2013年11月22日

「ロシア語で愛してるって何て言うの?」という愚問

「ロシア語で愛してるって何て言うの?」という質問が結構ある。逆にシベリアで日本語を教えていたときは、「日本語で"Люблю тебя"は何と言うんですか?」という質問を何度か受けた。実のところこれは非常に厄介な質問なのだ。

大前提として、自分の数少ない恋愛経験的に日本語で「愛してる」と言われたことも、言ったこともないわけで、"Люблю тебя"と言われたこと、あるいは言ったことは、せいぜい片手で数えるほどしかない。ところがフランスに行けば、映画や巷で言われるほどではないにせよ、"Je t’aime"で溢れている。
このことは、仏語の「ジュ・テーム」と露語の「リュブリュー・ティビャー」と日本語の「愛してる」が、決してイコール(同じ)ではないことを意味する。それを理解していないと、ロシアに行ってちょっと仲良くなった女の子に「リュブリュー・ティビャー」と言ってしまったが最後、大変なことになってしまう。まず十中八九「軽い男」と見られてフラれると見て良い。これは考えて見れば分かりそうな話だが、日本で二、三度会っただけの女の子に「愛してる」などと言っても、冗談にしかとられないだろう。そもそもどんなに深い仲になっても、「愛してる」という言葉が使われることは超レアだと思われる。これは、アメリカやフランスの恋愛文化が「欧米スタンダード」だという思い込み、あるいは偏見に起因する。日本で見られる外国映画の大半がアメリカ、古いものでもフランスのものが殆どだから、致し方ないところはあるのだが。

とはいえ、その背景には「言葉は完璧に翻訳されうる」という思い込みないしは誤解がある。そして、その誤解は学校における外国語教育において、ひたすら「正しい訳」が要求されることがあると考えられる。ところが、現実には「完璧な翻訳」など存在しえない。
日本で日本人が米または御飯をイメージする時、頭にはコシヒカリや「あきたこまち」などを思い浮かべるだろうが、タイ人がタイで想像する米は長粒種であり、日本のそれとは大きく違うものになる。故に、日本人がタイに行って「ご飯食べたい」と言っても、想像した物とは違うものが出てくることになる。
もっと単純な話をすれば、「酒飲みてぇ〜」というオヤヂが頭の中でイメージしているのは、ビールかもしれないし、焼酎かもしれないし、ウオッカかもしれず、そのどれもが酒ではあるが、違うものであることは明白だ。
まして物質的に対照化できない感情表現や文化的背景を有する概念については、習慣や文化が異なるだけに相対化すること自体難しい。その象徴的なものが「愛」なのだ。

夏目漱石は"I love you"を「月が綺麗ですね」と訳し、二葉亭四迷は"Я люблю вас"を「死んでもいいわ」と訳したことで知られるが、現代の外国語教育的には「間違い」にされてしまうに違いない。
ところが、認知心理学や意味論の立場に立てば、間違いとすること自体誤っているのであり、"I love you"を実際の日本語ではまず使用されない「愛してる」と訳す方が誤りに近いと言えるのである。では、「月が綺麗ですね」や「死んでもいいわ」が正しいのかといえば、必ずしもそうではなく、それまでの二人の関係や場の状況、会話の流れなどから判断するしかない。少なくとも正誤で判断するべきものではなく、主観的な価値判断から「好き嫌い」が問われる程度の話だろう。
個人的には、2人の関係や会話の場や流れを考慮せずとも、「月が綺麗だね」は「僕たち分かりあってるよね」的な予定調和的「甘え」が感じられ、どうにも好きになれない。「いいからサッサとやってしまえ!」と叫んでしまいそうだ(笑)性愛というものが本来、エロスとタナトスを表裏一体のものとして構築される概念である以上は、160kmの剛速球とも言える「死んでもいいわ」の方が愛の表現としてはるかに相応しいように感じられる。

もう一つ考えなければならないことは、日本やロシアで恋人同士が「愛してる」とか「好き」といった直接的表現を使わないからといって、アメリカやフランスに比して「愛が無い」とか「愛情が足りない」と言えるのか、ということである。これは必ずしも恋人だけでなく、自分の子どもに対しても同じことが言えるだろう。子どもをあまり褒めない日本人の親が、良く褒める(かもしれない)フランス人の親よりも、子どもに対する愛情が少ないなどということは、決して言えないのではないか。

ちなみにロシアでは、男が戦地に赴くとか、2人が離れ離れになってもう会えないかもしれないなど、決定的段階を迎えて初めて「リュブリュー・ティビャー」という言葉が出てくるのであって、日々の習慣として交わされる"I love you"や"Je t’aime"とは本質的に異なるものと考えるべきなのだ。
二葉亭四迷が訳したのはツルゲーネフの『片恋』だったが、それはメイドの子であるヒロインが身分違いの主人公に対して恋心を抱いて悶々とした挙句、一世一代の賭けに出て自ら告白した際に出た言葉だった。それこそ「死んでもいいわ」こそが相応しかったのであり、日本におけるロシア文学の地位を決定的にした訳でもあった。

もう一つ、夏目漱石の「月が綺麗ですね」はどうやら都市伝説の類みたいだが、英語教員を務めていた際に、生徒が「我君を愛す」と訳したのを聞いて、「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と答えたことに由来する。英語教員も明治期の方がなにげに実際的だったのかもしれない。まぁ漱石に英語を教わるというシチュエーション自体が、今日からは想像しがたいのだが。
posted by ケン at 12:34| Comment(0) | 恋愛、結婚、魔術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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