦!GMT「Stalin's War」

世評の評判は酷いながらも、個人的には高く評価しているGMT「Stalin's War」を再戦。
10時に集まり、ルールを再確認しながら18時近くまでプレイして1942年春の終わりまで。
いかんせん「カードドリブンとヘクスの折衷」という独特なルールなので時間が掛かったが、慣れればもっとサクサク進めそうだ。

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今回は独軍をO先輩に持ってもらい、ケン先生がソ連。
1941年夏の終わりにはモスクワ前面の森ヘクスにドイツ装甲軍が突入、カリーニンまで占領され、「やっぱりダメか?」と思ったものの、案の定、歩兵が追いつかず、キエフとレニングラード方面はほぼ手つかずで、リガすら落ちていないという、かなり歪な「バルジ」状態になっていた。
結局ドイツ軍は戦力不足でモスクワを攻めるには至らず、冬に備えて戦線を整理。
ソ連側はカードの巡りが良く、早々に登場したシベリア軍団で反撃してドイツ軍にいくらか損害を与えるも、攻勢を続けるほどの余力はなく、膠着状態に。

ドイツ側は南方で進んでいなかったため、全くVPが足らず、サドンデス負けすら予想される事態になり、「1942年夏はブラウ作戦でVPを稼がないとサドンデス負けだけど、サドンデス勝利に必要な20VPは絶対無理」という判断に落ち着いた。
恐らくは、ここからは史実通りに独ソが延々と殴り合いを続けるも、回復力の点で段々ソ連がドイツを圧倒するようになり、「1945年夏までに0VPにする」というソ連側の勝利条件が満たされるかどうか(満たされなければドイツの勝ち)がポイントとなるのだろう。

こうして見ると、「仮にモスクワが落ちても、スターリンが死んでもソ連は戦える」という前提・仮定の下に、最新の独ソ戦研究の知見を反映させたシミュレーションになっているわけだが、それだけに「モスクワを落とせば(ほぼ)ドイツの勝ち」みたいな従来の単純な勝利条件になっておらず、両プレイヤーともに「俺は何をすべきなんだ?」となりがちな作品である。恐らくは史実もそんな感じで、だからこそ「南旋回」や「青作戦」が生起したのだろうし、その辺の事情がきちんとシミュレートされているわけだが、ゲームとして考えた場合、「プレイしづらさ」が残る出来となっている。

個人的にはプレイアビリティも高く、「是非ともこのシステムで日露戦役のキャンペーンを作りたい」と思わせるくらいなのだが、一般ウケとなるとなかなか厳しいのかもしれない。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | ゲーム、囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする