2014年05月15日

ポーランド危機をめぐる経済情勢・上

「ハンガリー、チェコスロヴァキア、アフガニスタンと軍事介入を続けたソ連がどうしてポーランドには介入しなかったのか」という疑問は、我々のようなソ連・東欧研究学徒にとって1つの課題であり続けている。その一方で、ワイダ監督『ワレサ』のような脳天気な民主化礼賛映画を見てしまうと、つい「おいこら、ちょっと待て!」と言いたくなってしまう。
ポーランドの民主化運動の進展あるいは統一労働者党の瓦解のプロセスを検証してイメージしたのは、互いがひたすら悪手を打ち続ける「ヘボ将棋のド突き合い」だった。アフガニスタン「プラハの春」の検証に際しては、「他の可能性もあったのではないか?」と考えながら執筆した私だが、本稿については「こりゃどうにもならん」という思いしかなかった。
プーチン氏の名言に「ソ連が恋しくない者には心がない。ソ連に戻りたい者には脳がない」というものがあるが、これをもじれば「党を愛する者には心がない。連帯を愛する者には脳がない」という感じこそが80年代のポーランドにピッタリくる気がする。
本稿は「ポーランド危機をめぐる経済情勢」と「ソ連は何故ポーランドに軍事介入しなかったのか」の二部構成になっているが、上記の理由からポーランド好きの方には不快感を与えると思われるので、以下は読まないよう忠告したい。まぁ本ブログの読者にそんな人はいないと思うが。

先に簡単にポーランドの民主化運動の経緯をおさらいしておこう。まず1980年7月の食肉等の価格引き上げに端を発する不穏は、8月14日にグダニスクのレーニン造船所におけるストライキを引き起こし、これが全国規模のゼネストへと発展してしまう。同年9月にはワレサ(ヴァウェンサ)を代表とする独立自主管理労組「連帯」(官製労組とは別の)が結成され、政府との交渉が始まるが、交渉は妥結することなく不穏な情勢が続き、新たに首相兼党第一書記に就任した軍人のヤルゼルスキの下で81年12月、戒厳令が発せられる。83年7月に戒厳令が解除された後には、穏健路線に転じ、非合法化されたままにあった「連帯」との対話と体制内改革が続けられたが、不穏な情勢は改善されず、89年2月には実質的なソフトランディングを目指して「円卓会議」が設置されて、統一労働者党と「連帯」の協議の下で大統領制と自由選挙への移行が確認された。

1968年8月のチェコスロヴァキアに対するワルシャワ条約機構による軍事介入は、チェコスロヴァキア共産党内の分裂に伴う政治統制の喪失が主要因で、経済問題はあくまで遠景と言えたが、1980〜81年のポーランドはすでにこの時点で経済的に破綻しており、ポーランド政府は国民に生活必需品を供給する能力すら失いつつあった。同政府自身が1981年4月に債権者たる西側銀行団に提示した報告書には、以下のような項目が羅列していた。

・1981年の国民所得(GNP)は前年比でマイナス9%
・新たに70〜80万人の失業者が発生
・1985年までに債務は約340億ドルに達する見込み
・1983年までに予定された大中規模のプロジェクトのうち約900が中止の危機
・食料品を含む広範な物価の値上げは不可避


つまり、戒厳令が発せられる以前に、ポーランド政府は恥も外聞もなく「自分自身ではどうにもならないから、西側の皆さん助けてください」と銀行団に泣きついていた。さらに巨細に見てみよう。
1977年末にはポーランドの対西側累積債務だけで140億ドルに達しており、これは同国の対西側輸出額の3年分に匹敵するもので、元利払いだけで半年分を占めるという有様だった。要はこの時点で国家自体が西側の抵当に入っているような状態にあった。
さらに、1979年末時点でポーランドの外貨準備高は5億5400万ドルで、金準備を除くと2億8700万ドルしかないが、当時輸入代金として必要な外貨は年間65億ドル程度だった。この外貨準備高が、81年9月末には2億2600万ドル、金を除くと1100万ドルになっており、すでに国庫がスッカラカンになっていたことが分かる。

