2019年08月21日

自由と民主の統治原理と抽選制議会の可能性について

最近欧州では抽選制選挙による代議員の選出が検討されている。
フランスで大統領候補になって20%近く得票したメランション氏などは、公約に国民議会選挙の一部抽選化を謳っていたほどだ。
これは文字通り、有権者の中から完全にランダムで抽選、当選した者が無条件で代議員となる制度である。
実際、マクロン大統領は政府が作成する法案の諮問する機関の一つ経済社会環境評議会の評議員の一部を市民から無作為で抽選すると述べている。
アイルランドやアイスランドでも憲法を審議するために同制度が用いられている。
歴史的には、古代ギリシアやローマでも抽選制が採用されている。

その背景にあるのはエリートとプロ政治家に対する深刻な不信である。
世界を見た場合、アメリカでトランプ氏が大統領に当選したが、「エリート中のエリート」「政治のプロ」であるクリントン氏を相手に「素人性」を強調したことが大きな原因になっている。
イギリスでは、エリートとプロ政治家がこぞってEU残留を主張したのに対し、ノン・エリートとアマ政治家がEU離脱を訴え、後者が勝っている。
ギリシアのSYRIZAやスペインのポデモスも、既存の社会民主主義政党がエリート化したことに対して、そのアンチテーゼとして「非エリート」「大衆民主主義」などを主張して大きな成果を挙げている。例えば、ポデモスはインターネットを使った全党員による投票を最高意思決定機関としており、エリートと党官僚に基盤を置く政党統治原理を否定している。
日本でも、リベラリズムに基盤を置き、「エリートによる統治」をめざす民進党の系統が嫌われ、「れいわ」や「N国」のような非エリートに票が集まりだしているし、自民党にあっても東大出官僚の大物議員は絶滅しつつある。

その原理は「誰が統治すべきなのか」に起因する。
デモクラシーは「大衆による大衆の統治」「全主権者による意思決定」を旨とする。
「自分たちの支配者は自分たちであり、自分たちのことは自分たちで決める」というもので、だからこそ直接民主主義が理想とされる。

これに対してリベラリズムは「エリートによる大衆統治」「選ばれた優等人物による意思決定」を旨とする。
リベラリズムは本来、王権や貴族のような血統支配からブルジョワジーの財産と権利を守るために生まれた統治原理であり、「王や貴族の横暴から個々人の権利と財産を守る」ことを至上とする。そのため、王や貴族に対抗できる優秀な人物を統治者・調整役として「選出」するという発想になった。これがエリート=選良である。

代議制民主主義は、直接民主主義が物理的に困難であるため、大衆の中から投票によって選出されたエリート代議員が国政を審議し、意思決定を行うという統治原理である。
ところが、1990年代以降、エリートによる統治が上手く機能しなくなり、国内の生活水準が急悪化する一方、エリート層の資産は肥大化、経済格差は拡大の一途にある。中間層の没落はグローバル化の流れの中で避けられない側面はあるのだが、ごく一部のエリートの資産だけが肥大化し、それを肯定する統治(例えば企業や富裕層に対する優遇、あるいは腐敗の放置)に対して怨嗟と憎悪が高まっている。
本来であれば、社会主義政党がこれを是正する役割を担っているわけだが、1950年代以降の戦後和解体制の中で資本と同化してしまい、その党官僚も議員もエリート化してしまった(日本の連合が象徴的)。フランス社会党などはもはや壊滅状態にあるし、ドイツ社会民主党も存続が危ぶまれている。英国労働党は左旋回でかろうじて命脈を保っているという状況だ。

代議制民主主義は「大衆が自ら選出した代議員が正しい意思決定を行う」「大衆によるチェックが働くから腐敗しない」という原理の上に成り立っているが、今の日本の国会を見れば分かるとおり、全く機能していない。
また「大衆による投票」と言っても、小選挙区制の場合、平均的には3割強の得票で選出され、残りの票は死票になっており、「民意が十分に反映されている」とは言えない状況にある。
労働側に視点に立ってみても、大企業のエリート正社員で構成される連合は何人も国会議員を当選させているが、残り9割の非エリート労働者は一人の代表者も国会に送ることができない。これはデモクラシーの原理に反している。

選挙は一見民主的に見えるが、実は「より多数の票を集めたものが総取りする」というゲーム的要素が強く、「ゲームに強い者が勝つ」「流れに乗った者が勝つ」といった要素が非常に大きい。これは「大衆による大衆の統治」とは無縁の話であり、「民主的に選出する」という概念そのものがフィクションに過ぎないと言うこともできるのだ。
丸山某や小泉某を選出する現行制度が果たして「民主的」なのか、あるいは彼らは「エリート」として機能しているのか、懐疑的に検証する必要があるのでは無いか。
であれば、むしろ無作為に選出された者を複数代議員にして政治を諮問させた方が民主的だ、となるのは自然の流れだと言える。
但し、この場合、「選良による統治」が成り立たなくなるので、それはそれで良いのかという話になる。とはいえ、官僚の劣化が著しい現在、そもそも「選良って誰?」「AIでいいんじゃね?」という議論も出てくるので、非常に難しいことになっている。

遠からず現行の統治システムは限界を迎えるので、この辺のことはかなり突き詰めていかないといけないだろう。

【参考】
ダーヴィッド・ヴァン・レイブルック 『選挙制を疑う』 法政大学出版会(2019)
posted by ケン at 12:00| Comment(3) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする