2014年05月19日

ソ連は何故ポーランドに軍事介入しなかったのか・上

ポーランドでは「民主化」から四半世紀を経た今日でも、ヤルゼルスキ氏(91歳)に対して「戒厳令を敷いて民主化運動を弾圧した」容疑に基づく裁判が継続しており、ヤルゼルスキ側は「ソ連による介入を予防するために戒厳令は不可避だった」と主張する一方、検察側はソ連側資料を提示して「被告の主張には根拠がない」と反論している。西側における一般的な理解も、「ソ連は軍事介入するつもりだったが、戒厳令の実施で思いとどまった」という感じだろう。確かにポーランド危機直前の1979年にソ連はアフガニスタンに対して軍事介入しており、「ハンガリー動乱」や「プラハの春」を鑑みても、「どうしてポーランドには介入しなかったのか」という疑問を持ってもおかしくない。

だが、反共ゲリラが跋扈していたアフガニスタンや、東欧ブロックからの離脱を図ったハンガリー、共産党が内部崩壊してしまったチェコスロヴァキアのケースと異なり、ポーランドの場合は統一労働者党の無能に起因する経済危機であって、ワルシャワ条約機構(WP)が軍事介入したところで解決する類いのものではなかった。社会主義経済の行き詰まりは、隣国であるソ連やハンガリー、東ドイツなどの同盟国も同様だった。
実際、ソ連崩壊後に公開されたソ連共産党の機密資料は、ソ連がポーランドの内政に対しては介入しないという方針だったことを裏付けており、さらにヤルゼルスキ氏の主張とは裏腹に軍事的支援を含む様々な支援要請がヤルゼルスキ政権から寄せられていたことが判明している。

1980年当時、KGBの諜報網はまだ十分に機能していたようで、グダニスクでストライキが起こる三ヶ月前の80年5月には、グダニスク駐在ソ連領事から党中央に対して不穏な情勢についての報告が上げられている(この点だけでもポーランド政府・党の無能ぶりが分かる)。同年8月にはソ連共産党政治局内にポーランド問題を討議する小委員会が設置された。
同年10月29日には、統一労働者党のカニア第一書記がモスクワを訪問、ブレジネフは戒厳令を示唆したようだが、カニアは「自制する」として拒否した。
10月31日にはソ連共産党政治局会議が開かれ、ブレジネフはポーランド経済の危機を指摘して経済支援の必要性を認めた。さらにカニアとの会談について報告した上で、統一労働者党が「連帯」を弾圧せず、戒厳令の実行を先延ばしにしていることについて不信感を表したが、政治介入や軍事介入について言及することはなかった。
続く12月5日にはモスクワでWPの首脳会議が開かれ、カニアはストを政治交渉で解決し流血を回避する他なかったことを釈明しつつ、国際的責任を果たすために自力で問題解決する意向を強調した。この場では、チェコスロヴァキアのフサーク、ブルガリアのジフコフ、東ドイツのホーネッカーらが強硬手段を求めたのに対して、ハンガリーのカーダールとルーマニアのチャウシェスクは「ポーランドの国内問題」として自力による解決を主張した。だが、各国首脳に共通したのはカニアと統一労働者党による自力解決の実現性に対する不信だった。とはいえ、ソ連共産党が統一労働者党の人事に対して介入した形跡はなく、不満を持ちながらも自主性に委ねていたことが分かっている。

ソ連共産党指導部はポーランド情勢についてかなり正確に把握しており、ソ連やWPが軍事介入して「連帯」を弾圧したところでポーランド経済の安定には繋がらず、逆に西側の借款によって生き長らえているポーランド財政をいよいよ危機にさらしてしまう恐れが強かった。軍事的にも、アフガニスタン介入が当初予想されていた「3〜6カ月」で終わることなく泥沼に陥りつつある中、ポーランドに介入して統一労働者党員を含む1千万人からの組合員がいる「連帯」を弾圧するという選択肢は、軍事的にも外交的にも「あり得ない」ものだった。また、ソ連はアフガニスタン介入で西側諸国から経済制裁を受けており、原油価格が低下する中で、さらなる制裁強化はソ連の首を締める方向にしか働かないと考えられた。

もっとも、カニアやヤルゼルスキの回顧では、12月5日のWP首脳会議の後に開かれた二者会談において、カニアがポーランドに対する軍事介入の非を述べ、ブレジネフを説き伏せて不介入の言質を獲得したことになっているが、ソ連・ポーランドともに公式記録からは今日まで確認されていない。

1981年に入っても、政府側も「連帯」側も自分たちが締結した「グダニスク協定」を真摯に履行することなく、ポーランド国内ではストライキが頻発、「連帯」の勢力は農村部にまで拡大し、統一労働者党による統制力は弱まるばかりだった。先に説明したように、ポーランドでは早々に農業集団化が断念されたため零細個人農の比率が高く、農民によるサボタージュは食料供給を一層厳しいものにしていった。
そのような中、3月19日にはビドゴシチにおいて警察が「農民連帯」と県当局者の交渉の場に介入して実力行使に出る事件が発生し、「連帯」は再び全国ストライキを予告した。これに対して統一労働者党は強硬手段を断念して対話を選択、「農民連帯」の承認や政治犯の釈放、ストライキ権の確立とスト参加者に対する賃金支払いの確約などの妥協をすることで合意、ゼネストを回避した。
こうしたカニア執行部の「弱腰」に対してソ連共産党内では批判が強まり、ブレジネフはアンドロポフ(KGB議長)とウスチノフ(国防相)を派遣し、4月4日と5日に蘇波国境のブレストにおいてカニア(第一書記)、ヤルゼルスキ(2月に首相就任)を交えた四者会談を開かせた。ソ連側は自分たちで準備した戒厳令発動を確約する文書にポーランド側の署名を求め、カニアとヤルゼルスキは議会承認を理由に断ろうとしたが、アンドロポフが「今、同志二方が個人的に署名しなければならない。それは貴兄たちが本文書に同意し、戒厳令時になすべき行動内容を理解していることを、我々が確認するためである」と述べたため、カニアは4月11日に署名することを約束した。ただ、この会談においてソ連側がポーランド側に武力行使をほのめかした形跡はなく、あくまでも強硬手段を強く求めたにとどまっている。
この会談内容は、公開されたソ連共産党政治局の議事録におけるアンドロポフらの報告に基づいているが、ヤルゼルスキの回顧録には「われわれは絶対に譲らなかった」と記されている(『ポーランドに生きる』p.210)。いずれにせよ、この時点でポーランドにおける戒厳令の導入は不可避となっていたと見て良いだろう。
(以下続く
posted by ケン at 12:28| Comment(0) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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