2013年09月23日

「プラハの春」−ソ連の対応と誤算・上

「プラハの春」については、その経緯ハンガリーの対応について先に述べた。
重要な点は、1968年のチェコスロヴァキアの場合、自由を求めた市民が暴発したハンガリー動乱と異なり、経済改革と保守派の追放に始まったチェコスロヴァキアの改革が共産党による統制を失い、党内の分裂も相まって制御不能に陥り、共産党体制の瓦解とソ連・東欧ブロックからの離脱が真剣に危惧されたことから介入の決定がなされたことにある。その介入についても、ソ連側はチェコスロヴァキア側に対して再三にわたって警告を発し、ワルシャワ条約機構(WTO)加盟国の首脳会談を複数回行い(ドレスデン、ワルシャワ、ブラチスラヴァ)、調整に調整を重ねたものの、チェコスロヴァキア側の対応に全く変化が無かったため、決断を下している。本稿ではソ連側の視点で「プラハの春」を検証する。

ソ連崩壊前までの研究では、ソ連共産党政治局内で介入に前向きなKGBや軍部に対して、外務省や共産党国際局、そしてコスイギン首相らが反対あるいは慎重意見を述べるという構図が半ば定説化していた。だが、冷戦後に明らかにされた内部資料によれば、軍事介入に対して明確な反対があったという記録はなく、確認されたのはチェコスロヴァキア情勢が深刻であるという認識が共有されていたことと、ただ軍事介入のタイミングをめぐる議論があったということだった。

ただ、ソ連共産党政治局の下にチェコスロヴァキア問題を検討する「チェコスロヴァキア問題特別委員会(小委員会)」が設置されたのが介入の3カ月前となる1968年5月23日であったことは、3月23日に東独ドレスデンで開かれたルーマニアを除くワルシャワ条約機構5カ国による首脳会談が切っ掛けではなかったことを示している。
チェコスロヴァキア共産党は4月5日の中央委員会総会で「行動綱領」を採択、共産党独裁の是正や政治的自由を含む改革の方向性を定める。5月4日にドプチェックがモスクワを訪れてブレジネフと会談を持ち、ブレジネフは改革の「行き過ぎ」に懸念を表明し、党と国家の統制が保てるのか厳しく追及するも、ドプチェックが回答をはぐらかしたため、ブレジネフは不信を強めた。その後5月中旬にコスイギン首相(閣僚会議議長)とグレチコ国防相が相次いでプラハを訪問するが、この時にはチェコ側は改革に一定の歯止めを行うことを約束した。

ソ連側でも4月9日に中央委員会総会が持たれて決議が出されたが、ここではチェコスロヴァキアの改革に対する直接的な言及はなく、「反共産主義プロパガンダに従事している巨大機関が(中略)内側から社会主義社会を破壊しようと狙っている」という表現に止められた。これを受けての11日の政治局会議では、軍事介入案も出されたものの、国際的反響の方が重視され、ブレジネフの親書が送られるのみに止まった。その親書にしても、大使を経由しての外交ルートではなく、政党間交流のルートで手渡された。これは、当時の駐チェコスロヴァキアソ連大使のチェルボネンコがチェコの保守派、特に失脚したノヴォトニーと親しかったことまで考慮されてのことであり、ソ連共産党政治局が事態を表面化させずに穏便に済ませようとした証だった。
5月8日には、モスクワにチェコとルーマニアを除くWTO加盟5カ国の首脳が集まり会談が持たれる。そこでブレジネフがドプチェックとの会談について報告すると、ウルブリヒト(東独)、ゴムウカ(ポーランド)、ジフコフ(ブルガリア)らはチェコスロヴァキアに「軍事的援助」を与えるよう主張するが、カーダール(ハンガリー)は慎重な意見を述べた。結局ここで合意されたのは、チェコスロヴァキアで予定されていた軍事演習を前倒して実施することと、チェコスロヴァキア共産党内の「健全勢力」を支援することだった。

こうした経緯を受けて、5月23日のソ連共産党政治局会議でグレチコ国防相がプラハ訪問について報告すると同時に、チェコスロヴァキア問題について情報を集約し対策を検討する小委員会が設置された。
この経緯から推察されるのは、「行動綱領」の内容とチェコスロヴァキア側の対応の不安・不誠実さにソ連側が危惧を現実のものと実感したということである。だが、5月8日のモスクワ会談でも明らかなように、軍事介入により積極的だったのは東独、ポーランド、ブルガリアであって、ソ連は「もう少し様子を見よう」とむしろ宥める役回りだった。

ここでブレジネフが介入を急がなかった背景について考えてみたい。「プラハの春」の改革の第一歩は、1968年1月3日に始まるチェコスロヴァキア共産党中央委員会総会で第一書記のノヴォトニーが辞任し、ドプチェックが就任したところにある。だが、ノヴォトニーはすでに前年の67年10月の総会ですでに批判の嵐にさらされていた。
中ソ対立の煽りを受けて経済が停滞する中で、経済改革にも否定的だったノヴォトニーら保守派は60年代半ばごろには勢力を減退させつつあった。だが、もう一つの要素として、チェコスロヴァキアでは「脱スターリン化」が不十分だったことが挙げられる。チェコスロヴァキアにおいてポーランドにおけるポズナン暴動(1956年2月)やハンガリー動乱(同年10月)に相当する動きが無かったことは、一つには経済が順調だったためであるが、その否定的な側面として48年の共産党政権の成立からスターリンの死までになされた大粛清に対する名誉回復が殆どなされなかったという問題があった。そして、その粛清の実行者の一人がノヴォトニーその人であったことも解決を難しくしていた。つまり、1967年の時点でノヴォトニーら保守派は、経済改革で財界を、名誉回復(政治改革)で一般党員を、中央集権化でスロヴァキア分権派を敵に回して孤立していた。にもかかわらず、あらゆる改革を拒否し、67年10月に開かれた中央委員会総会においてドプチェック(当時スロヴァキア共産党第一書記)が提案した穏健な改革案を全否定した上に罵倒してしまう。これによって総会はさらに大荒れになってしまうが、「ロシア十月革命50周年式典」への出席を理由にノヴォトニーが強引に閉会してしまい、中央委員の不満が一般党員や大衆へと拡散してしまった。10月末には学生寮の生活改善を訴える学生デモが起きるが、一部が政治要求を掲げたことを理由にノヴォトニー政権が警官隊を動員して武力鎮圧したことも、ノヴォトニー政権に対する評価を決定的に悪くしてしまった。
(以下続く
posted by ケン at 20:00| Comment(0) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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