2013年12月12日

文民統制と和平交渉

日本が第二次世界大戦に突入していった過程において、「統帥権の独立」を盾に取った陸軍が、内閣や政府の統制を外れて暴走、誰も止められなかった、とする解釈がいまだに根強く、一般的な理解として広く共有されていると考えられる。
これは戦前の侵略行為と戦争責任を全て軍部に負わせることで、天皇制の生き残りを図ると同時に、国民を免罪するためにつくられた相当に虚構が入った史観だった。歴史学でも戦前や戦中の政治史は極めてマイナーな分野で、共有されている戦後史観に異を唱えるような研究はタブーとされてきた。だが、戦後数十年を経て、こうしたタブーは失われつつあり、より中立的な観点からの再検証が進んだ結果、「陸軍悪玉論」は修正されつつある。
第二次世界大戦の勃発は、一般的な解釈では1939年9月のドイツによるポーランド侵攻によるものと理解されているが、1937年7月の日華事変(日中戦争)をもってその発端とする説もある。その日華事変と戦線拡大に反対していた主体が陸軍参謀本部であり、むしろ推進したのは政府と海軍であったことは、研究者以外にはあまり知られていない。

1937年7月7日夜半に盧溝橋事件が偶発的に起きると、まだ「いつもの小競り合い」という認識が強かったこともあり、翌8日の夜には参謀本部から「不拡大、現地解決」の訓電が発せられ、11日には現地で休戦協定が成立した。この間、9日の閣議では「内地三個師団の派兵」を杉山陸相が提案するも、米内海相らの反対で見送られている。
当時、参謀本部戦争指導課長だった河辺虎四郎の回顧に依れば、事件の第一報を受けて柴山兼四郎軍務課長(陸軍省)が「厄介なことが起こったな」と言ってきたのに対して、武藤章作戦課長(参謀本部)は「愉快なことが起こったね」と言っていたという。陸軍の中は慎重派と積極派に完全に二分されていた。
全般的には、石原莞爾の影響が強い参謀本部は、対ソ戦準備と満州強化を優先、日中間の戦争を回避する傾向が強かった。前月の6月19日には、ソ満国境のカンチャズで紛争が起き、日ソ間の緊張も高まっていた。他方、陸軍省は、ロンドン海軍軍縮条約の失効を受けて大艦隊の建造を進める海軍に対する不満もあって、予算獲得に向けて自らの存在をアピールする戦場を欲していた。
ところが、7月11日の各紙朝刊が「中国中央軍4個師団北上」「日支全面的衝突の危機」「蒋介石、進撃命令下す」など大々的に報じるに至り、内閣は不拡大方針を維持しつつ、関東軍と朝鮮軍の支援派兵を閣議決定してしまう。実はこれらの報道はあからさまな誇張があり、非常に煽動的なものであったことが判明するも、時すでに遅かった。
政府は本日の閣議に於て重大決意を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり。
(日本政府声明、7月11日)

この声明を受けて、今度は中国側のマスコミが過剰に反応し、国論が沸騰、国民党政府内でも抗戦の声が高まった。また、日本の現地軍では声明を恣意的に解釈し、「シナ問題を解決するための絶好の機会」と捉える軍人が少なからずおり、休戦協定破棄に向けて日中ともに動き出すきっかけになってしまった。
この11日の夜、近衛首相は政界、財界、マスコミの重鎮を官邸に集め、挙国一致・国論統一に向けた協力を呼びかけるが、「官邸はお祭り騒ぎのように賑わって」(石射『外交官の一生』)という有様で、やる気満々だったことが分かる。ところが、この近衛は翌8月に訪ねてきた池田純久中佐に対して、「池田君とうとうやつたね。支那事変は軍の若い人たちの陰謀だ」と言ったというから、全く他人事で無責任だった(『陸軍葬送委員長』)。その池田は、戦争を決めたのは貴方ですよと返して、近衛を黙らせている。

次のタイミングは南京攻略である。当時、陸軍の拡大派軍人でも中国との全面戦争まで考えていたものは稀だったようで、多くは「増長する中国政府に一大鉄槌を下して日本の要求を受け入れさせる」程度に考えていた。ところが、8月13日に始まった上海事変は、上海市を制圧するのに3カ月もかかる有様で、当初軍人たちが主張していた「一撃で粉砕」には程遠かった。その上海を制圧する11月から駐華ドイツ大使による休戦工作(トラウトマン工作)が始まった。
日本側が提示した第一次条件は、この時点ではまず穏当なもので、国民党軍は上海以外では大敗を喫していたこともあり、受け入れをめぐって激論が交わされた。その途中で上海が陥落し、首都・南京に日本軍が迫ってきたこともあり、11月末には蒋介石は休戦交渉を進める方向で考え、12月2日には一次条件を交渉の基礎として認める旨をトラウトマンに伝えた。
なお、上海事変で強く出兵を要請したのは海軍側で、要請を受けた陸軍は上海派遣軍を編成して上陸させ、海軍は大々的に渡洋爆撃を開始、9月に入ると漢口、広東、南昌へと爆撃対象を拡大させ、さらに中国沿岸の海上封鎖を宣言した。北京周辺と上海をめぐる地域紛争は中国全土における全面戦争へと発展していった。