国家財政も79年には一応黒字を示していたものが、80年には260億ズロチの赤字を出し、81年には2000億ズロチを超えた。これは歳入が増えないところに不穏鎮静化のために歳出を増やしてしまったことが大きかった。具体的にはポーランドの主要産物である石炭の生産価格はトン当たり1600ズロチで、輸出すれば3000ズロチ以上になるものが、国内では800ズロチで売られていた。食品についても同じで、牛乳の場合1リットルの生産価格が14ズロチであったのに対して、国内販売価格は3〜4ズロチだったという。そのため、多くがヤミに流れ、国内の正規市場(官営商店)は常に品薄に陥った。
最大の問題は、農政の失敗から小麦の大半をアメリカなどから輸入していた点で、外貨の不足がパン不足に直結していたにもかかわらず、社会主義的観点からパンの小売りには巨額の補助が出されていたため、外貨流出と財政赤字の原因となっていた。そして、他の食料品はともかく、パンだけは常に超低価格で抑えられていたため、「前日のパンは捨てて新しいのに買い換える」といった無駄遣いが習慣化していた(老人が毎日病院に行く日本も実は同じ問題を抱えている)。
1972年には75%あった穀物自給率が同75年には50%に低下しており、その不足分を賄うために輸入に頼った結果、79年には9億8千万ドルの赤字を出したが、これは全貿易赤字の72%を占めていた。
ポーランドの累積債務は80年末で270億ドルに達しており、アメリカから6億7千万ドルの信用保証、ソ連から6億9千万ドルの借款、西ドイツから12億マルクの借款が緊急供与されたものの、ポーランド政府は西側債権国に対して元利払いの三年間のモラトリアムを要請する始末だった。今日のウクライナを見る思いである。

ポーランドの民主化運動は1980年8月14日のグダニスク・レーニン造船所におけるストライキに端を発すると言われるが、そのストの原因は同年7月1日に政府が食肉等の価格引き上げを発表したことにあった。ところが、ポーランドでは1970年12月にも食料品や生活必需品の値上げに端を発する暴動が起きており(グダニスク暴動)、ゴムウカ政権が退陣してギエレク政権が成立している。この後、76年6月にも食料価格の引き上げ発表に端を発する暴動が起きて、翌日に撤回するという事件が起きている。この時は「外貨ショップ」や「自由商店」を開設することで急場をしのいだ。ポーランドの場合、米国に移民した者が多く、彼らからの送金によってソ連よりもヤミ外貨の流通が多かったことも「一時しのぎ」の役に立ったようだ。

ポーランド農政の失敗は、農業集団化が中途半端に終わった弊害が大きい。1948年に統一労働者党が政権を担って以降、ポーランドでもソ連を倣って農業集団化が進められたが、56年にポズナン暴動が起きてゴムウカ政権が成立すると、農民を慰撫するためアッサリと集団化政策を放棄してしまう。その結果、農地の8割前後が個人農(家族経営)で、そのうちの7割が7ヘクタール以下の零細農という状態が続いた(ポーランドでは農業経営の採算がとれるのは15ヘクタール以上とされている)。
日本ではポーランドは農業国としての印象が強く、実際に1973年までは農産物輸出国だったのだが、現実には国土の大半が低湿地や酸性土に覆われており、小麦や大麦の栽培に向かず、ジャガイモやライ麦が主体だった上に常に多量の肥料が必要としていた。にもかかわらず、国民に小麦のパンと食肉に対する強い執着があったことも、ソ連との大きな違いと言える。そのため、歴代政権は土地改良や機械化に巨額の投資を行うが、どちらも農業従事者の過半数が零細個人農という現実の前に挫折して、ムダに終わった。70年代には重工業とともに農業でも西側資本を導入するが、これが生産増や質的向上に寄与せず、そのまま負債となってしまった。肥料の自給自足を目指して、西側資金を用いて化学工業の振興も図ったが、これも失敗に終わって負債と肥料の輸入代がそのまま残り、さらに国家財政を圧迫してしまった。
(以下続く
posted by ケン at 12:33| Comment(0) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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