2013年06月06日

苦悩を抱きしめて‐離婚もガマン?

某芸能人妻の自宅での姦通が露見して離婚する事件があった。
報道によれば、仕事から帰ってきた夫が、妻が姦通相手と同衾しているところに出くわしたというのだから、江戸時代なら刃傷沙汰にもなりかねない話であるが、夫はそのまま出て行って、後日話し合って離婚が成立したという。
夫を「偉い、よく我慢した」と言うのはた易いが、その内心はどうであろうか、個人的には余りにも人情味の無い、味気ない結末に思えて仕方がない。

現代は「生きることを強要される社会」「苦悩をひたすら我慢する社会」と定義することが可能だ。
室町〜戦国期の法慣習であれば、姦通が露見した場合、姦通を認めない夫は妻の姦通相手を殺害する権利を有するが、姦通相手を殺害した場合は自らの妻をも殺害しなければならないのが一般的だった。これは姦通相手の一族が異論・反論を唱えないようにするための「両成敗」的措置だったと考えられる。江戸期に至っても、妻の姦通現場に出くわした夫には生殺与奪の権限が認められていた。もっとも、実際に相手方を殺害してしまった場合は、相手方の一族が騒ぎ出し、なかなか「殺害が認められているから」で済まされるわけでもなかったようだ。「やり過ぎ」の非難はあるとはいえ、法律上、慣習上は姦通相手と姦通した妻を殺害することに問題は無かった。
件の芸能人夫も、200年ほど昔であれば、その場で刀を抜いて同衾する二人を斬り捨ててしまっても、あとは奉行所に報告するだけで済んだはずだった。むしろ、この場合「見事に密通を処理した」として社会的な賞賛に浴する可能性が高かった。

延享年間の長崎奉行所の調書には興味深い記録がある。
妻と男の密通現場に直面した夫が刀の柄に手を掛けたものの、号泣して詫びる妻を見て思い直し、男を追い出した上で、妻を実家に返した。その5日後、再び密会現場を遭遇してしまった夫が、今度は姦通相手を斬り捨てたものの、妻は失踪してしまった。これに対して、長崎奉行は、夫が最初の時点で二人を討ち取らなかったのは私情に流された結果であり、2度目に妻を討ちもらしたのは武道不覚であるとして、夫に30日の自宅謹慎(押込)を、不義の妻を戻された父親は監督不十分として30日の入牢と過料300貫文を科している。300貫文は50両近い金額であり、下級武士の年収を優に超すものだ。

江戸期には姦通罪は訴えがあった場合「両者死罪」が原則とされたが、法改正で「非人手下」や「重追放」になったりもしていて今一つ安定しない。そもそも姦通罪自身が親告罪であるため、実際には「内済」と言って和解で処理するケースが多かったようだ。庶民レベルの場合、和解金の相場は大体5〜7両程度、現代の感覚では100〜150万円といったところだろうか、庶民としてはそれなりの額だが江戸期に結婚できる階層と考えれば妥当なところだったのだろう。

フェミニズムの視点からすれば「女性蔑視も甚だしい」ということになるのだが、現実には必ずしも差別され放しだったわけでもなかった。戦国大名の伊達氏の分国法『塵芥集』にこうある。
妻・夫いさかいの事。その妻たけきにより、夫追い出す。しかるに彼の妻、夫に暇を得たるのよし申す。あらため嫁がんことを思う。(中略)しかるに、前の夫、なかばは、いまさいあい(最愛)の夫に遺恨あるにより、離別せざるよし、問答に及ぶ。

夫婦喧嘩についての法だが、妻の恐ろしさに堪えかねた夫が、妻を追い出した。しかし、妻の方は「ラッキー」とばかりに、お気に入りの男の下へころがりこんでしまう。元夫は未練たらたら、元妻に対してストーカー行為に及ぶ始末。分国法は、「離縁を申し渡した以上、前夫の罪科は明白」とばかり、ヘタレ男につれない判決を示している。

享保年間には麹町に住む足軽の家で、30代半ばになる妻が居候していた友人と懇意になり密通を重ねた。時を経て姦通現場を抑えた当人は、友人に対して「妻が欲しいならくれてやるから出ていけ」と伝え、妻には「離縁してやるからそいつとどこへなりと行け」と叫んだところ、妻が逆ギレ「あたいに行くところなんざあるもんか、腹が立つなら斬るなり刺すなり好きにしやがれ」と居直ったため、友人は蒼くなって遁走、被害者であるはずの夫もどうにも出来なくなって夜半に失踪してしまったという。
同じく享保年間、神田三河町の質屋の女房30歳が16になったばかりの手代と懇意になり、夫が怪しんで問いただしたところ妻は「あんな子どもと通じるとかあり得ない」と答えたものの、その夜半には手代と駆け落ち、しかし途中で手代が怖くなって逃げそうになったため、これを刺殺、本人も自裁して果てている。

近代国家と社会は感情を抑制すること前提に法支配を成立させている。
妻の姦通現場に直面した夫が感情を爆発させて、姦通相手や妻に暴行を加えたり、傷害を負わせたら一方的に犯罪者として処断されてしまう。しかし、常識的に考えて、結婚の定義には「配偶者の性的身体使用の独占」が含まれている以上、それに違背する行為について何の咎め立てもないのは「契約の不備」と言えないだろうか。その不備を補うために、和解と離婚調停があり、時として慰謝料が払われる訳だが、重大な契約違反をカネで解決する他ないというのは被害者的には感情の持って行く先が無い。有り体に言えば、パートナーの信用を裏切り大きく人格を傷つけた姦通の当事者はいくばくかの金を払って「はい、さよなら」と言えるが、被害者はただ和解に応じるか、なすすべなく金を受け取って離縁する他ない。つまり実質的に泣き寝入り以外に選択肢は無い。
逆に当事者の立場に立った場合、復讐・報復が禁じられている以上、相方に姦通を許容させるか、離縁を認めさせるほかなく、感情論の上では姦通を居直る選択肢しかなくなってしまっている。
近代社会はヒューマニズムの上に成り立っているが、そのヒューマニズムは生身の人間性を排除した合理性(人道主義)に倫理と秩序を求めている。ところが結婚は、本来動物的な営みを社会秩序に換骨奪胎した制度に過ぎず、本質的に相いれない部分が生じる。その典型例の一つが姦通なのだろう。

人がオペラや歌舞伎に萌えるのは、血生臭いまでの人間的な営みが昇華されているからであって、ヒューマニズムを謳歌しての故ではない。
翻って件の芸能人夫が妻の姦通現場に直面し、理性を保ったことはヒューマニズム的には最高度の称賛に値するが、そのまま慰謝料をもらって(?)離婚してしまったことは果たして「その結婚は何だったの?」「人間としてどうよ?」といった疑問を拭いきれずにいる自分が存在する。
現代はどこまでも人としての感情を抑制することが求められる時代であり、果たしてそれが「自由」なのか「人のあり方として正しい」のか改めて考えさせられるばかりである。

なお、本稿にはいかなる主張もない。ただ「人間も遠くまで来たもんだ」という感慨があるのみだ。
posted by ケン at 12:45| Comment(3) | 恋愛、結婚、魔術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
現在の日本は機械仕掛けのカラクリのような物ですからね(感情のままに不倫相手はアレですが気持ちは分かりますけど)感情を剥き出しにすれば危ない社会不適合者と言われてしまうキツい世の中です
生き残れるのは感情を押し殺し平気で偽りの感情を作くれるようなひねくれ者しか生きづらい世の中です
(エリート官僚やハゲタカ証券マンや冷徹な会社経営者など)
Posted by ドーベン・ウルフ at 2013年06月06日 20:48
この記事を見て『不倫のDNA―ヒトはなぜ浮気をするのか』(青土社)という本を思い出しました。 おススメです。
生物学の本を読むと、人間社会を客観的に見ることができますね。
Posted by 学鳩 at 2013年06月06日 22:09
喜び以外の感情が否定的に受け止められ、表に出すことがはばかられ、感情を押し殺しながら生きていかねばならない現代が果たして「人間的」なのかということです。
自民党政権でますます拝金主義と非人間的な政策が進むでしょうね。

『不倫のDNA』面白そうですね。どこかで読んでみたいです。生物学はたまに読むと刺激的ですね。
Posted by ケン at 2013年06月07日 12:11
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: