2020年12月17日

武田氏史跡巡り5 岡崎城

武田関係ではないのだが、H氏先輩の希望もあって、長篠で一泊してから岡崎に向かう。
新城ICから新東名に乗ってすぐのところにある、設楽原PAからは長篠一帯を見渡すことができるが、戦場は一部しか見えない。
しかし、信長の本陣があった茶臼山のすぐ隣にあり、本陣跡まですぐ登ることができる。
残念ながら、木が立っていて、設楽原を見渡すことはできないが、想像以上に高い丘で、勝頼の本陣や家康の本陣を見下ろす好点と言える。

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岡崎までは長篠から40kmほどしかなく、吉田(豊橋)なら20kmしかなく、こんなところに武田軍がいるというだけで、家康的には生きた心地がしなかったろう。
その岡崎城だが、三河鈴木氏の系譜を持つケン先生的には「聖地」の一つである(養子相続なのでDNAは無い)。
ご先祖は、三河一揆に際して「主君との縁は一代限りだが、仏との縁は未来永劫」との大義を掲げて一向宗派につき、岡崎城を囲んでいる。
家康自身、末年に至ってなお、「最も苦しかったのは、一揆勢に岡崎城が包囲されて、孤立無援で籠城せざるを得なかった時」と回顧しているほどだった。三方原でも大坂の陣でも本陣を蹂躙された家康だが、身内の半分に裏切られて包囲されたことの方が苦しかったらしい。
一揆は最終的に家康が折れる形で、「(真宗から浄土宗に)宗旨変えをするなら、罪を問わず帰参を許し、これまで通りの奉公を認める」ことで和解が成立し、わが先祖もこの時に浄土宗に変わった。確かに、帰参は許されたものの、その後も遠江や駿河あるいは武田遺臣などの「外人」勢が出世していく中で、鈴木氏は幕末まで冷や飯ぐらいを続けざるを得なかった(皆が皆ではないが)。
それもあってか、わが先祖は戊辰政変に際しては、徳川家や幕府に殉じることなく、早々に明治政府の東京府に出仕している。勤王志士などと言っても、実態はテロリスト集団であって、行政の実務に耐えなかったためだった。

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そんなことを話しながら、岡崎城を回る。なお、ケン先生は以前にも来たことがある。
平城だが、菅生川と矢作川の交点にあり、川を天然防壁とする、大規模な城である。とはいえ、平城になったのは江戸期のことで、戦国期の本丸は龍頭山という丘の上にあったらしく、それを想像するのは難しい。いかんせん、岡崎市のど真ん中にあるためだ。
江戸期にも使われ続けているので、どこからどこまでが戦国期のものかわからないものの、色々と整備されており、日本人がイメージする城らしい城であるとは言えるだろう。何重にもある深い堀は、見ただけで萎えそうだ。
検分していくと、仮に武田軍が1万や1万5千人程度で包囲しても、容易には落ちなかったに違いない。

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城を検分した後は、カクキューさんで八丁味噌のお土産。
併設の食堂で食した、八丁味噌の味噌煮込みうどんが絶品であった。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする