2019年12月24日

中山陵を参拝

ようやく試験と最後の授業の準備が終わって余裕が出てきたので、十二月ながら週末南京に行ってきた。
上海から高速鉄道(高鉄)で100分という、東京と名古屋くらいの距離感だが、ケン先生的には、第二次上海事変から南京事件に至る進撃路であると思うと、色々感慨深いものがある。

南京は旧首都(明と国民政府)なだけに見るものも多く、二泊三日では限りがある。
今回は超有名どころに限った。
まずは、中山陵。孫文の墓である。
死の翌年から造成が始まり、完成まで三年かかっている。
孫文は「死んだからここに埋めて欲しい」と述べたことに端を発しているというが、明孝陵、つまり明の太祖朱元璋の墓の隣であり、自らをモンゴルを追い出した朱元璋になぞらえていたともとれる。
民主主義国の首長というより、皇帝の墓にしか見えず、やはり超大国の統治にあっては家父長的な要素が不可欠なのかと嘆息せざるを得ない。
なお、隣には三国志の呉の孫権の墓もある(こっちは行く時間が無かった)。

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国民政府を否定する共産党政権でも孫文は肯定しており、廟はよく整備され、観光地化している。
何でも予約しないと入れないらしく、予めネットで予約して行かねばならないわけだが、この辺、やはり中国は個人旅行が難しいと思わざるを得ない。幸い、自分は中国人の知人と一緒に行ったので、予約ですんなり入れたが、入口からはちょっとした登山モードだった。この日は、冬とは思えない暖かさで、汗をかくくらいだったが、やはり真冬は避けた方が良さそうだ。

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孫文は1915年から18年まで東京の原宿に住んでおり、その際、宋慶齢と結婚している。当時、陸軍にいた大伯父も原宿に住んでいた。祖母は孫文を見ていないが、伯父の妻から孫文が歩いているところを見た、という話を聞いている。孫文は宋慶齢と一緒に並んで歩いていたが、当時の日本には男性と女性が並んで歩く習慣はなく、非常に目立っていたらしい。革命家としては警戒心がなさ過ぎだった。

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中山陵から南京市の眺望

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日本軍の南京進攻に際しては、この中山陵でも戦闘が行われた。土台に見える弾痕はその際のものだという。

当時、袁世凱は孫文の首に懸賞金をかけつつ、日本政府に亡命を拒否して追放するよう圧力をかけていた。その要求を拒否して、孫文の身を守ったのは犬養毅たちだった。その犬養が統帥権干犯を盾に民政党内閣を批判、関東軍の暴走を認め、挙げ句の果てに515事件で軍人らに殺害されてしまうのは、歴史の皮肉としか言いようがない。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする