2013年05月03日

ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程・上

ロシア研究者、それも国際政治史の専門家を除くと、「アフガニスタン侵攻」として定着してしまっているが、西側の政治宣伝がそのまま歴史的評価になりつつある一つの例と言える。今日の一般的な評価も、「ロシアの伝統的な南下政策の一環」「イスラム教の脅威に対する先制攻撃」といった文脈で語られている。
しかし「侵攻」の定義は難しいものの、少なくとも当時のソ連指導部にはアフガニスタンの主権、領土、政治的独立を脅かすような野心は有していなかったことが、ソ連崩壊後に公開された資料で明らかにされている。現実のソ連指導部はアフガニスタンを領有するつもりも、傀儡政権を打ち立てて属国化するつもりもなく、(出来の悪い)友党を救い、政治的混乱下にある同国を安定させ、安定した国境と国際環境を保持することを目指していた。
もう一つ今日に至るまで信じられているのは、「ソ連はハナから南下の機会を伺っており、チャンスを捉えて侵攻を開始した」というもの。だが、最新の研究はこれも否定している。現実には外務省と参謀本部が介入に明確に反対、最高指導層は悩みつつもギリギリまで介入を否定し続けていた。それが何故介入を決断させるに至ったのか、最新の研究を踏まえて私なりに解釈してみたい。

19世紀末の段階でアフガニスタンはイギリスの保護領であり、ロシア帝国もまた英国との外交調整を経て「勢力圏外」と認識していた。ところが20世紀に入って、アフガニスタンが外交権を回復し、ロシア革命が起きてソ連が誕生すると、アフガニスタンはソ連に傾斜、ソ連もイギリスとの緩衝地帯をつくるためにこれを支援していった。但し、全般的にはアフガニスタンは全方位的な外交を展開し、「やや親ソ、非英」という立場を貫く。
二次大戦後にパキスタンが独立するとまた状況が変化する。パキスタンが米英側への帰属を明確にし、緊張が生じた結果、アフガニスタンは再びソ連へと傾斜していった。当時、アフガニスタンは君主制ではあったものの、ソ連は軍事と教育(人的支援と交流)を中心に支援の度合いを高めていった。ソ連への傾斜を見たアメリカは、パキスタンに対する支援を強め、加速度的に緊張が高まっていった。

1960年代になると、ザーヒル・シャー親政の下で立憲君主制が成立し、均衡外交に方針転換し、対米関係の修復が進められた。この頃に共産主義を奉じるアフガニスタン人民民主党(PDPA)が結成される。ところが、1973年に従兄のダーウド元首相が国王不在の隙を見てクーデターを起こし、王制を廃止、共和国を宣言して大統領に就任する。当初はソ連寄りと見られたダーウドだが、じきに独自路線を進むようになり、当初連携していたPDPAを弾圧、自らの国民革命党による一党独裁を宣言した。
だが、1978年4月にPDPAの幹部暗殺や逮捕をきっかけに、PDPAシンパの軍部がクーデターを起こして、ダーウドを暗殺、同政権は崩壊してPDPA政権が樹立し、書記長のタラキーがアフガニスタン民主共和国の大統領に就任した。

ところが、PDPAは二つの派閥による深刻な対立を内包していた。改革派軍人を中心に、都市インテリ層から地方の地主層まで支持を広げている穏健改革を志向するパルチャム(旗)派と、ソ連帰りのマルキストが主導し下層階級から支持されたハルク(人民)派である。
人数的にはパルチャム派の方が何倍も多かったにもかかわらず、政党の指導層にはハルク派が多かった。同政権で1代目と2代目の大統領となったタラキーとアミーンは二人とも少数のハルク派だった。

クーデターによって成立したPDPA政権は基盤が脆弱で、そもそもPDPAには党員が2〜3万人しかいなかったと見られている。そのため政権成立直後から、地方では不穏な動きがあり、イスラム聖職者と地方豪族による抵抗運動が組織された。
にもかかわらず、タラキー政権は男女共学制を始めとする教育改革や土地開放政策を強行、国内で強い反発を生み、統治力を低下させてしまう。そして、急進改革に異を唱えたパルチャム派に対しても、弾圧・粛清で対応したため、PDPAは政党としても求心力を失ってしまう。さらにはハルク派内でも弾圧に消極的なタラキー大統領と独裁的志向のアミーン首相が対立、政権内でも統制が失われつつあった。破綻国家に見られる典型的な形と言える。
特に急進的な土地改革は十万人以上、あるいは数十万人の難民を生み、これをパキスタンが後押しし、アフガニスタン・ゲリラ(ムジャヒディーン)の基盤となってしまう。

PDPA政権は少なくとも外交的には「非同盟」を志向し、当初はアメリカとの関係にも配慮していた。何と言っても、首相・大統領を務めたアミーンは米コロンビア大学出身のカブール大学講師だった。
とはいえ、実際の政権運営はうまく行かず、財政面でも技術面でもソ連の支援が不可欠で、国内の不穏に対しても国軍だけでは対処できず、その国軍も信頼度が低かったため、結局のところソ連への依存を深め、1978年12月には友好善隣条約が締結された。そこには、アフガニスタンの非同盟路線を尊重する一方(第5条)、「合意によって、両国の安全、独立ならびに領域の統合を保全するために必要な措置をとる」との条文(第4条)が盛り込まれた。これが後日、ソ連による軍事介入の根拠となる。
しかし、ソ連は最初からアフガニスタンを手厚く支援するつもりだったわけではない。少なくとも国内の不穏が高まる78年前半までは、アンゴラやモザンビークなどアフリカの社会主義政権に対する支援(経済、軍事、治安)の方が比重的に大きかった。また、プラウダ紙がアフガニスタンを「社会主義の友邦国」と呼び始めるのは79年春のことだった。つまり、ソ連的には当初「迷惑な隣人」に過ぎなかったものが、段々「出来の悪い弟」になっていったと言える。

79年に入ると、まず2月に米国大使がテロリストに誘拐、殺害されてしまう事件が起き、3月にはヘラートでアフガニスタン国軍の一部が反乱、市民が呼応して暴動となり、300人以上のソ連人が殺害されてしまう。ソ連にその気があったならば、この時点で軍事介入が行われたはずだった。しかし、ソ連の対応は冷静で、8月に軍事顧問団を増強、ソ連大使館警備名目でKGBの特殊部隊を大使館員に偽装して送り込んだだけだった。
ヘラート以降も暴動が頻発するが、武力鎮圧に消極的なタラキーと積極的なアミーンの対立が決定的となり、79年9月には宮廷クーデターでアミーン派が蜂起、タラキーを殺害し、大統領に就任した。
アミーンは早速反政府運動に対して過酷な弾圧を進めるが、逆にイスラム聖職者からジハードが宣言され、南部州の一部がゲリラに制圧されてしまう事態になった。10月には再び国軍の一部による反乱が起き、首都カブールさえ危うい事態となり、アミーン政権もまた限界に達しつつあった。
(以下続く
posted by ケン at 22:37| Comment(0) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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