2020年02月18日

多摩方言公用語化運動

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ケン先生は調布生まれ調布育ちなので、少し多摩方言も使えます。~じゃん、~さぁ、などなど。
女性の前で多摩弁でしゃべり始めたら、「イメージ変わるから止めて!」と言われたことも(笑)

多摩弁使わない市会議員なんか要らねぇんじゃね?
今は自由の身だからさぁ、多摩方言公用語化運動を推進する政治家を応援したいじゃん!!


地元では、新選組の近藤勇(上石原村、宮川一族)は多摩方言が抜けず、武家言葉を上手く使えずに苦労したという話が伝えられている。
松平中将(会津)に拝謁する前の晩などは、夜遅くまで一人で口上の練習を繰り返していたという。
これに対して副長の土方歳三は、江戸で様々な職業を転々としていたこともあって、非常に器用で、江戸の下町言葉も武家言葉も難なく普通に使い分けていた。
鳥羽伏見の戦いの五日目の話らしい。
旧幕軍が全軍潰走する中、大坂の入口に当たる山崎の陣に最後まで踏みとどまる兵糧方の坂本柳佐が、後退中の土方と交わした会話である。

「(土方)どうも君たち、ここで兵糧を弄っていたところが否(い)かんじゃないか。もう小橋も破れてしまって、味方が居らんくらいの話である」

「(坂本)いや、しかし松平豊前守とも約束して、この地を我が死する処と覚悟したから一歩も動かないつもりだ」

「(土方)なに、もはやその松平は八幡の方へ引き揚げた」
(『史談会速記録』)


面白いのは、この当時は身分を超越した新しい一人称、二人称である「君と僕」が大流行しており、長州藩士も幕臣も「それがし・余、その方」から転向していたことである。
以下、徳川慶喜が大坂城から単身江戸に引き揚げ、要は放置された2万人の旧幕軍の一人だった福地桜痴の回顧。
夜半に及び、松平太郎(組頭)は戎服に容を改めて来たり、余輩一同が悠然として落ちつきたるを見て余と西に向かいて、君たちは何で落ちついて居るか(と親指を出して)、

「もう疾(と)うにお立ち退きになりましたぞ、早く落ちる用意をしたまえ」

と告げたり。西はこの語を聞きて怪しめる色をなしたるに、余は早く語を発して、

「太郎殿そんな不吉な戯言は仰せられぬものでござる」

と一本やり込めて見たれば、松平は

「どっちが戯言だ。嘘と思うなら、御用部屋なり、御座の間へなり、行って見たまえ。御老若方も奉行衆も皆お供で立ち退かれたぜ。僕は今にわかに陸軍の歩兵頭に転じて、これから出陣する所だ。君たちは早く立ち退きたまえ」

と言い捨て、急ぎ役所を出で行きたり。  

『懐往事談』 福地源一郎

名家の出で歩兵組頭の松平太郎から成り上がりの土方まで、かなり多くの武士が「君と僕」で会話していたことが分かるだろう。
江戸期までの一人称・二人称は身分によって異なるため、会話そのものが既存の身分制度の上にしか成立しえなかった。「君と僕」は誰しもが対等な関係を表す画期的な人称名詞であったことを認識して欲しい。
以下、参考

山手言葉     下町言葉        多摩言葉
「行ってきます」→「行ってくるぜ(ぃ)」→「行ってくんべ」
「私も武士ですから」→「あっしも武士なんでさぁ」→「あっしも武士だんべさぁ」
「失礼したいんですが」→「帰りたいんよ」→「けぇりてべさぁ」
「あなたも来ましたか」→「おめぇも来たんけ(ぃ)」→「おめぇも来たべ(け)」
「ご署名願います」→「よ、サインしてくんな」→「あいよ、サインしてくんべ(よ)」
「先生がいらっしゃいましたよ」→「先公、来やがったな」→「先生来たべ(よ)」

逆に現代日本語、いわゆる標準語は明治期に山手言葉を基に人工的に作られた言葉だった。
その目的は、形而下的には明治政府が作った法律を日本全国に広めて従属させるためであり、形而上的には天皇のお言葉を臣民に理解させるためだった。ところが、実際には明治帝は京の公家言葉の使い手であり、江戸の山手言葉をどこまで理解できたのか、怪しいところがある。
つまり、天皇(大正帝以下)といえども「現代日本語」を学ばねばならなかったところに明治の面白さがあるとは言える。

そして、ケン先生が地域語=方言を推奨する理由もまた、反中央=反権力に依拠しているのである。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする