2013年09月11日

「プラハの春」とカーダールの苦悩・上

米英仏(英は脱落?)によるシリア攻撃が準備される中、日本政府内でも対応が議論されている。米英によるアフガニスタンやイラク攻撃の際には「支持」を表明したものの、99年のコソボ紛争に際してのNATO軍による空爆に際しては「理解」にとどまっていた。「支持」にしても、アフガニスタンの場合は国際社会の大半が認めていないタリバン政権に対する攻撃であり、イラクの場合は小泉首相による強い政治的リーダーシップによるところが大きく、単純な評価は戒められるべきだろう。
とはいえ、コソボ紛争時のそれはNATO軍による軍事行動であり、いわゆる日米同盟とは別枠だったが、今回の場合はアフガニスタンやイラク同様、米国を中心とした多国籍軍による攻撃であり、「同盟国たる米国による武力行使を支持しないという選択肢は無い」という認識が政府および自民党の大勢を占めている。
彼らが言う「同盟国」というのはあくまで虚飾であって、「宗主国」と言う方が現実を表していると思われるが、巨大な軍事力の支配下にある「保護国」がどこまで外交上の自主権を持ちえるのかというのは、歴史上つねに大きな課題を抱えている。
そこで今回は、日本人の多くが「衛星国」と嘲笑してきた東欧諸国の例を挙げて考えてみようと思う。

「プラハの春」は1968年にチェコスロヴァキアで起きた改革運動で、その運動が急進化、共産党独裁の是正、検閲の廃止や報道の自由の導入、市場原理の導入などが掲げられるに至り、ソ連を盟主とするワルシャワ条約機構が武力介入して、改革の無効と共産党や政府人事の刷新が図られ、改革運動の担い手に対する弾圧が行われた。
私は同介入をめぐるソ連執行部内の意思決定過程について記事を書こうと調べており、そこで「プラハの春」に至る経緯についても触れようと考えていたが、それは後日に回して、今回はまず経緯を述べておくにとどめる。
今日では「プラハの春」は自由を希求する市民の声が高まり、それに抗しきれなくなった共産党で人事刷新がなされ、ドプチェックが共産党第一書記に選ばれて改革を推進したように考えられているが、現実にはそれほど単純な話ではなかった。

スターリン批判に始まる中ソ対立は60年代に入ると深刻さを増し、1962年に中印国境紛争が勃発してソ連がインドに軍事援助を行うに至って決定的となった。その影響で、中国に滞在していたソ連・東欧諸国人は帰国を余儀なくされ、巨大な中国市場からはソ連・東欧の製品が徐々に締め出されていった。
チェコスロヴァキアは東欧諸国の中でも、第二次世界大戦における戦火の影響が極めて小さかったため、戦前からの蓄積もあって産業振興や工業化が最も進んでいただけに、中国市場の喪失についても最大の損失を被っていた。その損失を補うため、新たな輸出先が検討されるが、ソ連・東欧ブロック内には中国市場の損失を埋めるだけの市場が無く、西欧に直接接するという立地条件もあって西欧諸国が最適と判断され、特に西ドイツが有望とされた。
そこで、西ドイツとの関係改善を図り、通商交渉に臨んだところ、東ドイツから強烈なクレームがつけられて頓挫してしまう。それと同時並行的に国内における部分的な市場原理導入が検討されるが、保守派のノヴォトニー執行部によってほぼ全否定されてしまう。これによって、財界や経済官僚の中で「反ノヴォトニー」色が醸成されていった。

当時のチェコスロヴァキア共産党は、保守派、改革派の他にスロヴァキア分権派(スロヴァキアの連邦化、自治権拡大を主張)があり、勢力的にはかなり拮抗していたと考えられるが、60年代半ばごろから経済情勢が深刻になるとともに保守派が弱くなっていった。後に「プラハの春」の顔となるドプチェックは「スロヴァキア共産党」の第一書記で派閥的には分権派に属しており、本来的には改革に対して中立的だったようだ。これは市場改革による恩恵がチェコに対して大きく、スロヴァキアに対してはより小さかったと考えられたためだろう。
ところが、ノヴォトニーを筆頭とする保守派は自国の連邦化にも強く反対しており、分権派と改革派の同盟を許してしまい、経済不振で財界と官僚を敵に回し、名誉回復の遅れから「スターリン主義者」との批判も強まって、1967年の段階で保守派の勢力は少数派になってしまっていた。こうした中で67年12月にブレジネフがプラハを訪問するが、ノヴォトニーを擁護することなく、お伺いを立てられても「それはあなた方自身が解決すべき問題だ」と答えたことで「お墨付き」が出た形となった。この時のブレジネフの態度が、後日チェコスロヴァキア人たちが「モスクワが改革を認めた」と勘違いしてしまう原型になってしまう。こうして68年1月のチェコスロヴァキア共産党中央委員会総会において、ノヴォトニーが辞任、スロヴァキア分派にして中立派のドプチェックがチェコスロヴァキア共産党第一書記に就任した。