こうした中で現地軍は繰り返し南京攻略の許可を参謀本部に求めるが、多田駿次長はこれを握り潰し、国民党政府のメンツが立つ形で講和に導く方針を有していた。11月24日には、大本営御前会議が開かれるも、近衛首相も広田外相も多田の主張に耳を傾けず、12月1日には大陸命第八号を発して南京攻略を命じてしまった。一方、現地の第十軍は中央の命令を待たずに南京への進撃を始めており、文民統制どころかそもそも軍の統率が十分に機能していなかったことが伺われる。
中支那方面軍は12月10日に南京市に対する攻撃を開始、13日には市内を完全に制圧するが、この際にいわゆる「南京事件」が発生、中国側のナショナリズムがさらに高揚した上に、対日国際世論が一気に悪化した。南京事件の真相がどうであれ、日本軍が南京を占領したがために、国民党蒋政権は国内世論的に和平交渉を進めるという選択肢が採れなくなった上に(和平派は沈黙)、「これで米英の支援が得られる」という期待を抱くところとなった。日本側の目論みは裏目に出て、中国側の抗戦意志を強化してしまったのである。さらに12月14日には日本側が華北に傀儡政権を打ち立てたことも、中国側を大きく刺激した。

日清戦争に際しては、第一軍を指揮した山縣有朋が中央の抑制を振り切って、朝鮮から山海関を抜いて北京攻略の意志を見せたがために、時の伊藤博文首相は明治帝に奏請して山縣を罷免することで、文民統制を実現した。この時、山縣が北京に軍を進めていたら、北洋軍閥だけでなく清の全軍を相手とする泥沼の戦争となり、英仏露を中心とする列強の介入が起こったであろうことは想像に難くない。
似たような状況では、朝鮮戦争において、トルーマン大統領や統合参謀本部の進撃停止命令を聞かずに北上を続けて、中国人民義勇軍の介入を許し、さらには中国本土に対する爆撃と核攻撃を主張したマッカーサー司令官を罷免した故事がある。
これらを考えても、軍の統率以前に、休戦交渉のプロセスや首都攻略の政治的意義について全く深く考えず、南京陥落の報に無邪気に歓喜するだけだった近衛首相や広田外相の無能ぶりこそが問題だったことが分かろう。

そして、これが第三の問題点となる、「爾後国民党政府を対手とせず」声明に繋がる。南京陥落で気を良くした日本側は、休戦条件のハードルを上げ、華北に実質的な分離傀儡政権をつくることまで要求、満州国の正式承認も加えられた。蒋介石はこの新条件を一蹴するが、国民党内部には異論もあり、回答期限は12月末だったものが翌年1月10日とされるも、正式回答には至らなかった。
1938年1月14日に国民党政府から「現条件は曖昧なので細目を提示されたい」旨の通知が日本側に伝えられるも、ここでまた日本政府と国論は過剰に反応し、「時間稼ぎだ」「誠意が無い」などの声が沸騰して、収まらなくなってしまう。
1月15日午前に大本営政府連絡会議が開かれ、陸軍の多田参謀次長と海軍の古賀軍令部次長が国力の限界から長期戦を戦うことの困難さを説明し、中国側との和平交渉の継続を主張した。ところが、近衛首相「速やかに和平交渉を打ち切り」、広田外相「支那側の応酬ぶりは和平解決に誠意なきこと明瞭」、杉山陸相「蒋介石を相手にせず、屈服するまで戦うべき」、米内海相「統帥部が外務大臣を信用しないのは政府不信任」などと声を揃えて反論され、政府と統帥部の対立が解消されないまま休憩に入った。なお、この背景には権威づけのために皇族をトップに据えたことで、参謀本部のトップが重要会議に出られず、次長が代理出席せざるを得なかったが故に、重要会議で十分な影響力が発揮できなかったという問題がある。

参謀本部に戻った多田次長は、参謀本部の支那課を中心とする内部の主戦派から突き上げを受け、立場に窮するも、上司の閑院宮参謀総長を動かして昭和帝に帷幄上奏を試みる。しかし、一足先に近衛首相が帝に拝謁し裁可を得ていたため、逆に「ソヴィエトが真の敵だと言うならば、最初から支那と事を構えなければ良かったじゃないか」旨の叱責を受けて終わった。
その結果、翌16日には「爾後国民党政府を対手とせず」の声明が発表され、和平交渉は完全に頓挫してしまう。日本側の条件が厳しくなったとはいえ、国民党政府側には自国の継戦能力を疑問視する勢力も少なくなかった。日本側が粘り強く交渉を継続し、寛容な姿勢を見せれば、休戦の糸口はまだつかめたかもしれなかった。この時むしろ和平交渉に誠意が無かったのは中国を蔑視し居丈高な態度をとり続けた日本の方だった。その姿はまさに今日の政府首脳のスタンスや国民世論とかぶっている。

なお、この当時の海軍省はいわゆる「海軍左派トリオ」と言われる、米内海相、山本次官、井上軍務局長から構成されていたが、日独伊三国同盟に反対したことで戦後高く評価されるものの、日華事変に際しては強硬派として戦争拡大に寄与していたのである。この意思決定の経緯についてはいまだ十分に検証されておらず、私も資料を探している。
posted by ケン at 12:29| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
日本ひとくくりでみたらあちこち火をつけてまわったら、本宅に延焼するんちゃうか?とさぞ慌てた事でしょう

火は怖いですから(^^;;
Posted by 石田博 at 2013年12月16日 17:50
「自分が火をつけてる」という自覚がないところに本質的な問題があるように思えます。野田・安倍政権も同じで、ホント日本の政治家は反省がないというか、歴史に学ばないですよね。
Posted by ケン at 2013年12月17日 12:37
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