2013年03月26日

気候変動に見る源平合戦

国会で地球温暖化対策法案が審議されているが、どうにも「いまさら」観が否めない。
北極の氷が溶けていると大騒ぎする一方、昨年と今年の冬は東日本の平均気温は1度前後平年を下回り、北極圏に近いロシアの小村オイミャコンでは今年一月に氷点下71度を記録した。東北の積雪は凄まじく、除雪費用予算があっという間に枯渇して国から補填される有様だった。
ただ、地球全体としては気温の上昇傾向が続いているようで、砂漠の拡大や氷河の融解が進んでいることも確かだ。しかし、これも人口増に伴う森林乱伐や灌漑促進などの要素が大きく作用している。例えば中国東北部(満州)の人口は、辛亥革命以前は清朝が「聖域」として漢族の移住を認めなかったこともあり1500万人程度だったが、100年後の今日には1億2千万人にもなっている。黄砂の原因が急激な人口増に伴う乱伐と灌漑に求められるのは当然だろう。
最近では「全体の温暖化による局所的な寒冷化はあり得る」という説明がなされているが、いずれにしても地球全体が一個の生物のようなもので気候も常に変動するものだということを言っているに過ぎず、私的には「人が輩出した二酸化炭素による温暖化」なる仮説は利権以外の何物も感じない。
それはそれとして、日本史を概観すると常に気候が変動し、歴史に大きく作用していることが分かる。

大和朝期から平安初期にかけての日本は寒冷期にあったが、8世紀半ば頃から気温が上昇を始め、その後100年間で平均気温が2度前後も上がったとされている。その結果、西国では旱魃、洪水、蝗害が増える一方、関東や東北での収穫が増え、大量移住、大開墾期を迎えた。
平将門の乱に象徴されるように、東国で反乱が頻発したのは、東国で開墾が進み、関東が「日本の穀倉地帯」としての地位を確立する一方で、西国では農業生産が減少したために国家収入が減り、その対処として朝廷が土地国有化と徴税強化を進めたことに対して、東国武士が独立の意志を固めたことに起因した。前九年の役などの奥州の争乱も、陸奥における豊作の連続と朝廷による徴税強化が土豪たちの独立意識を高めた結果起こったものだった。奥州や東北と言うと、貧困のイメージを抱いてしまうが、それは江戸から昭和にかけて築かれた印象に過ぎず、平安中期から鎌倉期にかけての奥州は日本で最も豊かな土地の一つで、その象徴が中尊寺だった。「奥州十七万騎」は伊達ではなく実力だったのである(もちろん実数は10分の1以下)。
少し先の話になるが、治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)において、最初に挙兵した源頼政は、以仁王を擁する摂津源氏当主(清和源氏嫡流)という最良の条件でありながら、本人が動員できたのはわずか150騎に過ぎなかった(50騎という数字もある)。しかし、その後挙兵した頼朝は、伊豆の流人という立場にもかかわらず100騎近く集めている(実際はもっと少なかったとは思うが)。

平治の乱において、東国武士団を率いる源義朝の圧倒的な武力によって散々な目にあい、調略と外交を重ねてようやく乱をねじ伏せたのが平清盛だった。同乱の六波羅の戦いで清盛の嫡男・重盛は500騎を率いながら、義朝が嫡男・義平と東国武士17騎に蹴散らされた挙句、7度も斬りかかられ、這う這うの体で逃げ出すありさまだった。
清盛は東国の豊かさと圧倒的な武力を目の当たりにして、農業では西国は東国に勝てないことを悟って商業と貿易に軸足を移す。瀬戸内海の交通網を整備し、九州と畿内を結ぶ内国貿易網を築き上げた上で、日宋貿易を進め、奥州藤原氏の独立性を認めつつ金と馬を収めさせて国庫に財を積んだ。
平清盛は織田信長に並ぶ天才だったが(情には脆かった)、信長と同じく後が続かなかった。平氏の重商政策は平氏と朝廷を富ませたものの他の武家から見ると「それだけ」に過ぎなかった。言うなれば今日のTPPに近いものがあるかもしれない。瀬戸内海の物流が整備されたことで東国の価値が相対的に下がるとともに、西国の武士も裕福な海運系と貧しい農業系に二分され格差が生じ不満が高まり、清盛が病に伏すと反乱やクーデターが露見し始める。
清盛の死もまた当時の温暖化を象徴するマラリアによるものだったことは興味深い。そして、平家の没落が始まる。