とはいえ、当初党内的には多数派ではなかった改革派が、主導権を握るために改革を後押しする市民の声を利用し(悪く言えば煽動)、その改革派内にも温度差があって一体ではなかった。同時にスロヴァキア分権派も少数派であるが故に多数を維持するべく改革派に引きずられてしまう。事態が進むと、ドプチェックの出身母体であるスロヴァキア分権派の中からも、フサークを中心に急進的な自治要求をするグループが顕在化し、国家及び党内の統制が効かなくなっていった。3月までにはノヴォトニーを筆頭とする保守派は一掃、4月には改革派が主導して「行動綱領」が制定され、改革派が枢要ポストを占めた。検閲廃止と言論・集会の自由が認められたことから、潜行していた非共産党系諸党派の動きが活発になり、西側党派やユーゴスラヴィア共産党に接触を求める者もいれば、逆にソ連に内通するものもおり、他方ではスロヴァキア分離運動(連邦化)が強まっていった。

5月4日にはモスクワでブレジネフとドプチェックの会談が持たれたが、ブレジネフの追及に対してドプチェックは正面から答えずソ連側の不信が募り、同中旬にはコスイギン・ソ連首相がプラハを訪問するとチェコ側は改革に一定の歯止めを行うことを約束した。
にもかかわらず、事態の進行に伴い彼らの改革プログラムは急進化してゆくが、西独やオーストリアと国境を接し、東欧諸国の中にあってはスターリン以来優遇されてきたこともあって、ソ連を始めとする同盟諸国が自分たちの改革をどう見ているかという視点について、共産党幹部ですら非常に楽観的で、「我々の新たな社会主義の試みはきっと理解されるだろう」と信じていた。実際のところソ連や他の同盟国が懸念した非共産党系諸党派の動きも、その殆どが社会主義を堅持する姿勢を見せており、ただ改革の内容に温度差があっただけだったことが今日確認されている。

事態の推移を見守っていたソ連側としては、改革の「行き過ぎ」もそうだが、それよりもチェコスロヴァキア共産党とドプチェック・チェルニーク政権(党第一書記と首相、どちらも中間派)が党と国家の統制を失いつつあることに強い懸念を抱いており、共産党政権が空中分解してなし崩し的に臨時政府が成立して東側ブロックから離脱することを懸念していた。そして、それは極めて現実的な見通しだった(ソ連自身の最末期がこれに近い状況だった)。

6月末には改革派市民が起草した「二千語宣言」が各新聞に掲載されるに及び、ソ連および東欧ブロック内でチェコスロヴァキアの改革に対する疑念が現実的な脅威へと変わった。7月14日にワルシャワで開かれた東欧ブロック内の多国間会談に代表を送らず、ウルブリヒト(東独)やジフコフ(ブルガリア)などから武力介入を主張する声が上がった。
7月末にはソ連・チェコスロヴァキア国境のチェルナ・ナド・チソにて二国間会談が持たれ、ソ連側は「改革の停止と縮小」「ソ連軍の駐留」「共産党による統制の復活」などを要求するも、ドプチェックは改革の正当性を主張し事態の制御に自信を見せ、ソ連軍の駐留を拒否してしまう。最終的にはチェコスロヴァキア側は「共産党の指導的役割」「検閲の復活」「改革派の更迭」などを約束し、ソ連は軍事介入の決定を先送りした。ところがチェコ側はこれを「条件合意」とみなし、「ソ連指導部によって改革が認められた」と勘違いしてしまう。

8月9日と13日にはブレジネフが自らドプチェックに電話して、先の合意の実施を要求するも、ドプチェックは9月の臨時党大会で決定すると述べるばかりだった。だが、プラハからのあらゆる情報は、ドプチェック指導部が党内と政局を把握しておらず、臨時党大会でさらに改革派が強化される見通しを示していた。他方、チェコスロヴァキア共産党内の保守派から軍事介入を要請する文書が届くに及び、8月17日のソ連共産党政治局会議で軍事介入を決定、20日夜半国境に待機していたワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキア領内に侵入、全土を制圧した。
以下続く
posted by ケン at 12:55| Comment(2) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
昔プラハの春は研究しましたが、中国市場の件はノーマークでした。
ハンガリー事件からようやく傷が癒えてきたところで、迷惑だったでしょうね。
Posted by ケンケン at 2013年09月12日 13:11
私にとっても今回の再検証で得た成果の一つです。多角的な視点で全容が把握できるよう心がけました。
Posted by ケン at 2013年09月13日 17:00
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