2019年08月17日

実名報道というメディア暴力

【新聞各紙は「実名報道」の意義をどう訴えたか 京アニ事件、犠牲者公表で主張の「必要性」】
 京都府警が2019年8月2日、京都アニメーション放火事件の犠牲者のうち10人の氏名を公表したことを受け、3日付の新聞紙面にも、一斉にその顔写真などが掲載された。
 35人が亡くなったこの事件では、京アニ側が警察・マスコミに実名の公表・報道を控えるよう要請し、京都府警も発生から約2週間、発表を行わなかった。こうした中での報道ということもあり、複数の新聞が実名報道に踏み切る「意義」を、3日付の紙面で強調した。
 たとえば、朝日新聞は1面に掲載された「京アニ犠牲者名10人公表」の末尾で、以下のように自らの立場を表明した。
 「朝日新聞は事件報道に際して実名で報じることを原則としています。犠牲者の方々のプライバシーに配慮しながらも、お一人お一人の尊い命が奪われた重い現実を共有するためには、実名による報道が必要だと考えています。それが、社会のありようを考えるきっかけになると思っています」
 毎日は4面(総合面)で「検証」として、公表にいたる経緯を詳細に報じた記事とともに、「『実名』根強い抵抗感」の見出しで約1000文字の記事を掲載する。2016年の相模原障害者殺傷事件など、実名公表が行われなかった事件を解説した。その上で、
 「毎日新聞はこうした事件・事故の犠牲者について、事実を正確に報じて被害者の無念や遺族の悲しみを伝えるため、実名報道を原則としている」
と説明するが、直後には上智大学・音好宏教授のコメントとして、「プライバシー保護の市民感情は増してきている」との見解を伝えた。
 産経は24面(社会面)で、「おことわり」として独立した囲み記事の体裁で、この問題に言及した。
 これによれば公表後、府警を通じて10人のうち1人から「匿名に変更したい」との要望があったというが、「悲しみに暮れる遺族の方々が、取材や報道に接する度に苦しむ現実は重く受け止めます」としつつ、やはり「事実を正確に伝えるため」には実名報道が必要だ、との考えを主張し、こう続けている。
 「犠牲となった方々は、人々に愛される作品をつくってきました。産経新聞は犠牲者一人一人を、『35人』という数字ではなく実名で伝える必要があると判断しました。犠牲者のプライバシーや遺族感情に最大限配慮し、公共性や公益性を総合的に判断した上で、節度ある取材、報道に努めます」
 匿名変更の申し出があったことは、日経の35面(社会面)記事でも言及されているが、やはり、
 「日本経済新聞は事件報道に際して、その現実を社会全体で教訓にするため、原則実名で報じています。今回も事件の重大性などを考慮し、実名で報じる必要があると判断しました。被害者の方々のプライバシーには最大限配慮しながら、節度ある取材、記事化に努めます」
とした。また34面の記事では、立教大学の服部孝章名誉教授のコメントとして、「遺族らをよく悲しませるような報道やメディアスクラム」を慎むべき、としつつ、「事件の全体像に迫り社会に教訓を伝えるため」にも、実名報道や遺族、負傷者への取材が必要だとの立場を取った。産経、日経ともに10人全員の氏名が掲載されている。
 読売は少なくとも3日付紙面ではこうした意見表明は確認できず、また公表された10人に加え、「取材で死亡が判明した方」として1人の氏名を報じた。
(8月3日、JCASTニュースより抜粋)

ケン先生は基本的に実名報道に反対である。
例外を設けるべきと考えるのは、社会的影響力や権力を行使する者については社会全体の利益と情報共有の視点から必要だからだ。
かつて実名報道が必要とされたのは、通信や連絡手段が限られる中で、被害者などの関係者に連絡が届かない恐れがあったためだった。
だが、今日では例外的状況を除いて通信手段の発達により、被害者の家族などに連絡が行かないというケースは少なくなっている。

メディア側は実名報道の必要性をあれこれ主張するが、要は「匿名だと記事が売れない」という話を「匿名だと抽象的になってしまう」「社会的意義が果たせない」などと言い換えているだけで、何の意味も無い。
ごくごく少数の超コアなアニメファンを除けば誰も名を知らず、特別な社会的影響力を持つわけでも無いアニメーターの名を「テロの犠牲になった」と声高に「喧伝」するのが、連中の言う「社会的意義」「社会的教訓」なのだろうか。
逆から見た場合、名も知らないし、京アニを見たこともない人たちが、新聞に掲載された写真と実名を見ることが、「抽象から具象へ」と繋がるのだろうか。この場合、そもそも犠牲者のことを知らないのであれば具象化にはなり得ない。逆に悪い想像力をかき立てて、テロや犯罪に対する無用の憎悪をかき立てるだけだろう。そして、こうした憎悪は国家間の対立や戦争へと発展させる原因にしかならない。

もっとも、日中戦争から太平洋戦争に至る過程は、マスメディアが中国や欧米諸国に対する国民の憎悪をかき立てることで、歴史上最も新聞発行部数が増えた時期だった。つまり、テロと戦争はメディアにとって「最も甘い蜜」であり、死亡寸前のメディアにとって「吸わないではいられない」ものと言える。
実名報道はメディアにとって「生命線」であり、社会や個人に対する憎悪に象徴される負の感情をかきたてることは、メディアにとって「耐えがたい誘惑」になっている。その自覚を持たずに、ねじ曲げた「正義」をもって個人のプライバシーを暴露し、憎悪を助長させるのは、もはや社会そのものに対する犯罪でしか無い。

以上は被害者についての実名報道だが、加害者についても基本的には同様で、特に日本の場合、逮捕された時点で実名報道されているが、これは恐ろしく反社会的である。少なくとも司法第一審の判決でもって有罪認定されるまでは「被疑者」であって「犯罪者」ではないのだから、無罪になる可能性のあるものについて実名報道するのは一切避けねばならない。

結局のところ、日本のメディアは巨大すぎるあまり権威主義体質から脱却できず、自由も人権も概念として理解できないまま死を迎えつつあると言えよう。
posted by ケン at 12:00| Comment(8) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする