2013年07月24日

和平条件としての沖縄と「固有本土」

第二次世界大戦の終戦交渉の過程を見ると、追い詰められた帝国政府要人たちが沖縄をどのように捉えていたのか良くわかる。

1945年6月8日の御前会議において、「今後採るへき戦争指導の基本大綱」が正式決定され、「七生尽忠の信念を〜以て飽く迄戦争を完遂し」と謳った強硬方針が確認された。ところが、同月21日、沖縄の第32軍全滅を受けて、指導部の戦意は急速に低下する。三日前の18日に開かれた戦争指導会議構成員会では、ソ連の仲介によって和平交渉に入り、国体護持を前提とした和平を実現することが「適当である」とし、7月上旬までにソ連の態度を確認した上で、速やかに戦争終結の道筋をつけることで大筋の合意がなされた。
ソ連はすでに対日参戦を決定していたが、その企図は隠蔽し、むしろ対日参戦が実現する前に日本が和平交渉に進まないよう、日本側の意図を理解した上で日本側に期待を抱かせつつ、時間稼ぎを行った。

7月8日、東郷外相は軽井沢に滞在中の近衛元首相を訪ね、和平交渉の対ソ特使を依頼、内諾を取り付ける。9日には、昭和天皇が鈴木首相にソ連仲介による和平交渉の促進を督促。翌10日夜、最高戦争指導会議構成員会が開催され、「遣ソ使節派遣の件」が決定された。
12日には近衛が宮中に呼ばれ、天皇から直々に対ソ特使の要請がなされた。軍の反発を想定した鈴木首相と木戸内府による画策だった。
近衛はその日のうちに側近とも言える酒井鎬次中将を呼び出し、近衛を交えて数人で和平交渉案を作成した。交渉案は「要綱」と「解説」の二部からなり、前者は天皇に奏上して御璽を受け、後者は木戸の了解を得て印をもらう予定だった。

その和平案の条件は、第一に「国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること」とし、第二は「国土に就いては、なるべく他日の再起に便なることにつとむるも、やむを得ざれば固有本土を以て満足す」であった。
「解説」によれば、「国体の解釈については皇統を確保し天皇政治を行ふを主眼とす」とあり、但し最悪の場合は昭和帝の退位もやむを得ないとしながらも、それでも「自発の形式をと」るとした。
さらに領土について、「固有本土の解釈については、最下限沖縄、小笠原原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とすること」と説明している。

この条件は、つまり天皇制と皇統の存続が認められない限り和平はあり得ず、本土決戦まで覚悟していたことと同時に、沖縄は日本の「固有本土」ではなく、和平条件として「捨て」うる存在であったことを意味している。
連合軍に占領された地域の返還を和平条件に入れることは、当事者の立場に立つならば現実的ではなかったのだろうが、少なくとも意識の上では沖縄は帝国の本土ではなく、あくまでも明治維新後の帝国主義戦争によって獲得した「帝国領外地」の一つに過ぎなかったことを示唆している。だからこそ和平条件の一つにすることができたのだ。

また、「千島の南半分」とは今日で言うところの「北方四島」を示す。元々北方四島のうち歯舞以外の三島は行政区分の上でも「千島」に含まれており、辛うじて色丹のみが北海道に編有されたりしている。少なくとも国後と択捉が「北海道に付随する島であって千島列島に含まれない」などという解釈は、戦後日本が日ソ共同宣言を反故にする前後から始められた主張でしかない。

いずれにせよ、今日日本政府や保守勢力が主張する「固有の領土」とは、「固有本土」を護持するためのカードに過ぎず、「固有」なる概念がいかに独善的かつ曖昧なものかということであろう。同時に在日米軍基地の大半が沖縄に集中している現状について、本土人が全く無関心であることも、沖縄が日本の「固有本土」ではないことに起因することが容易に推測されよう。

【参考】
『近衛文麿』 矢部貞治 弘文堂(1952)
「『高木惣吉資料』にみる日本海軍の終戦工作」 工藤美知尋 日本法学第49巻所収

【追記】
1874年の日本による台湾出兵と79年の第二次琉球処分によって、日清間の緊張が高まり、清朝では出兵も検討されていたところ、米国のグラント元大統領が仲裁に乗り出して、北京で琉球帰属問題の交渉が持たれた。この時の裁定案は、沖縄本島以北を日本、先島諸島を清が領有するというもので、日本側も了承し合意に至ったものの、調印の直前に清朝内部で反対論が噴出、調印には至らなかった。最終的に琉球の帰属が確定するのは日清戦争を経て下関条約でのことであり、つまり沖縄諸島は1895年まで領土係争地だったことを意味する。明治を知るものであれば、沖縄が「日本固有」たりうるはずがないことは常識だったのである。なお、沖縄で徴兵が開始されたのは1898年、衆議院議員の定数が割り振られたのは1912年のことだった。
posted by ケン at 12:59| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>「固有」なる概念がいかに独善的かつ曖昧

というのには全面同意。

ただ、割譲するなら千島より沖縄等というのは単純に面積の多寡での判断だったのでしょう。南千島は国後だけで沖縄本島と同等。

宮沢賢治は、作品中で北海道を「植民地」と記述しています。
それどころか、北海道の人は未だに本州などのことを「内地」と呼んでいます。
Posted by 内地人 at 2013年07月25日 10:10
というよりも、単純に沖縄がすでに連合軍の占領下にあり、占領地を返してもらえるとは全く思っていなかったからかと思います。

宮沢がそんな記述をしていたとは知りませんでした。ありがとうございます。
Posted by ケン at 2013年07月25日 12:27
出典:「或る農学生の日誌」・宮沢賢治
> いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこさえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ。


函館本線の函館→小樽間の車窓からの風景描写と思われます。

なお、「旭川」という作品では「植民地風」という語を2回使っています。

レスに対するレス禁止のご方針に反するかと思いますが、単なる情報提供ということでご容赦願います。
Posted by 内地人 at 2013年07月26日 15:30
いえ、情報提供ありがとうございます。参考になりました。

夏目漱石の『三四郎』の冒頭、熊本から上京する汽車の中で席を同じくした男が、日本の貧相さを自嘲気味に話すのに対して、三四郎は日露戦役の戦勝を念頭に「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と応える。だが、男はしれっと「滅びるね」と言ってのけて、三四郎を面食らわせる、というシーンがありましたが、こうしたことは今日では殆ど隠蔽されてしまっていますね。これも大きな情報操作の一つなのでしょうね。
Posted by ケン at 2013年07月27日 21:26
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