治承・寿永の乱の発端となる以仁王の挙兵は治承4年6月(1180年)のことだが、この年は雨が極端に少なく、早くから旱魃が始まり、西日本では全面的に飢餓が発生する。鴨長明の『方丈記』にも「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と記されている。
「頼朝挙兵」の報が福原に入ったのが9月で、平維盛を主将とする7千の追討軍が組織されるも、兵も兵糧も集まらず、指揮系統の混乱もあって進発は10月後半になってしまう。しかも、兵糧が不足したまま東に向かったため、行軍先でも飢饉で兵糧が調達できず脱走が相次ぎ、11月頭に駿河に入った頃には半分以下、富士川に到達した頃にはわずか2千人になってしまっていた。対する頼朝は飢饉と無縁の東国で2万以上の兵を集めて鎌倉を進発し、富士川に着いた時には2万5千人以上に膨れ上がっていた。
『平家物語』などの影響で「水鳥が飛び立つ音に驚いた平家軍が敵の夜襲と勘違いして恐慌状態に陥り逃げ散った」と一般的に思われてしまっているが、現実にはハナからまともな戦闘になり得なかった。実際には平家方は戦闘前退却を行ったと考えるのが妥当だろう。

この「養和の大飢饉」はさらに数年続いたため、平家方は常に兵糧不足にあえいだが、同じ理由で源氏方も飢餓状態にある西国への出兵を取りやめて、東国の完全平定に力を注いだ。
その状態に耐え切れなくなり、先に上洛を決行したのが木曽(源)義仲だったが、3年後の1183年に至っても飢餓が続いており、当初15万人いた京では4万以上が餓死していたところに5千とも1万とも言われる源氏軍が侵攻してきたため(7月)、あっという間に掠奪が横行するところとなった。
『平家物語』には、朝廷からの狼藉停止令に対して義仲が「兵糧が無いのだから若い者がどこぞで調達することの何が悪い!大臣家や内裏に押し入った訳でもあるまい!」とうそぶくシーンがある。この時も義仲は、連携の悪い摂津源氏や美濃源氏の兵を率いて平氏軍と一進一退の攻防を繰り広げており、だからといって従兄の頼朝が兵糧を送るでもないだけに、義仲の悪評はいささか一方的であるように思われる。
京・畿内での義仲の悪評の高まりと後白河法皇の要請を受けて、頼朝が重い腰を上げて上洛を開始したのはこの年の末のことであり、法皇の院宣と収穫を待って満を持してのことだった。
平氏はその後も一年にわたって瀬戸内海の制海権を確保して戦いを続けている。

面白いことに平安中期に始まった温暖化は鎌倉初期で終わってしまい、日本はまた少しずつ寒冷に向かう。
鎌倉幕府崩壊の直接的要因は蒙古襲来による財政破綻と政治的統制の破綻にあったが、間接的には気候の平準化によって西日本の農業が復活し、東西の武力が均衡するに至ったことが、西国武士の鎌倉幕府(東国政府)に対する不満を高めたと言える。
そして、次の気候の大波は15世紀から400年に渡って続く寒冷期であり、それは応仁の乱となって日本を直撃するが、別の機会にしたい。
posted by ケン at 20:00| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>「人が輩出した二酸化炭素による温暖化」なる仮説は利権以外の何物も感じない。

全く同感です。
地球の気温の変動は、人間の活動によって影響を受けることはなく、専ら太陽活動の活・不活の変動によっていると思います。
地域ごとの変動は、地球全体の変動期においての大気や海流の大循環のルート等の変化によりおこるような気がします。

ちなみに、温暖化よりも寒冷化のほうが人間には致命的な影響を与えるでしょうね。食糧生産的に。
温暖化しても、作物の品種改良で対応できるでしょうが、水が固体になる温度下では、いかなる植物も生育はできないですから。

地球誕生以来の歴史の中では、地球上に全く氷が存在しないくらいの高温期も、水が全て凍結して液体では全く存在しなかった低温期もあったようです。
Posted by 家庭菜園家 at 2013年03月27日 11:56
日本の戦国時代、欧州の16〜18世紀(特に三十年戦争)を見れば、寒冷化が食糧不足と紛争を誘引することは明らかです。
もっとも、今日でも温暖化に伴う真水不足が深刻化していますが、それも人口爆発があってのことでしょうね。
島嶼国である日本は海流の変動を受けやすいだけに気候変動の影響も大きいのかもしれません。
Posted by ケン at 2013年03月27日 13:05
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