2019年12月20日

故・中村哲氏の背景にあったもの

【「素朴な正義感貫いた」 中村さんのいとこが語る人柄】
 長年、アフガニスタンの復興のために尽力したNGO「ペシャワール会」の医師中村哲さん(73)の遺体が9日、福岡に帰った。現地の人に慕われ、支援者たちの尊敬を集めていた。無言の帰郷に、身近な人たちは悲しみに暮れた。
 「平和を願い、困っている人、貧しい人の側に立つ。そうした素朴な正義感を貫いた」。中村哲さんのいとこの玉井史太郎さん(82)=北九州市若松区=は9日朝、帰郷のニュースを知り、そう語った。
 芥川賞作家・火野葦平の三男で、いまは葦平の旧居「河伯洞(かはくどう)」(同区)の管理人を務める。中村さんは小学2年の頃まで近所に住み、よく一緒に遊んだ。アフガンでの活動を始めた後も、帰国すると多忙の合間を縫って顔を見せた。
 謙虚な人柄で、2人でいるときは自身の活動を積極的に話すことはなかった。ただ、現地の治安の悪さに触れて「(従軍経験がある)葦平と同じだね」と語ることもあったという。
 最後に会ったのは8月下旬。玉井さんが代表を務める「わかまつ九条の会」の集会で講師に招いた。活動状況を話し、参加者からの質問に丁寧に答えていた。
(12月9日、朝日新聞)

アフガニスタンで40年にわたって医療、農業支援を続け、先日殺害された中村哲氏。私も何度か国会などで話を伺ったことがある。
彼の母方の伯父は作家の火野葦平、中村の祖父(火野の父)の玉井金五郎は沖仲士(港湾労働系の任侠)の組頭だった。中村氏は『花と竜』の世界そのもので生まれ育った人だった。

その火野葦平は、インパール作戦を取材するためにビルマを訪れているが、当時ビルマには歩兵124連隊、113連隊、148連隊など福岡・久留米の連隊が多く、火野が来る度に入れ墨の入った兵隊が次から次へと「玉井のオヤジにはお世話になりました」と、自分の食べ物もロクに無いにもかかわらず、色々なものを持ってきたという。もっとも、火野本人も父を手伝って、港湾労組まで組織していたのだから、慕われていたのは父親のみではなかったはずだ。

中村氏もまた任侠の世界がかろうじて残る時代に生まれ育ち、九大医学部を出てアフガニスタンに行き、別の形で「任侠道」に目覚めてしまい、その身を捧げてしまったと言えそうだ。
中村氏がクリスチャンであることから、「キリスト教の奉仕精神の体現者」とする向きもあるが、個人的には「任侠精神」の方がピッタリくる気がする。

関東の人間には想像も付かない世界である。こうした任侠系の労働者集団やテキ屋のような特殊な職人集団などと、暴力団の違いが、関東の人間にはどうにもわかりづらい。
私も奈良の議員の秘書をやって、初めてその深淵の縁を垣間見ることができた。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする